| 和子 評伝(二) | 評論をまじえた伝記 |
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| 女子美術専門学校時代 | |||
| 明治の前半まで、日本画を学ぶのは画塾や工房が中心でしたが、明治一三年 | |||
| (1880)に京都府画学校(現京都市立芸術大学)が開校され、二二年(1889) | |||
| には政府によって東京美術学校(現東京芸術大学)が開設されました。 | |||
| また大正期になると上村松園ら閨秀画家が、文展や帝展で活躍するようになり | |||
| ました。そうした新しい時代に動きのなかで、明治三三年(1900)現在の女子美 | |||
| 術大学である女子美術専門学校が東京に開校されます。以降ここからは日本画、 | |||
| 洋画を代表する多くの女流画家が輩出されました。 | |||
| 昭和七年(1932)、女学校を卒業した和子は、四月に女子美術専門学校の日 | |||
| 本画部高等科に入学します。女学校を卒業すれば花嫁修業をするのが普通であっ | |||
| た時代、進学する生徒は少なく、絵画教育を受けようとする者は稀でした。父 | |||
| 千靱は国文学を勧めましたが、和子は学校の美術教師が勧める師の出身校、女子 | |||
| 美術専門学校で美術を学ぶことに決めました。しかし入学してみると、美術学校 | |||
| には、本格的に画家をめざすような空気は思ったより希薄でした。絵画部の他に | |||
| 裁縫部、造花部、刺繍部などがあり、国際色豊かに台湾や中国の子女たちが 多 | |||
| く学んでいまし た。家に招いたりして親しく交際した留学生と、後年台湾を訪 | |||
| 問した折、懐かしい再会を果たしています。 | |||
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| 学校では、学芸会など催しも盛んであり、和子はそれらに参加して学園生活を | |||
| 楽しむ一方、審案(期末試験)の折に芸大から教えにきた教授で、帝展の日本 | |||
| 画家・結城素明に褒められたのをきっかけに、いっそう邁進するようになりまし | |||
| た。審案も上位という結果でした。 | |||
| 九年には『高原の秋』を、十年には『庭の一隅』を制作。繊細で的確な技法 | |||
| と評価されました。 | |||
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| 父・千靱が設立した草樹社は、昭和初めころ日本に紹介された後期印象派の | |||
| 影響を受 け、伝統美のなかに新しい気風を求める姿勢がみられました。また当 | |||
| 時の日本画壇には新日本画運動といった活動もみられ、それは若い和子にも影響 | |||
| を与えていくことになります。 | |||
| 昭和十年、和子は首席で女子専門学校を卒業しました。 しかし早くから頭角 | |||
| をあらわしたことが、良くも悪くも注目され、評価の裏では父の手助けが取りざ | |||
| たされることもしばしばでした。ところが実際の千靱は、和子の制作をじっと見 | |||
| ていることがあっても、感想さえ言わずその場を引き上げるのが常でした。それ | |||
| は意見を聞いたり教えを受けたりすること以上に、和子にとって威圧感を覚える | |||
| ことであったのです。 | |||
| 「もう描けない」と一言こぼしたりすれば、「やめろ」の一言。厳しい父との | |||
| 芸術をめぐる対立のなかで、和子の制作は鍛えられていきました。それでも日常 | |||
| では、世田谷のボロ市や久地の梅林などに、娘を連れて歩く父でもありました。 | |||
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美術エッセースト小笠原洋子 |
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第二回評伝(2007年2月16日発行) |
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