評伝( 二) | 評論をまじえた伝記 |
工芸学校時代 | ||
富山県小杉町の、山河に恵まれた自然環境のもとで幼年期を過ごした千靱少年 | ||
は、1899(明治33)年小杉小学校に入学。13歳で同校を卒業した後、富山県工 | ||
芸学校漆工科(現富山県立高岡工芸高等学校)に入学しました。 | ||
創校時の校舎 |
この工芸学校は小杉町の西に隣接する | |||
高岡市にありましたが、豪雪や水害でしば | ||||
しば通学路が断たれるため、千靱は高岡 | ||||
市内に移り住みました。自然の豊かさは、 | ||||
同時に脅威もはらんでいます。北陸の水 | ||||
や雪との苦闘が、彼の精神に投げかけた | ||||
ものは大きかったでしょう。大自然の美と | ||||
力は、ともに千靱の人格や美意識を形成 | ||||
するものの一つとなりました。また高岡で | ||||
の六年間の下宿生活は、彼に粘り強さや忍耐強さを培わせたといいます。 | ||||
高岡は、八世紀半ばに国分寺と国府が置かれ、古くから呉西(呉羽丘陵の西側) | ||
の中心地でした。近世になると加賀藩前田利長によって高岡城が築かれ、城下町 | ||
として発展しました。鋳物師などの職人が手工業にたずさわり、漆器、鉄器、螺鈿細 | ||
工などが生産され、染色業、漆工業などが地場産業として発達しました。また名刹 | ||
瑞泉寺の推持を担って、唐金師や仏具師などによる銅器工芸も盛んでした。城は | ||
利長の死後廃城となりましたが、その跡に建設されたのが工芸学校でした。 | ||
今年一〇五周年を迎える工芸高 |
千靱、若い頃の製作風景 |
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校の初代校長は、納富介次郎とい | |||
う佐賀に生まれた書画の研究者でし | |||
た。工芸品の貿易を視察するために | |||
上海に行き、ヨーロッパ、アメリカを | |||
巡回。見聞を広めた後石川県に招 | |||
かれました。彼はここで工芸学校を | |||
設立する案を提出し、金沢工芸学校 | |||
が日本で三番目に設立された美術 | |||
専門校として開校されました。その後富山県に招聘され、1815(明治27)年に富 | |||
山県立工芸高校の校長に就任しました。登校は殖産興業の一環として設立された | |||
教育機関でしたが、納富の建学の精神であった、よき高きを求める『尚美』の心 | |||
は、校風として現在まで受け継がれてきました。 | |||
第十三回卒業生 |
また高岡の伝統的な工芸文化を背景 | |||
にした名門校として、東京の美術学校 | ||||
へ、無試験で入学できる特権も与えら | ||||
れ、多くの芸術家を世に送り出しました。 | ||||
千靱とのちのちまで交友関係をもった、 | ||||
上野の美術学校出身の金工作家で、工 | ||||
芸高校の教諭となる山本雲涛も同校出 | ||||
身のひとりでした。同校では、美術学校 | ||||
出身の画家や工芸作家たちが多数教鞭をとっていました。 | ||||
千靱を教えた図案科の教師中島秋圃 |
中島秋圃「梅に小禽」 |
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も美術出であり、彼は千靱の将来に | ||||
少なからず影響を与えました。蒔絵の | ||||
絵付けや卒業制作の扇面漆絵など | ||||
に、絵画的な才能を発揮した千靱 | ||||
は、もっと絵を本格的に学びたいと | ||||
思いを強めるようになります。 | ||||
美術エッセーイスト小笠原洋子 |
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第二回評伝(2004年8月日発行) |