評伝( 三) | 評論をまじえた伝記 |
美術学校時代 | |||
千靱は東京の美術学校への進学を志望しました。しかし呉服商を営んでいた両親は千靱が | |||
工芸学校で、職人に必要な基本的技を修得すれば家業にとっては十分と考え画家になろう | |||
などと思うことには猛反対でした。それでも千靱の意志には負け、あくまでも呉服の図柄 | |||
制作に役立つ図案科にならばと、進学を許したのです。ところが千靱は1910(明治 | |||
43)年東京美術学校日本画科に入学。両親は帰郷するようにと仕送りも止めますが、彼 | |||
の才能を評価していた郷里の恩師たちの尽力によって、親戚縁者が学資や生活費を支援し | |||
て千靱の志を支えました。 | |||
東京藝術大学校舎(東京藝術大学大学美術館より借用) |
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東京美術学校は、明治二〇年に岡倉天心やフェノロサの働きかけによって設立された 日本 | ||
で最初の国立美術学校です。千靱は昭和三十五年に「天心と赤倉」を雑誌『高志 人』に連 | ||
載し、美術学校との関わりや日本美術院の創立など、天心が日本画壇に遺した偉業や人と | ||
なりを詳らかにしています。 | ||
東京藝術大学日本画科教室(東京藝術大学大学美術館より借用) |
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在学中の千靭は寺崎廣業の第二教室で、狩野派の粉本など日本画の基礎を学びまし た。ま |
た予てより仏教美術に憧れ、法隆寺金堂の壁画を、「崇拝にもひとしい謙虚さで 鑑賞し |
た」(『壁画と印度』)千靱は、入学当初から図書館に行っては画集を開き、仏教 学の書 |
物をひもといて、ますます仏教に関心を傾けるようになります。正科の植物写生 に専念し |
ながらも、放課後には聖徳太子像や十六羅漢を熱心に描いたり、夏休みには 帰省も忘れ |
て、イギリス政府が出版したアジャンタの壁画の模写に明け暮れたりしまし た。このとき |
親しく交際して共に模写に勤しみ、後日、共に院展の同人となった二年先輩の中村岳陵と |
千靱は、晩年になって大阪四天王寺の壁画を制作することになります。 |
(中村岳陵 ・金堂の壁画)(郷倉千靱・講堂の壁画) |
千靱は生涯に、東本願寺の壁画など多くの仏画制作を手がけます。千靱と仏教との結び付 |
きは、幼少時から郷里,富山の生活や文化に深く浸透していた浄土真宗信仰に根ざすものだ |
ったといえましょう。 |
越中真宗は十五世紀、蓮如による北陸門徒への布教によって拡大し、その後前田氏が 保護政策をとったことで、この地に確固とした基盤をつくりました。千靱は、「仏法を 朝夕念願する雰囲気のうちにはぐくまれていた私には、いつしか宗教心というものが目に みえない心の奥にきざみ込まれていたような気がする。そうして、いつのまにか絵の道 に入って、少しもの心がつくようになってからは、仏教芸術としての絵画や彫刻には、い つも不思議なほど親しみと魅力を感じていた。」(『壁画とインド』)と語っています。 | ||
美術エッセースト小笠原洋子 |
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第三回評伝(2004年11月9日発行) |