評伝( 五) | 評論をまじえた伝記 |
画家千靱の誕生(帰国から院展初入選まで) | |||||
渡米中、あらためて故国日本の歴史文化に目覚めた千靱は、大正五年に帰国すると 本格 | |||||
的に日本画に専念しました。このころは白雅という雅号を多く用いています。当時、千靱 | |||||
が頻繁に住いを変えたのは、制作にふさわしい環境を求めてのことでした。やがて千葉県 |
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白浜に居を構え、自然豊かなこの海の町にしばらく落ち着き、日本美術院展(院展)への | |||||
出品をめざして画境を模索しました。この地に取材した『房州白浜所見』(1916)な | |||||
ど南画風の漁村風景には、故郷富山の小杉村への懐古も重ねられたことでしょう。 | |||||
(房州白浜所見) |
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院展は、東京美術学校校長を退官した岡倉天心が、彼の退任に殉じて美術学校を辞職した | |||||
橋本雅邦、横山大観ら二十四人で結成し、明治三十二年に創立した美術運動の一環であ | |||||
り、全国規模の公募展を巡回しました。 | |||||
大正七年、千靱はこの恩師岡倉天心ゆかりの赤倉にも山荘を建てました。天心の父親は福 | |||||
井出身であり、同じ北陸出身の千靱を伴って墓参に訪れるなど、五十五歳赤倉で逝去する | |||||
まで千靱と深い繋がりをもちました。 | |||||
赤倉は、天心が福井から帰京の折に、千靱らとたまたま立ち寄った所でしたが、そのとき | |||||
天心はここに住いを建てることを決め、その建設に尽力したのも千靭でした。 | |||||
大正七年及び八年、惜しくも院展に落選した千靱は、世田谷深沢に転居し三度入選を目 | |||||
標に精進しました。すでに広く画才を認められていた千靱は、大正九年本人の知らぬま | |||||
ま、知人の計らいで第二回帝展に出品された『雑草の丘』が入選し、特選候補になりまし | |||||
た。元、文部省が主催して文展といわれたこの帝展(帝国美術院)は、昭和十二年以降日 | |||||
展となります。 | |||||
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大正十年、千靱は第八回院展に『地上の春』を出品して、ついに初入選を果たしました | |||||
。大正十一年春、第八回試作展に『雑草の秋』『霜枯の径』を出品。同年秋には、第九回 | |||||
院展『村童三題』『西瓜畑』で入選。十二年春、第九回試作展に『野鼠』『雛』、秋の第 | |||||
十回院展に『草辺二題(小鳥の水浴び・蜂の巣)』をそれぞれ出品しました。そして大正 | |||||
十三年秋、第十一回院展に『蒼空鳶之図』『草辺蟹之図』『童子水浴』を出品。このとき | |||||
同人に推挙されました。院展史上異例の早さといわれ、同年同人となった画家には堅山南 | |||||
風らがいました。 | |||||
このころ千 靱がしばしば描いた叢は、当時は印象的な画題でした。幻想的でしかも緻 | |||||
密な筆致から、彼は雑草博士と称されたりしました。また同様に得意のテーマであった村 | |||||
里の童子たちの描写からは、故郷での千靱少年が偲ばれます。 | |||||
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後年の随想集『高志人』にも、彼は「遊泳に夢中する子供の生活を憶ふ時には、まづあの下 | ||
條川畔をいちばんなつかしくは思はれる」と記しました。千靱が画布に追い求めた自然は、 | ||
花鳥風月というよりおおらかな天然の景観であり、都会的に洗練された画風にも、懐かしさ | ||
のにじむ温雅があふれています。 | ||
美術エッセースト小笠原洋子 |
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第五回評伝(2005年4月 28日発行) |