和子 評伝(四)   評論をまじえた伝記
 

 

 
     
  四 戦後の活躍期  
     
   昭和一七年、第二七回院展に『庭』を発表した和子は、翌年、第二八回院展に  
  『菜園』を発表し、それぞれ入選しました。しかし次第に戦時色の濃くなった昭  
  和一九年六月、赤倉(新潟県南西郡)に疎開することになりました。翌年この地  
  で長男伸人を出産。以降数年間は、出品のための制作を断念して、家事と育児に  
  専念することになります。疎開先は、父が画室として建てた妙高山裾野の山荘で  
  あり、冬は一面の銀世界、春は野の花が咲き乱れ、庭には兎や雉が遊びに来ると  
  いう自然に恵まれた住いでした。  
   昭和二四年から再び筆をとり始めた和子は、院展への発表を再開。第三四回展  
  には『庭のつつじ』を、翌年三五回展には『うさぎ』を、三五回展には『山の豆  
  秋』を出品して、いずれも入選を果たしました。それまで清楚で装飾的な日本画  
  を得意としてきた和子の画風に、変化が起こるのはこのころからです。  
   戦後、画壇では日本画滅亡論が唱えられ、自由な発想による西洋絵画を日本画  
  のなかにも取り入れようという風潮が起こりました。もとより自由に創造する図  
  案制作が得意だった和子と、この新しい絵画運動は、価値観を同じくするもので  
  した。草樹社に所属する芸大出身の馬場不二も、新しい日本画の旗手のひとりで  
  したが、和子は彼の斬新な感覚に共感し、半具象を表現するための省略や形態の  
  方法、考え方などを学びました。  
   昭和二七年、第三七回院展に入選した『五月の庭』で表現された和子の画風は  
  写実的傾向から半具象画へと変化。これまでの線描を廃し、デフォルメと厚塗り  
  によりマッス量感が強調されました。力づよい画面構成と色調は、二八年第三八  
  回院展に出品した『花と筍』でも発揮され、和子の作品は時代の風潮と合ったこ  
  とが追い風となり、多いに評価されて入選しました。  
     
 


第三十八回日本美術院展「花と筍」 

 
     
   結婚、伴侶との死別、再婚、離婚を経て、幼い子どもを育ててきた和子は、こ  
  うした懸命な制作活動とのとりくみのなかから、精神的経済的自立の必要性を感  
  じとるようなり、次第にプロの自覚へと導かれていきました。  
   昭和二九年には、第三九回院展に『温室』を出品して入選。期待のかかる画家  
  に与えられる奨励賞・白寿賞を受賞するのは、翌三〇年、第四〇回院展に出品し  
  た『春』でした。  
     
 


第四十回院展「春」 奨励賞・白寿賞

 
     
  三一年、第一一回小品展に『月明』を出品した年の九月、第四一回院展出品の  
  『菊』は、再び奨励賞・白寿賞にかがやきました。以降数年間、和子は次々と完  
  成度の高い作品を発表していきます。  
     
     
 

美術エッセースト小笠原洋子

 
 

第四回評伝(2007年 8月16日発行)

 
     
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