評伝( 九)       評論をまじえた伝記

 

     
  画家千靱(昭和35年〜44年)  
     
 

 第四五回院展に『干潮』『満潮』を出品した千靱は、その翌年の昭和三六年、インド

 
  へと旅立ちました。同郷の富山に生まれた先輩で、読売新聞社主の正力松太郎から依頼  
  を受け、京都東本願寺の壁画を描くことになったのです。インドの五月は盛夏にあたり  
 

ます。千靱は長女和子を伴い、酷暑のなか一ヶ月におよぶ取材旅行を果たしました。

 
  各地に美術館や博物館を訪ねてはスケッチし、ミニアチュールに心を傾け、アジャンタ  
  ー、エローラ、エレファンタ島などの壁画や彫像に旺盛な向学心を傾けながら、丹念に  
  見て歩きました。悪天候のなか、車のエンジンまで焼けつくような二三時間の移動にも  
  耐えました。そんな過酷な旅路でも千靱の目は、文化財ばかりでなく、熱国の花々や果  
  物、大樹や鳥たちに注がれ、ヒマラヤ連峰の威形やガンジスの流れへと、瑞々しい感動  
  をもって見開かれていきます。それは幼い日に初めて目にした、郷里立山の雪頂や河川  
  にも重なる感動だったでしょう。帰国すると早速取材資料をもとに、赤倉で制作にとり  
 

かかりました。

 
   四七回院展に『ヒマラヤ素描(霧 雲 霽 月)』を出品した翌年の三八年、壁画  
  『釈迦父王に会いたもう図』『朝のヒマラヤ』『夕のガンジス』三部作が完成。東京美  
  術倶楽部で作品披露式が行われたあと、五月に親鸞上人七百回忌記念事業として東本願  
  寺大谷夫人会館に寄贈されました。千靱七一歳でした。   
     
 


釈迦父王に会いたもう図

 
     
   画面の中心を占める『釈迦父王に会いたもう図』は、千人の弟子を率いる釈迦が、父  
  王と再会する場面であり、千靱が長く心に温めてきたテーマでした。幼年期、故郷小杉  
  村(現射水市)の母の背で「のんのんさま、あい」と小さな手を合わせ、祖母と並んで  
  朝夕仏壇の前に座った千靱は、世田谷の画室や赤倉のアトリエでも奉持を欠かしません  
  でした。生活と一体化したそういう宗教的情操は、自ずと作品にも反映され、この壁画  
  のうえに結実するとともに、精緻な写実の技法によって、超然的な象徴性をも表わすと  
  いう日本画の世界を確立したのです。  
 

同年四八回院展に『母神』を出品、一一月には上野松坂屋でインドを主題にした素描展

 
  を開催し、同月、郷土から富山県北日本文化賞を授与されました。  
 

 壁画は、千靱のこれまでの功績とともに、新聞各紙や諸雑誌で取り上げられ、画集「

 
  壁画と印度」も出版されました。和子はこの年に、壁画附の個展を開催。併せて「父の  
  仕事」「インドのこと」などの随想を雑誌に発表しました。  
 

 三九年一九回春季展に『月輪と貝』、四九回院展に『浴宴回想』、二〇回春季展に

 
  『雪朝』五〇回院展に『土偶と鳥』、二一回春季展に『竜首瓶』を出品。  
 

 昭和四一年、千靱は再び正力から、大阪四天王寺講堂壁画の揮毫を依頼されます。翌

 
  年、まず壁画の中心を成す三〇メートルにおよぶ『大雪山山脈を行く』の小下絵と大下  
     
 



 
  雪山山脈を行く  
     
  絵を制作しました。それは玄奘法師が幾多の困難を越えながら、遥かな天竺をめざす不  
  屈の姿でした。構図を決めたあとは、まるで何者かに導かれるような信念で描ききった  
  と語っています。喜寿を迎えた千靱の感慨でした。  
   四四年に三年間の苦節を経て、大阪四天王寺大講堂壁画『佛教東漸』全一八面の超大  
  作が完成しました。三月、日本橋東急百科店で披露式、その後インドに取材した多くの  
  近代日本画の嚆矢ともいえるこの大作は、五月、大阪四天王寺に奉納されました。  
     
     
     
 

美術エッセースト小笠原洋子

 
 

第九回評伝(2006年4 月10日発行)

 
     
 
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