評伝( 十) | 評論をまじえた伝記 |
画家千靱(昭和45年〜50年) | ||
昭和四五年、七八歳になった千靱は、第二五回春季展に『窓』を発表し、同年秋の五五 |
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回院展には『西王母』を発表しました。つづく二六回春季展に『夜の長崎』を、五六回院 | ||
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展には『月光麝香猫』を発表します。千靱のこうした長年の功績を、このころ読売新聞は | ||
、「仏画界に足跡」を遺す画家としてとりあげています。 | ||
また後年発見された日本テレビの映像記録から、四天王寺大壁画の制作には、千靱によ |
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る二種類の大下絵が準備されていたことが判明し、健康を害してまでの苦闘の四年間であ | ||
った秘話も明らかにされました。ここでは、日本画の技法では難しいとされている壁画を | ||
、みごとに完成させたことが高く評価されています。 | ||
四七年、八〇歳を迎えた千靱は、第二七回春季展に『花とペルシャ皿』、五七回院展に |
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『野鶏と赤陽』を出品して、日本芸術院会員となりました。そして翌四八年の二八回春季 | ||
展に『黄牡丹』を描いたあと、第五八および五九回院展には、インド神話に取材した『乳 | ||
の海』と『慈悲曙光』を発表。千靱のこの意欲作を、美術雑誌各誌は一斉にとりあげまし | ||
た。 | ||
四九年、二九回春季展に『月映』を発表した年は、銀座の北辰画廊で堅山南風との二人 |
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展を開催します。千靱と南風は同年に院展同人となり、以降共に日本を代表する画家とな | ||
った旧知の間柄でした。 | ||
健康をとり戻していた千靱は、高齢になっても、赤倉のアトリエで制作を終えると、故 |
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郷小杉へ墓参りを欠かしませんでした。しかし昭和五〇年の夏、安田靭彦が赤倉から受け |
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とった千靱の手紙は、ことのほか山への思いをこめた長文であったといわれています。 | ||
その年、三〇回春季展に『豊尊花』を発表。秋には、ギリシャ神話に基づく『レダと白 |
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鳥』描いて第六〇回院展を飾りました。女神は観音のように描かれ、生きとし生ける者に | ||
手を差し伸べるという仏教的な意味合いが込められた会心作でしたが、これが千靱最後の | ||
出品作品となりました。 | ||
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その年の一〇月二五日、前ぶれもなく千靱は急性心不全で死去。八三歳でした。毎年、 |
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率先して会場を歩き、名実ともに院展を率いてきたその姿を、もう見ることができなくな | ||
りました。功績を讃えて勲四等瑞宝章が贈られ、五一年三月には日本橋三越において、つ | ||
づいて四月には富山県民会館美術館において遺作展が開かれました。図録や画集も発行さ | ||
れ、逸材の急死を惜しみました。 | ||
明治、大正、昭和の三時代を生き、研究や取材のためにはアメリカやインドまでも千靱 |
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は出かけました。とくにインド旅行については、七〇歳を越えてからの過酷な長旅であっ | ||
たにもかかわらず、自信を深め、信念に燃える旅であったと述懐しています。また赤倉を | ||
初めとする日本中の風景に、生涯精力的な絵筆を走らせた千靱でした。そして心はいつも | ||
、彼の内に不屈の精神を培った郷里にあったのです。射水野から立山連峰を仰ぎみるとき | ||
の、奥深いものへの畏敬と感動を最後まで忘れることがなく、生涯、今ある自分は仏縁に | ||
つながる御仏のご加護という信心をもちつづけました。平成二年一〇月、その郷里の富山 | ||
県小杉町町民展示室でも、町が誇るべき千靱の遺作展が開催され、改めて町民の感動を喚 | ||
起しました。 | ||
モダンと伝統が織りなす画面、修練と飛躍が交差する技法、童心と熟練を両有し、幅広 |
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く豊かな天分をもった画家でありましたが、「絵画とは熟達を披露するものでなく、進ん | ||
で未知をただすものだ」と語る、たゆまぬ努力の人でもあったのです。 | ||
了 了 |
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美術エッセースト小笠原洋子 |
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第十回評伝(2006年 7 月10日発行) |
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