評伝( 八) | 評論をまじえた伝記 |
画家千靱(昭和21年〜34年) | |||
終戦翌年の昭和二一年、五四歳になった千靱は、疎開先の赤倉から世田谷深沢に戻り |
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ました。その年、日本を代表する画家二〇人に選ばれ、メキシコ展に『湖水の春』を | |||
出品しました。同年院展も再開され、その三一回展に『凍朝』を出品。院展同人の第 | |||
一回春季展には『黒牡丹』を出品しました。 | |||
千靱には昭和七年ころから開始した、おびただしい牡丹スケッチがあり、その成果が |
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このころ本画の主要なテーマとして結実しました。二二年第二回春期展に出品した | |||
『牡丹』、二四年に政府の買い上げとなった第五回日展出品作『牡丹』(富貴花)の | |||
ほか、二三年第三三回院展に出品した『牡丹』。三三年、六六歳で描いた優麗、幽寂 | |||
の絶作と評される第一三回院展春季展出品の『牡丹』などが挙げられます。 | |||
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戦後、日本美術は、欧米から盛んに発信される象徴的表現など自由な表現形態や、新 |
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しい美術運動に刺激されました。保守的で伝統的傾向の強かった日本美術院にも、時 | ||
代の新風が吹き込みました。向学心にあふれ、研究熱心な画面作りに心がけながら、 | ||
独自の象徴的花鳥画の世界を拓いてきた千靱も、抑制のきいた作風のなかに、時代の | ||
息吹を注いでいます。二二年、第三二回院展に『野鼠』を出品。翌年の第三回春季展 | ||
に『椿』、第四回春季展に『桔梗』を出品し、千靱は昭和二四年、日展審査員になり | ||
ました。 | ||
以降、同年第三四回院展に『朝風』『夕雲』翌年三五回院展に『樹海の秋』昭和二 |
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六年第六回春季展に『ばら』二七年三六回院展に『森の春』『茶碗』三七回院展に | ||
『春日苑』、翌年三八回院展に『四月の頃』などを発表しました。なお昭和二五年の |
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第五回春季展に『仔犬』を出品した千靱は、二七年第七回春季展および朝日新聞社主 | ||
催習作展に、それぞれ『仔犬』『犬』を出品するなど、同じテーマの作品を描いてい | ||
ます。とくに二八年第九回日展に出品した『庭と仔犬』は、愛らしい三匹の仔犬を、 | ||
思い切って斬新な構図に配した作品として注目に値します。 | ||
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また千靱は、文章にも才能を発揮しました。昭和一一年一月に創刊された雑誌「高 |
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志人」(北陸中心に発行された雑誌)に、千 靱は創刊号から表紙絵を担当しましたが、 | ||
この第一巻一号に『小杉焼について』、また二巻一一月号に『藤井直明と小杉の水』 | ||
を寄稿しています。この二作には、郷里富山県小杉が誇る小杉焼の創始初代譽右衛門 | ||
と、幕末宝明事変の勤皇の志士藤井直明について、平明にして理知的な文体で綴って | ||
います。なお昭和一六年以降も同誌に、岡倉天心や日本美術院に関する主要なテーマ | ||
から自伝に至るまで、克明で簡潔な回想録として連載しました。 | ||
二八年、日展作品依嘱となった千靱は、翌年日本橋三越にて三回目の個展を開催。 |
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第三九回院展には『月と蛾』を出品しました。このころの千靱は、花鳥画家として画 | ||
技の実力は不動のものでしたが、三〇年第四〇回院展に出品した『朝』では、快活な | ||
モダニズムにあふれる作品を展開しました。三一年第四一回院展に『暁』、三二年第 | ||
十二回春季展に『鉄線花』を出品し、この年多摩美術大学の評議委員ならびに理事に | ||
、また同年日本美術院評議委員ならびに監事にも就任しました。この年、第四二回 | ||
院展に『雪と鷹』を出品。翌三三年日本橋三越にて第四回個展を開催。三四年一四回 | ||
春季展に『泉鏡花』を出品したあと、第四十四回院展に出品した『山霧』で、千靱は | ||
ついに日本芸術院賞を受賞しました。 | ||
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美術エッセースト小笠原洋子 |
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第八回評伝(2006年1月10日発行) |
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