評伝( 一)       評論をまじえた伝記

 

   幼年時代
 
    
           小杉町周辺図部分
               (拡大可能)
            小杉町役場提供
郷倉千靱(本名与作)は、1892(明治25)年3月3日
富山県射水郡小杉町(現在の富山県射水郡小杉町三ヶ白銀
町)に生まれました。「現射水市」
射水郡は富山湾沿いの西半部に位置し、地名は古く『万葉
集』にも現れます。
現高岡市には国府が置かれ、万葉歌人の大伴家持はここに
国守として赴任しました。鎌倉期には放生津に守護代の本拠
が設けられ、射水は越中の政治の中心でした。
戦国時代になると、この地は上杉・武田両氏から侵略されま
すが上杉の配下から織田の勢力化に移ったのち、豊臣家臣,
前田利家の所領となりました。
近世には氷見が漁業基地として、また米などの集散地として
栄え、城下町高岡とともに産業が発達しました。
なお千靱の生誕地である小杉町には、礪波射水御郡奉行が置
かれて行政にあたりました。
 
小杉町は下射水平野の中央部にあり、北部には平野、南部には丘陵が広がり町の中央部に下
条川が流れています。また富山と高岡の中間に位置し、古くから交通の要衝でした。
江戸期には醸造業や売薬業が盛んであり、文化13年には小杉焼の窯も開かれました。一時
廃れていた、この小杉焼の再興に努めたのが郷倉千靱その人でした。
明治末に鉄道が通った小杉は、近代化も早く、開けた町として明治維新以後、1000戸前後の
戸数を数えています。
 
千靱の家は、小杉町の中心部にあり、呉服商を営む父、


千靭生誕の地

與八郎と母、志の次男として生まれました。兄は貴一郎
といいました。少年、千靱がのちに日本画家として大成
するようになった基には、加賀友禅の流れをくむ絵画的
な意匠の呉服を扱う家庭環境にありました。
日々の生活のなかで審美眼を身につけてきた千靱は、お
のずから芸術的な感性を養うことになったのです。
 
 
 
   
また、とくに祖母からかわいが

千靱自身は、少年時代を回顧して
られた千靱は信心深いこの祖母 「餓鬼大将だった」と述懐してい
から信仰心を培われました。 ます。下条川は濁った土臭い川で
祖母とともに仏壇の前に並んで したが、「子供の頃には随分いろ
読経したり、供養する姿を彼は んな魚族が群れて釣や手綱などの
みごとに絵に描いて、家族を驚 遊びに夏の日も、いと短い気がし
かせたりしました。 た。山河豊かな環境で川遊びなど
自然とのふれあいは日常的なもの
だった」と、『吾郷日記』に記し
ています。

 

     
 


小杉小学校の現在と昔

 
     


現在の小杉小学校


旧小杉小学校に植わってた
    「うらじろ樫」


旧小杉小学校の跡地に
建てられた福祉会館

     
「少年時代の千靱(与作)は私の祖父とよく戦争ごっこをやっていたそうです。ちょうど日
清、日露戦争の頃だったのでしょう。千靱がいつも大将で、年下だった祖父や他の子は一平
卒の役回りだったと聞いています」
(小杉小学校で千靱の後輩だった高畠氏の孫ー高岡高校教諭・高畠氏回想)
     
当時の小杉小学校での受け持ちの先生が千靱に合いに来られた時の話ー学校では好きな科目
は良く出来たが興味のない科目は全く勉強しなかったそうです。(和子証言)
 
     
   

美術エッセースト小笠原洋子

   

第一回評伝(20044月25日発行)

     

 

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