和子 評伝(三)   評論をまじえた伝記
 

 

 
     
     
  八仙花  
     
   美術学校を首席で卒業した和子でしたが、画家として立つという意識は薄く、  
  花嫁修業の日々を過ごしていました。またスポーツが好きで、バレーボールやス  
  キーなど、活発なことも積極的に楽しみました。運動で鍛えた確かなフットワー  
  クと精神力は、その後の画家和子を支えた要素ともいえます。  
   ある日和子は、隣家の庭に咲く八仙花に目が奪われました。父の画塾「草樹社  
  」では、門人たちが展覧会の出品制作に苦闘しているときのことであり、自分も  
  遊んでいてはもったいないと思い、この花を描いてみました。昭和一一年  
  (1936)、第二三回院展に『八仙花』を出品。やわらかい感性による優しい  
  詩情をたたえたこの作品が初入選しました。まだ女流画家の数も少なく、女性が  
  入選することなど稀だった時代のこと。若い和子の快挙は日本の美術愛好家たち  
  を感嘆させました。各新聞が入選と新しい画家の誕生を掲載し、全国から祝辞が  
  殺到しました。とくに父の郷里である富山県小杉では、「彩管精進」と評価し、  
  町を挙げて二人目の優れた画家の誕生を祝いました。  
     
 


                     制作中


                      八仙花   

 
     
   和子は、父千靱の初入選よりも歳若くして、しかも父が果たせなかった初出品  
  で入選したのです。しかし和子自身は世間の評価をよそに、スケッチを誇張して  
  描けば作家らしい絵になるかもしれないという思いが的中して入選したことを、  
  自ら厳しく見つめていました。しかしこの作品にも、千靱の手が入っているので  
  はないかという噂を耳にします。和子は入選をバネにして、そんな中傷も跳ね除  
  けられるよう、さらに自分の絵画世界を磨こうと決意しました。  
   父に伴われ、日本画家安田靫彦を大磯に訪問したのは、その翌年でした。  
  通された部屋の小机には俑が並び、床には宗達の「仔犬」が掛けてありました。  
  おりしも小林古径が訪れ同じテーブルで懇談したことは、今でも和子の記憶に焼  
  きついています。安田の主催する「火燿会」に入門することになった和子は、以  
  降院展を代表する安田の許へ通うことになりました。  
   「火燿会」は出品画のための研究会というより、日ごろの絵の勉強会であり、  
  上手に描くための指導というよりは、各々の個性が大事にされ、その個性を活か  
  すような自由な制作が行われました。  
   昭和一四年第二六回院展に、『春の庭』を出品した和子は、早くも日本美術院  
  院友に推薦され、幸運な滑り出していきました。しかし人並み以上の努力も怠ら  
  ず、都立園芸学校へ写生に通い、熱帯植物など珍しいモチーフや新しい花鳥画を  
  めざす毎日でした。一五年第二七回院展への『やまつつじ』の出品で、目標とし  
  てきた三回入選を達成し、和子は初めて自分の力を実感したといいます。  
     
     
 

美術エッセースト小笠原洋子

 
 

第三回評伝(2007年 5月16日発行)

 
     
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