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       初代小杉焼−その歴史的展開  | 
    
|    初代小杉焼き陶片部分  | 
    
| 小杉焼は、江戸後期の文化年間(1804〜17)から明治30年代まで、小杉町城内で操業さ | 
| れていた陶窯。小規模な地方窯ではあるが、その優美な造形性とシンプルだが艶やかな釉 | 
| 色で全国的に知られる存在だった。 | 
| 小杉焼の創窯については、諸説あるが、なかでも有力なのが、 文化13年(1816) | 
| 小杉出身の与左衛門なる人物が、諸国の陶窯を巡り、相馬焼の秘伝を習得した後帰郷。郷 | 
| 里で築陶し、近隣の上野新村の土を採って作陶を開始したという。 | 
| その後、富山藩から陶器所の認可を得て、藩の代表的な地場産業として成長を遂げてい | 
| くことになる。そうして、二代・与左衛門が窯を継承した、天保から万延年間(1830〜 | 
| 60)にかけて隆盛を極めた。 | 
| 当時、高い評価を得た小杉焼は、高火度で焼き締められたb器で、緑釉、飴釉、灰釉を | 
| 駆使し、艶やかで多彩なニュアンスに富んだ色調が何よりも特色だった。なかでも、酒器 | 
| の徳利は有名で、シャープな曲線の瓢箪徳利や遊泳する鴨をイメージした鴨徳利のユーモ | 
| ラスで洗練されたスタイルが人気を博した。その他にも、茶器、食器、甕や壺、さらに燭 | 
| 台をはじめとする灯火器など、製品のレパートリーは幅広い。 | 
| しかし、文久2年(1862)に二代・与左衛門が没した後、三代目も慶応2年(1866)に | 
| 25歳の若さで亡くなって、一家の血筋が絶えてしまった。その後、親族にあたる陶山三 | 
| 十郎が、四代目を継ぎ、“小杉焼”の名前を守ったが、明治期の大きな時代の変化に順応 | 
| することが出来ずに、衰退に一途を辿り、廃窯に至った。 | 
| 他の地方窯に比べて、短命に終わった小杉焼ではあるが、昭和に入って、再評価する機 | 
| 運が高まった。それをリードした一人が、小杉町出身の日本画家・郷倉千靭だった。彼は | 
| 地元の文化人とともに、小杉焼研究会を立ち上げ、旧窯の発掘をはじめとする調査研究に | 
| 力を注ぎ、その成果を専門誌や単行本、さらに陶磁全集などで発表。今は無き、一地方窯 | 
| の存在をその質の高さを全国に知らしめた。そうして、小杉焼はまさに富山県小杉町が誇 | 
| る文化的象徴となった。 | 
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       (藤田一人・美術ジャーナリスト)  |