郷倉和子の絵画 土方明司 郷倉和子は戦後間もなく、昭和から現代にかけて活躍し、女性画家を代表する一人として知られる。
その画歴は実に長く、80年余に及ぶ。1935(昭和10)年、女子美術専門学校を首席で卒業。翌年、再興第23回日本美術院展覧会(院展)に「八仙花」を出品し、早くも入選。以後、2016(平成28)年に101歳で没するまで、第一線で活躍し、その作品は常に注目を集めた。
作品発表の中心となった院展では、初入選以後毎年入選を重ね、40代になると奨励賞・白寿賞を度々受賞。さらに日本美術院賞・大観賞を二度受賞し、1960(昭和35)年、46歳で日本美術院同人に推挙された。その後、文部大臣賞、内閣総理大臣賞と受賞し、1990(平成2)年には恩賜賞・日本藝術院賞を受賞する。そして1997年日本藝術院会員に任命され、米寿を迎える2002年には文化功労者として顕彰されている。
このように画歴を追うと、まさに順風満帆の歩みだが、そこには人知れぬ制作上の苦労があった。そうした苦労や悩みを、持ち前の負けん気と、ひたむきな努力で乗り越えてきた。結果として、画風を変えながら常に新鮮な感動を絵に託してきた。そこには父、郷倉千靱から、また師である安田靫彦から学んだ、自然観照、虚心坦懐に自然を見て、美を直感し、その本質を絵にする姿勢が感じられる。
特筆されるのは、郷倉が生涯に亘って、努力を怠ることなく精進を重ねたことである。普通、画家の多くは世間で評判を得て、評価が定まるとその画風に固執する。特に年齢を重ねた画家の場合、安定した評価に安住し、新たな画風を拓くことには消極的である。新しい創造の意欲を欠くことで、作品を深化させることなく、自己模倣に陥ることが間々ある。その意味で、郷倉の作品には自己模倣が無い。一つの画風のなかでも常に新たな試みを繰り返し、自己の感興に忠実であろうとする。その繰り返しの積み重ねが、次の新しい画風を用意する。特に70代になってから展開する新たな画風は、それまでの郷倉芸術の集大成を形成するものである。「梅」に託したその作品群は、さまざまな変奏を奏でながら、郷倉の美意識と自然観を核とした小宇宙を形成している。
長い画歴から生まれた作品の一つ一つが、いつまでも新鮮な感動をもたらすのは、自己の技量に過信することなく、常に努力と精進を重ねた結果によるものであろう。郷倉は自身の制作について何度も、「自分は不器用だから、努力しないといけない」と語っている。郷倉のごく初期の作品を見ると、その非凡な技量の冴えから、とても不器用とは思えない。また、自分は、閃きでは絵が描けず、モチーフを長い時間かけて練らないと絵にならない。このことも不器用だとする。これは決して不器用というのではなく、イメージの純度を高めているのである。和子にとって、「不器用」というのは、自己に課した厳しい戒めなのであろう。
不器用という言葉は、郷倉と交流があった洋画家、三岸節子の言葉と重なる。三岸は郷倉と共に、女性美術家による初の総合美術展「潮」同人でもあった。その三岸が夫、三岸好太郎と自分を比較して、「好太郎は、天才型の画家であり、私は努力型の画家」としている。「蚕が糸を吐くように傑作がうまれる」好太郎に対し、節子は人一倍努力を惜しまず制作を続けた。それは節子が器用に絵を描くタイプではなく、一歩一歩着実に描き進むタイプであると自覚していたからである。
また当時は社会全般、美術界も男性中心のものであった。女性画家はごく少数で、閨秀画家などと呼称された。ちなみに「閨」とは「女性の部屋」や「女性」のことである。同様に今ではほとんど使われない、女流画家とも呼ばれた。郷倉も三岸も女性という社会制約が多い中で、男性より何倍もの努力を重ね、画家として大成したのである。
さらに、晩年になるにつれ画境が深まることも二人に共通する。三岸節子も郷倉と同じく、早くから画壇の注目を集めた。しかしその評価に甘んずることなく、常に新たな絵を求め苦闘した。その苦闘の末、大きく画風を変え新たな画境を切り拓いたのは、60代も半ばになってからである。以後、94歳で没するまで、郷倉同様、努力と精進を怠らず、最晩年に至るまで充実した作品を制作し続けた。
このほか、院展での先輩にあたる片岡球子にも、同様なことがいえるであろう。片岡球子は、若いころより自身の不器用さを自覚し、そのことをバネに努力を重ねた。その成果は、晩年まで続けられた「面構」などのシリーズに結実している。このように考えると、ときどきの評価に満足することなく、年齢を重ねる毎に努力することによって、はじめて円熟の画境が作品に滲むといえる。繰り返して言えば、郷倉和子の晩年の作品が醸す、融通無碍で豊かな世界は、長い画歴とそれに伴う努力の賜物なのである。 以下では郷倉和子の画歴を追いながら、その作品の変遷を記す。
郷倉和子は1914(大正3)年、東京都谷中に生まれた。父は日本美術院の重鎮画家で、後に芸術院会員となる郷倉千靱である。千靱は東京美術学校卒業後、渡米。一年余りボストン美術館で、古画の模写などの研究に励んだ。この間、各地の美術館をまわり、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン等の近代洋画にも興味を示した。後述するように和子は戦後、近代洋画の造形思考を取り入れた作品を描くが、そこには若き日の父の影響があるのかもしれない。また、千靱は院展出品初期の頃、自宅周囲の武蔵野の自然を愛し、野の草花ばかり描いたので「雑草博士」の異名をとった。このことも、和子が長い画歴において、身近な草花にこだわり、絵にしてきたこととの関連を思わせる。もっとも、和子は千靱から絵の手ほどきはおろか、画家となってからも批評や助言も一切無かった、としている。実際そうであろうが、おそらく無意識裡に、尊敬する父の美意識、感覚、感性からの影響があったのだろう。また、父からの直接の指導は無かったが、女学生の頃より父が主催する「草樹社」という日本画研究会に参加している。
1935(昭和10)年、戦前、唯一女子が専門的に絵を学ぶことが出来た、女子美術専門学校を首席で卒業。在学中の作品、「高原の秋」、「庭の一隅」は、繊細な描法と落ち着いた色調で草花が描かれており、確かな技量を感じさせる。卒業の翌年、1936年、再興第23回日本美術院展覧会に初出品し入選。厳選で知られる同展に、22歳の若さで、しかも女性が入選したということで、新聞に写真が出るほど話題になった。同時に父、千靱の手が入ったと誹謗されもした。しかし、このいわれなき中傷が、却って和子の負けん気を刺激した。本格的に画家となることを決意したのである。
翌年、父の勧めもあって安田靫彦の画塾、「火曜会」に入る。安田靫彦は和子の禀質を見抜き、その個性を生かす指導をした。周知のごとく安田靫彦は、大和絵を基礎に、厳密な時代考証による新古典主義といわれる、典雅で洗練された歴史画を確立した。求道的ともいえる厳しい制作態度により、作品は深い精神性を感じさせる。その靫彦から、和子は技術的なことはもとより、制作に対する厳しい姿勢を学ぶことで、画家としての精神形成を培うこととなった。また、靫彦の門下には小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠、片岡球子といった錚々たる先輩画家がおり、彼らからの刺激も大きかった。
戦前、戦中は、穏健かつ的確な写実による清廉な画風を示したが、そのほとんどは残念ながら現在残っていない。また、戦中から戦後間もなくは、千靱が建てた妙高高原赤倉の画室に疎開。家事、出産、育児に追われる日々を過ごした。
戦後は、1949年から院展に出品するが、間もなく画風模索の時期を迎える。当時の美術界は、戦中の自由主義弾圧の反発もあって、旧来の美術が否定される機運が強かった。西洋モダニズムが一気に復活し、同時に美術もまた社会の現実と向き合い、絵にすることが求められた。こうした風潮のもとで、西洋美術=西洋の世界観を基準にした洋画に対し、日本の伝統的な美意識を貴ぶ日本画は、非難の矢面に立たされた。「日本画滅亡論」、「日本画第二芸術論」が喧伝される事態に至り、日本画はしばし冬の時代を迎える。
これに対して、「世界性に立脚する日本絵画を目指す」山本丘人、上村松篁等の「創造美術」の活動や、高山辰雄等、日展若手画家を中心とする「一采社」の動向なども目立った。院展内では他の団体ほど顕著な動きはなかったが、30代、40代の若手の作品には西洋近代洋画の影響が広がった。和子もまた、こうした戦後の新しい動向に真摯に向き合った。前述のごとく、父千靱も若い頃に西洋近代美術に関心を持っていた。こうしたことも、刺激になったのかも知れない。新時代の感覚に見合う作品を模索するなか、特に強く影響を受けたのが、千靱の研究会、草樹社の先輩画家である馬場不二であった。この間の事情を和子は、「(馬場不二)先生の作品は非常に新しい感覚で、私にとっても魅力的でした。私も半具象的なものを求めて模索していた時期だったので、馬場先生に是非ご指導を受けたいと思うようになりました。馬場先生からは写実から半具象へと変わるための省略、形態などの方法や考え方を学ぼうと、下馬の先生のご自宅に通い続けました」としている。
馬場不二は、岩橋英遠らとともに院展において、新感覚の日本画を目指した画家である。しかし残念なことに、院展同人に推挙された1956(昭和31)年、50歳の若さで没している。和子は馬場の没後、岩橋英遠に指導を受け、自己の納得する画風への模索を続けた。
そうした努力が実り、1957年、第42回院展出品作「真昼」によって、日本美術院賞・大観賞を受賞する。この作品は、鮮やかな色彩と大胆な装飾性による花卉図である。ダイナミックな構成により生命感あふれる作品となっている。特にその力強く明るい色彩は、伝統的な花鳥画とは異なるものとして、「型破りで大胆」と評され、話題となった。以後、不断の努力を進め、色面構成による空間表現、フォルムの簡略化による大胆な装飾性がさらに深まる。その結果、1960年には第45回院展出品作「花苑」が再び日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院同人に推挙された。和子、46歳のときである。
1961年、和子は父千靱の取材によるインド旅行に同行する。強烈な日差しで見た異国の風物は、現実を通り越した幻想世界を垣間見せた。帰国後、作品の色彩の輝きはさらに増し、フォルムは流動的に変化し、幻想味を帯びるようになる。自身も「自分の道を邁進しつづけ、ふと気がついてみると半具象から幻想絵画になっていたことを自覚しました」としている。この幻想性への試みは、1970年第55回院展出品作の、「榕樹」となってひとつの頂点を迎えた。直接のモチーフは約10年前に見たボンベイの岩窟でみた榕樹(ガジュマル)である。ちなみに、この作品に限らず和子はどの作品にも、絵にするまで実に長い時間を構想にかける。
「榕樹」は、複雑に絡み合う幹や枝から垂れ下がる幹と気根が、まるで蠢く生き物のように表現されている。力強い生命力を感じさせると共に幻想性が滲み、存在感を放つ作品となっている。大和絵の装飾性を大胆に翻案し、抽象絵画やシュルレアリスム絵画などにも通じる造形は、和子が目指した「伝統絵画と近代造形の融合」したものといえよう。この作品は高く評価さされ文部大臣賞を受賞している。
戦後、新時代の感覚に見合う新しい日本画を目指し、試行と模索を続けてきた和子に、大きな転機が訪れる。直接のきっかけは、1975年に父千靱が他界したことによる。深い悲しみのなか、追い打ちをかけるように、2年後には母蔦子が亡くなった。院展の重鎮画家だった千靱が亡くなると、和子を取り巻く状況は大きく変わった。手のひらを返すように疎遠になった画商や美術関係者たちもいた。人間不信を感じ、孤独感、孤立感に苛まれる日々を送る。また、それまで進めてきた画風にも行き詰まりを感じてきた。こうした閉塞感を打ち破るべく、再び試行と模索の時期がしばらく続く。
この苦しい時期を和子は、「東洋画とは?日本画とは?と自問しながら暗中模索した時代」としている。制作が滞る停滞の時期、庭の梅の木をよく眺めたという。それは千靱が植えた樹齢100年ほどになる老木で、半ば朽ちながらも毎年花を咲かせた。その花は、亡き父の無言の応援のように和子には思われた。
「どんな状態であっても、自分の与えられた使命をまっとうするよう努力するのが美しいことではないか、と自分なりに考えるようになってきた」「今まで、美しいと思われるものよりも、自分で面白いと感じたものを中心に描いてきたが、この頃から、自然の中にある美しいものを描きたいと思うようになってきた」と、当時の心境を後に振り返っている。
長く苦しい模索の時期を脱し、新たな画風の兆しをみせるのが、1984年の第69回院展に出品した、「閑庭」である。それまでの鮮やかな色彩は一切使わず、落ち着いた色彩による様式化した自然描写となっている。以前の作品とは違い、極力無駄を省いた構成により、閑静で静謐な空間を生んでいる。その古典的な美意識を生かした表現は、簡素でありながら豊かな世界を生み出しており、和子の新境地を示した。
内閣総理大臣賞を受賞したこの作品は、近代的な造形感覚を消化した後の、新たな伝統絵画への取り組みといえよう。そして、翌年から始まるライフ・ワークとなる、「梅」の作品への助走ともなった。
翌年の院展には、「古木に出た紅梅の芽」を出品。これは湯島天神で見た、越冬用の藁を巻いた老梅を描いた作品である。厳寒のなか咲く梅の花に、凛とした気品と生命力を託した。同時に、何年も胸底に温めていた、父が残した庭の老梅の姿も重ね合わせている。これが、和子のライフ・ワークであり、画業の集大成となる梅の連作の始めとなった。このとき、すでに和子は71歳を迎えていた。
以後、梅をモチーフにした作品が次々と制作された。その初期のころは、色数を抑え黒色を基調にした作品が目立つ。これは、「空間の大きさ、清潔で透き通るような色調が日本画に必要と気付いていたが思うように描けず、いっそ色を取ってしまおうと思い白と黒の世界に挑戦」したことによる。評価の高かった、鮮やかな色彩を敢えて封印し、枯淡に通じる色彩世界を模索したのである。これはまた、年齢を積み重ねて初めて感得した、日本の伝統的な美意識の奥深さにも通じるものである。
毎年の連作にあたり、梅のモチーフを求め、全国各地を訪ね歩いた。これには尊敬する院展の先輩である小倉遊亀からの、「一つのものに興味を持つと、絵って色々と発見があるね。同じテーマでもかまわないから材料や条件を変えながら取り組んでごらんなさい。もっといろいろな発見があるでしょう。」という助言もあった。
特に1990年代末頃からは、飛鳥大和路を何度か訪れた。ここは師である安田靫彦も親しんだ場所である。「飛鳥を取材する機会に恵まれました。そこで目にした風景は私がずっと探していた景色でした。それから数度この地を訪れましたが、花鳥ばかり描いてきた私にとって風景画はとても難しく、どの様に描こうかとただ眺めている時間の方が多かったようです」としている。度重なるこの地での取材によって、「大和路の梅」(1998年)、「飛鳥路の春」(1999年)といった風景画の秀作が生まれている。 さらに2000年代に入ると、また新たな展開をみせる。「春日蜿々(紅梅)」(2000年)、「春日蜿々(白梅)(2001年)」では、大画面いっぱいに大きく梅のみが、見上げるように描かれる。複雑に折れ曲がった枝と無数の梅花による構成は、まるで抽象絵画のようである。同時に、折れ曲がりながらも天空に伸びる枝ぶりは、和子の苦労と努力を重ねた来し方を思わせる。
晩年に展開した、梅の連作による新たな画境は、高く評価された。1997年には芸術院会員に推挙され、2002年には文化功労者として顕彰された。この年、米寿を迎えた和子は、「私も八八才になります。これからも自然から学び精進を忘れずに作家魂を燃やし続けてゆく所存です」と述べている。この言葉通り、101歳で没するまで梅をモチーフにしながら、様々な取り組みを続け、常に新たな感動を見る者に与えた。
こうして、40年に及ぶ「梅」への取り組みによって、和子は「梅の画家」として知られるようになる。梅は日本では古くから多くの絵師、画家に愛されたモチーフである。師である安田靫彦や、院展の先輩である片岡球子も好んで絵にした。しかし、40年以上もの長きに亘り「梅」に集中し、取り組んだ画家は和子以外例が無いのではないか。これほど長く梅を描き続けたのは、それが単なるモチーフではなかったのであろう。
長きに亘って観察し絵にすることで、梅はいつしか森羅万象を映し出す象徴的な存在にまで昇華したのだと思われる。人生の艱難辛苦、喜び悲しみ、生命の営み、自然の摂理こういった諸々の思いが、和子の梅の絵には込められている。飽くことなく梅を描き続けたのは、それが強い必然性に促されていたからである。このことを具体的に言えば、以下のようになるだろう。
前述のごとく「梅」に取り組む直接のきっかけは、かつて庭に父が植え、今は樹齢を重ねた梅の老木。その木に「亡き父の魂が宿り、制作に行き詰った自分を応援してくれた」とする。同時に、「寒中に、身を細らせて花を咲かせる梅は、生命の尊さや生きる力強さを教えてくれているように感じます」ともしている。いつしか梅の魅力に取りつかれ、執拗に写生を繰り返すことで、生命の輝きと移ろいを目の当たりにし、自然の微妙な変化を敏感に感じ取るようになる。
そこには、若い頃西洋から学んだ、個性による絵の創出という姿勢は後退する。個を抑え慎み深く、謙虚に向き合うことで、自然はより多くのことを語りだす。四季の移ろいと共に、幹も葉も花も変化してゆく。この当たり前のことに、深い自然の摂理を感得するようになった。
同時にまた、ときどきの思いを込めて観察することで、梅はいつしか自身の分身のようにも思えたであろう。それを絵にすることは、日本古来の美意識である、「寄物陳思」、すなわち「物に寄せて思いを陳ぶ」に通じる。和子の梅の作品は、自然(梅)の情景に自己の心情を重ねあわせる、彼我一体の感覚が濃厚である。風雪に耐え、枝を捩りながらも、高雅な花を咲かせる梅の姿は、生涯、努力と精進を怠らなかった和子そのひとと重なる。
晩年になるに従い、梅の絵はいつしか抒情性を増し、画家の心情を強く揺曳するものになる。これは、梅の絵を通じて和子が胸中に去来する自身の思いを重ねているからであろう。
思えば山あり谷ありの人生であった。日本画家という特殊な家庭環境のもとに生まれ、自然と絵の道に進んだ。しかし、当時は圧倒的に女性の立場は弱く、美術の世界はなおさらその傾向が強かった。和子は常に、女性、しかも千靱の娘という色眼鏡で見られ、評価されてきた。こうした理不尽な世間の眼に、怯むことなく、逆に持ち前の飽くなき向上心をばねにして制作に励んだ。さらに私生活では結婚、出産、離婚、子育てを経験している。離婚後は一時的にせよ、親を頼らず生活費を工面することにも奮闘している。また千靱の老齢とともに、生活はもとより制作面でも、秘書兼付き人のように献身的に支えた。こもごもの苦労と努力は、余人には伺い知れないものがあるだろう。和子はこうした艱難辛苦の経験を、すべて制作へと集中させ、昇華させてきた。
梅の作品群が見せる凛とした気高さ。同時に持つ悠揚とした伸びやかさ。これらは和子という女性ならではの包容力の顕れであり、また、和子の人となりを端的に物語るものなのである。
現在、美術界での女性の活躍は目覚ましい。もはや女性抜きで現代の美術は語れぬほどの勢いだといえる。社会が混迷と混沌のさなかにあって、だれもが閉塞感を感じている。そうした状況だからこそ、女性本来の生命力、包容力が美術の表現においても求められているのだろう。その意味でも、豊かな包容力と、根源的な生命への祈りを孕んだ和子の芸術は、いまある女性作家の活躍の嚆矢だといえる。
さらに40年間の長き制作において、さまざまな作品の展開が可能となったのは、その構図や空間構成に若き日に会得した、西洋近代の造形感覚が生かされているからである。数多い梅の作品群は、あるときは梅を全面に、また添景とし、大胆で自在な構図によって展開される。その作品が織りなす豊かな世界は、西洋美術、日本の伝統美術から得た、和子の引き出しの多さを物語っている。 絶筆となる「宙のかがやき」(2016年)は白梅の背景に青空、そして虹がかかる。「私にとって虹は自由への架け橋です。虹を配することで宙の輝きを空想してみました。」としている。それは、80年という長い画歴において、自然を見続け、寄り添ってきた画家がたどり着いた、高雅にしてたおやかな画境である。 川崎市岡本太郎美術館館長 武蔵野美術大学客員 |
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