評伝( 四) | 評論をまじえた伝記 |
美術学校時代・卒業まで | ||
少年時代に芽生えた仏教美術への関心は、千靱にとって制作上の重要なテーマとなりま | ||
した。美術学校の卒業制作は、仏画『菩薩と白牛』であり、晩年になって彼は聖地を巡る | ||
インドへの取材旅行も果たすなど、生涯におよびました。 | ||
しかし在学中の千靱は、西洋絵画にも大いに関心を示しました。そのころ、武者小路実 | ||
篤や志賀直哉ら、白樺派が刊行した文芸雑誌『白樺』には、当時の日本人には、ほとんど | ||
知られていなかった西欧の絵画が掲載され、芸術を志す者たちに刺激を与えました。千靱 | ||
はここに紹介されたセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら、後期印象派の絵画に強く惹かれる | ||
ものがありました。 | ||
美術学校では主に狩野派の流れを汲む絵画を習得しましたが仏教絵画とともに近代 ヨ | ||
ーロッパ絵画が、以後の千靱の画業に与えた影響を見逃すことはできないでしょう。 |
東京藝術大学卒業写真(東京藝術大学大学美術館より借用) |
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千靱は大正四年に、日本画科本科を優秀な成績で卒業しました。そして在学中に東 洋 | ||
美術史の教えを受けた大村西崖教授から、アメリカに渡った日本画の調査と模写の依頼 | ||
を受け、単身渡米します。アメリカでは、主にボストン美術館が所蔵する藤原時代の仏 | ||
画の模写に、半年を費やしました。この美術館は東洋美術部主任を歴任した岡倉天心ゆ | ||
かりの館です。また千靱はこのとき、富山出身のニューヨーク日本領事館補加藤外松と | ||
出会い、彼の勧めによって現地で個展を開催することもできました。 | ||
西欧の絵画に直接触れることを切望していた千靱にとって、渡米はまたとない機会で | ||
した。彼はここでヨーロッパへの留学も計画しましたが、アメリカの第一次大戦参戦に | ||
よって渡欧は困難となり、断念の末大正五年に帰朝しました。 | ||
なお千靱は、美術学校在学中の明治四十三年、同郷富山県射水郡の新湊で船問屋を商 | ||
う、京谷家の 蔦子と結婚しました。千靱18歳。蔦子18歳。新生活は上野谷中から始 | ||
まり、大正3年11月には長女和子が誕生しました。 | ||
上野谷中にて(大正8年頃) |
美術エッセースト小笠原洋子 |
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第四回評伝(2005年2月 1日発行) |
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