和子 評伝(一) | 評論をまじえた伝記 |
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誕生から女子美術大学入学まで | ||
郷倉和子は大正三年(一九一四)一一月一六日、父千靱(本名与作 二二歳) |
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と母蔦子の長女として東京上野の谷中に生まれました。父はのちに日本美術院会 |
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員となる日本画家で、和子の誕生時は東京美術学校(現東京芸術大学)在学中。 | ||
間もなくボストン美術館に収蔵されている日本美術を調査研究するため、単身渡 | ||
米しました。 | ||
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帰国後の父は、制作に適った環境を求めて千葉の白浜や東京の深沢桜新町、駒 | ||
沢、上馬へと転居します。和子はどこに居ても活発で、野原を走りまわることや | ||
運動が大好きな少女でした。大正五年に弟宗明が誕生。やがて和子の格好の遊び | ||
相手となりました。姉は相撲をとっても弟に負けませんでした。 | ||
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大正一〇年四月、駒沢尋常小学校に入学。当時の世田谷には田畑がひろがり、 | ||
学校までの徒歩半時間には、ザリガニやトンボ捕り、グミ採りが楽しめました。 | ||
近所の社は日々の遊び場であり、多摩川まで二時間かけて泳ぎに行くこともあり |
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ました。学校では毎年リレーの選手に選ばれましたが、習字と図画もよく褒めら | ||
れ、いつも校内に貼り出されていました。友達とは互いの顔や先生の似顔絵を描 | ||
いて遊ぶ和子でしたが、三軒茶屋に住いしたとき父千靱が開校した画塾草樹社に | ||
出入りして、日本画に馴染むことになります。 | ||
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両親は富山県の出身で、和子もこのころ父に連れられて郷里射水郡小杉町(現 | ||
射水市小杉)に帰省しました。その折、目にした山河豊かな北陸の風景は、当地 | ||
で味わった新鮮な魚や果物の味覚とともに今も記憶にとどめています。平成一四 | ||
年に小杉町名誉町民(現在射水市名誉市民)となった和子は、現在も射水市との | ||
絆を保っています。 | ||
昭和二年、三輪田高等女学校に進してからも、和子はときおり草樹社に参加し |
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ました。塾生が胡粉を溶く様を見たり、画室の徹底した掃除を手伝ったりしなが | ||
ら、清潔感と緊張感を特徴とする日本画に必要な技術や感性を会得していったの | ||
です。そのように生活のなかで絵に親しむ機会の多かったことが、いつしか、父 | ||
より受け継いだ画才の開花へとつながっていったのです。 | ||
一七歳のときに竹を描いた作品は、皇太后様への献上画に推薦され、図画の担当 |
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教諭からは、女子美術専門学校への進学をすすめられました。このように和子 | ||
の、画家への道は自然に敷かれていったといえるでしょう。しかし展覧会に出品 | ||
するたびに受賞する和子は、子供のころから、その絵に父の手が加わっているの | ||
だろうと陰口を囁かれることがしばしばでした。娘が画家になる期待さえ希薄で | ||
あった千靱は、和子に手ほどきも批評もしませんでした。父の名に恥ないような | ||
絵を描きたいという思いはあっても、一度として手助けされたこともない和子に | ||
は、周囲からの中傷が返って本格的に絵画にとりくむ起爆剤となったともいえま | ||
す。意志が強く、なにごとにもまっすぐ突き進む姿勢が、生涯絵画にとりくむ | ||
姿勢を育てていくことになったのでした。 | ||
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美術エッセースト小笠原洋子 |
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第一回評伝(2006年 11 月16日発行) |