“小杉焼”草創期のパトロン

 
 

初代小杉焼き陶片部分

 

 

 

 古今東西を問わず、芸術・文化の発展において、パトロンという存在というものが大き
い。パイオニアとは、とかく最初のうちは理解されないものだ。多くの場合、まずは少数
の支持者としてのパトロンの支持を得て、活動の基盤を作り、実績を 積み上げ、支持層を
拡大していく、というわけだ。それは、江戸時代後期、越中・小杉の地に繁栄した、小杉
焼にも言える。
 小杉焼の開祖・與右衛門は、小杉に生まれ、成長して諸国の陶窯を巡るなかで下総・相
馬焼と出会い、その秘伝を習得する。その後、與右衛門は帰郷 し、独自の作陶を目指して
築窯する。しかし、開窯当初から順風満帆であったわけではなく、様々に苦 労と試行錯誤
の繰り返しだったようだ。そんな小杉焼の開祖・與右衛門を支援したのが、当地で醤油の
醸造業を営んでいた高畠屋仁左衛門だったという。
 その高畠家の末柄にあたるのが、現在、東京在住の高畠麒四郎さん。麒四郎さんは、電
気工事の設者 計・施工を業務とする会社、アベックス和光の経営で、在京の小杉町出身に
よる“東京小杉会”の会長 も務めた。若くして上京した麒四郎さん自身は、小杉焼に関し
て印象深い思い出があるわけではないのだが、父親から先祖と小杉焼の関係について、よ
く 聞かされたという。その内容は以下のようなもの。
 「私の先祖は、元々金沢の出で、前田家の宿労だったんですが、隠遁し、小杉の地に移
り住み、代々 高畠屋仁左衛門を名乗り、当地の庄屋のような役割 を担っていたといいま
す。それが江戸後期の文化文 政から天保時代には、醤油屋を営んでいました。ちょうどそ
の頃、帰郷後開窯し作陶を始めた、小杉焼の初代・與右衛門に、それまでと代わる戸破に
土地 を提供。また、資金提供までして、新しい窯を築かせた。戸破窯は、その後明治に至
るまで、長年小杉 焼が焼かれることになります。さらに、仁左衛門は、初代・與右衛門が
焼いた製品を一手に引き受 け、意欲的に販売を手掛けたと言います」
 そうして、高畠屋仁左衛門が、初期小杉焼の販路を開拓したことによって、小杉焼は軌
道に乗り、隆 盛を迎えることになるというのだ。
 「しかし、安政の大地震(1855)によって、高畠家の醤油醸造所に大きな被害が出て、
それが影響して家運も傾くことになった。そうして、小杉焼のパトロンとしての役割を果
たせなくなったわけです」
 ただ、麒四郎さんも、風呂屋だった実家にたくさんの小杉焼があったことを、よく覚え
てると いう。
 「そのなかに、大きな小杉焼の油を入れる甕があって、小杉町の町長だった片口安太郎
さんの求めに 応じて、買ってもらったそうです」
 片口は、郷倉千靭とともに、昭和初期から小杉焼再評価の中心人物の一人。その後、高
畠家が小杉焼 に関係することはなかった。が、昭和49年に刊行された、初代高岡市立博物
館館長・定塚武敏の著書期 「越中の焼きもの」(巧玄出版刊)には、小杉焼の初のパトロン
として“高畠仁左衛門”の名前が記述さ れている。
 
 (藤田一人・美術ジャーナリスト)
 
 

                           

 
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