| 評伝(六) | 評論をまじえた伝記 | 
| 画家千靱(大正十三年から昭和五年まで) | ||
| 千靱とともに、院展の同人となった友人の堅山南風は、千靱の人柄について、「実 | ||
| に真面目思慮緻密の人」と述べています。また制作態度については、追窮沈思型だが | ||
| 萎縮したものがなく、宏々としてロマンティックだと評しました。 | ||
| 同人になった大正十三年の冬、精神的な趣がただよう『初冬』を制作した千靱は、 | ||
| 三三歳を迎えた翌年以降、益々制作に没頭し画境を深めていきました。十二回院展 | ||
| (十四年九月)に『童子相撲』『旬』『新月』を出品。十三回院展(十五年九月)に | ||
| 『鳴虫の宿』『戯駒図』、十五回院展(昭和三年九月)に『豊穣群雀』、十六回院展 | ||
| (四年九月)に『群童六題』、十七回院展(五年九月)に『鳥獣魚』を次々と発表し | ||
| ながら、画風を確立していきます。雑草と子供の組み合わせが、千靱の主要なモチー | ||
| フになりました。それらの作品からは、自然の風物に寄せるつよい親愛感が感じと | ||
| れます。 | ||
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| それは幼少期から培われた山河草木との結びつきによるものであり、千靱の美意識 | ||
| の根底をかたち作るものでした。壮大な立山連峰の山並みから下條川の土手の可憐な | ||
| 草花まで、故郷小杉の自然こそ千靱の原風景であり、彼の作品には、そのなかで戯れ | ||
| た幼少期の姿や気持が表わされているのです。さらに写生に際しては、植物標本を制 | ||
| 作するなど向学的な姿勢に裏づけられて、いっそう豊かな画趣を作り出しました。 | ||
| 家には女中や書生が住み込むようになり、生活のうえでの変化も見られるようにな | ||
| ります。家主は、制作に追われて旅行もできないでいる千靱のために、自分の家の隣 | ||
| りの空き地に画室を建ててくれ、千靱はそこで制作に勤しむことになりました。 | ||
| 関東大震災は、千靱の生活を大きく覆しましたが、翌十五年には、初期の会心作 | ||
| 『武蔵野の三角畑』が制作されます。このころから、千靱には特徴的な色彩の確立が | ||
| 認められます。それは抑制の効いた色調と評されることもありますが、常に画面の奥 | ||
| に澄んだものが見通せるのは、自然や童子など対称に向かうときの、この画家の純真 | ||
| な画心が自ずと映しだされるからでしょう。 | ||
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| 千靱の絵画制作は、生涯、伝統的な日本画技法による形象でありましたが、狩野派 | ||
| 風の構図や筆致にも、また細密な写実の追及にも偏らず、一作ずつ実験的な画面作り | ||
| に挑み、さまざまな線描の試みや斬新な画面構成を展開しました。昭和三年、三越で | ||
| 初めての個展を開催した千靱は、その年、画塾『草樹社』を創設し、後進の 指導・ | ||
| 育成にも尽力します。画塾からは島内納郎、今野忠一、荘司福らが輩出されました。 | ||
| 当時、多忙の余り不眠症にかかった千靱は、夏の間、房州千倉に別荘を借りて住む | ||
| ことになりました。当地の自然や、港や、夏祭りをむさぼるように写生した千靱は、 | ||
| 一年がかりで制作した『群童六題』を昭和四年に完成させます。 | ||
| 同年、画集「千靱新潟後援会画冊第一集」も発行されますが、母志が他界したのも | ||
| この年のことでした。 | ||
| 翌昭和五年、十七回院展に『鳥獣魚』を出品。この年千靱は越後方面へ家族旅行に出 | ||
| かけ、その折に赤倉方面に脚を向けた千靱は、この地に画室を作ることを心に決め、 | ||
| 後年これが実現しました。 | ||
| 美術エッセースト小笠原洋子 | ||
| 第六回評伝(2005年7月 22日発行) | ||