評伝( 七) | 評論をまじえた伝記 |
画家千靱(昭和六年から昭和二十年まで) | |||
昭和六年、千靱が第一八回院展に出品した『拾卵図』は、西域の壁画に題材を得た宗教物語 | |||
風な作品であり、このめずらしい人物画について、千靱は「懐古的なロマンチシズムを求め | |||
る潜在意識が覗いている」と回顧しています(昭和38年 『壁画と印度』)。 | |||
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その後は再び自然を主題に筆をとり、『生彩詩相』(七年 一九回展)、『金碧図』(襖絵 | |||
八年二〇回展)、『鹿遊ぶ』(九年二一回展)、『高原新秋』(一〇年二二回展)など、花 | |||
鳥虫魚をモチーフに描きました。そして昭和一一年外務省に買い上げられた、第二三回院展 | |||
出品作『月明』は、自然のなかに深い精神性を感じさせる画風の顕著さによって高い評価を | |||
受けました。 | |||
昭和七年、赤倉の山荘に完成した画室で制作を開始する一方、千靱は同年、四〇歳にして | |||
母校帝国美術大学日本画の教授となり、後進の指導にあたりました。また一〇年からは、多 | |||
摩美術大学にて教鞭をとることになり、同校での日本画指導は以降三〇年余りにおよびまし | |||
た。画塾「草樹社」の存続を含め、画家であると共に、ほぼ生涯を教育に携わったのは、千 | |||
靱の特筆すべき一面といえましょう。 | |||
昭和一一年九月、帝展が改組されました。第一回展に出品した『山の秋』や、翌年第二四 | |||
回院展に出品した『麓の雪』などが描かれた千靱の四〇代後半は、画業の中期にあたり、油 | |||
ののりきった全盛期でした。 | |||
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麓の雪 |
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『山の夜』(一三年)、『山頂の春』(一六年)など、六曲一双及び二曲一双の屏風絵も製 | |||
作され、それらは院展二五回展及び二八回展に出品されました。 | |||
このころ千靱は、山をテーマにした作品や山野の気配をかもし出す作品を多く手がけます。 | |||
千靱という雅号が、郷里の立山の景観から採られたように、霊山として信仰厚い人々によっ | |||
て崇められた立山は、故郷から離れた千靭にとっても、心身に染み付いた崇高な美観の対象 | |||
でありつづけました。山景は千靱の魂の風景であったといえましょう。 | |||
第二次世界大戦が勃発する一四年に、『渡り鳥』(二六回院展出品)を描き、翌年「紐育世 | |||
界博覧会」に『月映』を出品した千靱は、同年開催された「紀元二六〇〇年展」には『白樺 | |||
』を、二七回院展には『雪二題』を出品するなど、いずれも力作を発表しました。そして十 | |||
七年に制作した『山の初霜』(二九回院展)は、再び外務省に買い上げられました。昭和一 | |||
八年、千靱は富山県東本願寺城端別院に、襖絵を描くことになります。 | |||
総数一八面のこの大作は、千靱が得意とする花鳥画『四季花鳥図』であり、春夏秋冬の草花 | |||
を明るく伸びやかに描ききった秀作といえましょう。こうして中期の集大成を、いわば郷里 | |||
の聖堂に献上した千靱は、いよいよ画風の様式も名声も不動のものとしました。後半生を生 | |||
活の拠点とする世田谷区深沢に居を構えたのも、この年のことでした。 | |||
戦争が生活を脅かし始めた同一八年、千靱は三〇回院展に『五月雨』を出品します。以降終 | |||
戦の昭和二〇年まで、院展は中断。千靱は赤倉に疎開しました。 | |||
美術エッセースト小笠原洋子 |
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第七回評伝(2005年10月 5日発行) |
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