| 小杉焼について(郷倉千靱) | 
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       初代小杉焼き陶片部分  | 
  
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| 陶器史上に於て一般鑑賞方面から小杉焼の真の本質価値というものが、高く認識されるように | 
| なったのは、漸くここ七八年このかたである。 | 
| 然し、私達の少年時代にも小杉焼というものは、地方的に相当秀れた陶器として知られていた | 
| が、今日の如き小杉焼、越中初代興右衛門の調子の高い作品に、いささか驚異の眸をもって迎え | 
| られ、いつしか世上随分高価にもあつかわれることから考えて見ると、それは全く雲泥の差であ | 
| る。 | 
| 顧ると、小杉焼と私は妙な関係がある。もう三十五年も以前であるが、私が小学校時代に絵が | 
| 好きではあったが、特に鑑賞心があったわけでもない、ある時学校へ行く途中、学校にほど近い | 
| 田中という骨董店をふと覗くと、幾多のがらくたの中に筆洗に似た深緑色の焼物があった、『そ | 
| れはいくらですか』と訊ねて見ると、金拾餞だということで、その翌朝母にすがって大枚拾餞を | 
| 奮発して買ったときは、随分嬉しい気がしたこと、今尚記憶に残っている。 | 
| 真ん中が筆筒となって、その三方に三個の水溜があった。その青磁の筆洗に水を入れると、そ | 
| の水が澄んで、なんともいえない趣があって子供心にも不思議な光沢のある底深い青磁色の美し | 
| さに、魅惑されたものだ。小学校の穢苦しい机の上に置いて、無心に眺めた少年の心にも竊に言 | 
| い知れぬ美しさの感激に浸された。当時の気持ちが今でもなおよくはっきりと印象づけられてい | 
| る。小学校時代は、所謂キカン坊で、よくしかられた。高長という先生から、圖画の時間になる | 
| と、その筆洗を机上に置いて何かを描いていると『君は絵がうまい、よいものを買った。君に適 | 
| している。これは実に感心なことだ。どうだ君は将来画家になったらよいな』というようなこと | 
| を言われたことを、かすかにうろ覚えに思い出される。 | 
| その筆洗をどこで失くしたか、今でも惜しく思っているが、些少も記憶がない。また更に小杉 | 
| 焼をすっかり忘却していた私が、その後いつしか一画人になったこともまた考えを改めてみる | 
| と、小杉焼との偶然にも深い因縁関係が結ばれていたような気もする。そうして今また小杉焼の | 
| 研究に関心を深めている私が、自分ながらいかにも不思議なつながりを考えられるのである。 | 
| 私が、支那の唐、宋、元、明の古陶器に大変興味をもって、鑑賞的な気持ちから、いつしか多 | 
| 少研究的な収集に移っていったのは、丁度今より十年程以前であろうか。一体支那の陶器は、い | 
| かにも明るく色彩的で、また、音楽的な諧調をもっているので一般素人には寧ろ、陶器趣味とし | 
| て入り易いのである。その頃私には日本陶器は余りにも繁雑で、殊に日本陶器として重要な位置 | 
| にある茶器類に關する、その文献、閲歴が、陶器そのものの価値を倍加しているようで、たとえ | 
| 興味があっても、まずその文献、口碑の閲歴を研究せねば、真の日本陶器殊に茶器等の名器を鑑 | 
| 賞する事が出来ないという具合で、少々縁の遠いものに考えられてきたために、若干灯台もと暗 | 
| しの感があった。 | 
| その頃といっても七八年前であるが、たまたま帰郷の際、子供の頃の記憶から一つ小杉焼を一 | 
| 通り改めて見てみたいというような気持ちから、まず小杉町並に近郊近在の旧家や収集家の愛蔵 | 
| されているものを相当数多く見せて頂いた。それまで支那の古磁器にのみ研究的心境にあった私 | 
| には、小杉焼というものは、意想外の驚異的存在であったのに、いささか吃驚したのである。 | 
| いかにも、型体上の均整のとれた、寸隙もない緊密な作風や、洗練された釉薬の美しさ、一見 | 
| してともかく陶器として優れた立派な、伝統的な本筋を引いたものであることに於て意外の悦び | 
| を得た次第である。 | 
| 帰京後直ちに博物館の北原大輔氏を訪問した。同氏は小杉焼のことについて、果して如何なる | 
| 見解をもっているかと、同氏の意見を聴いた。さすがに同氏は陶器界の権威として小杉焼そのも | 
| のについて恁な意見をもっていられた、「小杉焼は大変結構なものです、地方窯としてあの位に | 
| 優れた、特にロクロの切れ味の素晴らしいものは一寸他に類例のないものの一つです。自分も是 | 
| 非小杉焼を研究してみたいと思っていますが、幸い貴方は御郷里のことですから、どうか地方窯 | 
| のことは、地方の方の研究を待つことはもっとも的確ですから、貴方を中心にご研究願い度い、 | 
| 自分も既に鴨徳利始め三点ばかり集めています」という、かなり好意的な積極的讃辞を享けたの | 
| であった。また、その後東京のある入札で偶然にも小杉焼としてまことに優秀な小型のフリコを | 
| 見た。飴色と青磁の、だんだらの模様で、まことに型の秀れたともかく立派なものであった。私 | 
| は、その最低入札価格より約三倍近くも入れたかと思うが、結局落札が出来ず、甚だ残念に思っ | 
| ていた。一体小杉焼を集めている人が他にもいるのか、というような気持ちがしていた。その後 | 
| あるとき古美術収集家して有名な、根津嘉一郎翁が美術院同人一同を招待された。その席上でお | 
| 隣の座におられた長野草風氏から密かに肩を叩かれ小さな声で「例の小杉焼のフリコは残念でし | 
| たね、二番札は貴方であったそうですね」と言われた ので、これはてっきり、同好の長野氏に持っていか | 
| れたと反問すると、「いや、僕ではありません、この間脇本樂之軒君から聴いたのです」間もなく脇本氏に | 
| お逢いする機会があって同氏に「貴君は小杉焼を収集しているのですか」と聴くと、「先日は失敬しました | 
| 。あのフリコは余りにも素晴らしいので、うんと奮発して漸く手に入れました。今少しのところ | 
| で貴君に取られるとこでしたな」と呼々と共笑したのであった。そうして「小杉焼というものは | 
| 、まことに見事なものですね、殊にロクロの正確なまた、味のよさは、仁清、木米より以上です | 
| ね。あんな隠れた素晴らしい陶工がいたものですかね」と激賞されていた。 | 
| その後私が小杉焼の文献を、陶器雑誌「ちゃわん」に掲載することになった。その前提は脇本 | 
| 氏からの推薦で「ちゃわん社」から原稿を依頼に来たことが、陶器方面に顔を出した始めともい | 
| える。それがやがて陶器講座や、寳雲舎の日本陶器全集の一冊を小杉焼をもって著綴することに | 
| もなっている。 | 
| 前述の如く北原、脇本両氏の陶器研究者として権威ある御仁や、また美術家仲間で、収集家と | 
| して知られている山村耕花氏や長野草風氏等も小杉焼に相当関心を持っておられ、小杉焼につい | 
| て研究心を慫慂されたことも、私にとっては小杉焼研究の大きな力ともなっている。また一方、 | 
| 小杉町の片口安太郎氏始め篤学の山本冬州老等の熱意ある小杉焼研究会同人からの文献資料に對 | 
| する、好意も深く、また、不思議にも生を小杉に享けた私が、小杉焼初代興右衛門という立派な | 
| 同じく先輩作家のために、若輩未熟なものながら、一個の作家として私がいつしか使命の責任あ | 
| る如き研究の環境に立ったとも見做れるわけである。 | 
| 文化、文政というと徳川末期近くではあるが、その頃は全国的に焼物の完熟期ともいうべき従 | 
| ってその頃に陶器として随分秀れたものができた。今日の日本陶器史上に大きな陶跡を興えてい | 
| る、就中、吾が越中のみにても四十数か所の築窯があり、越中平野に昼夜のけじめなく火煙が旺 | 
| んに、たちのぼったことを思うと、実に壮観な気がする。小杉焼も同じく、文化年間の所産であ | 
| って、あの寒村僻地に等しい古驛に、どうしてあのような秀れた曲雅古調の焼物が出来たか、と | 
| いうことを不思議に思わざるを得ない人が、随分いると思う、一説には、初代興右衛門は朝鮮や | 
| 支那の流人という名目で前田藩の隠窯であったと見る人もいる。それは支那明代のいわゆる交趾 | 
| 窯のあるものと実によく酷似しているという説もあり、然し文や口碑によると、越中瀬戸の陶工 | 
| の子らしい。そうして十八才から約十年間諸国の窯場の一陶工として巡遊し最後に磐城の相馬窯 | 
| に長く滞在したことは事実らしい。これについての詳細は、かつて茶碗誌上に発表したのでここ | 
| に改めて記述しないことにする。 | 
| 小杉は昔、古志機といって三百数十年来の古驛で、昔は宿場として奉行所もあり、すこぶる繁 | 
| 昌した土地である。従って文人、墨客の来泊する人も多く、松長陶庵は驛の旧家として知られ詩 | 
| 歌の韻事を好み、そこに滞杖する文人、俳人、画人、茶人が、二人や三人がいつも絶えなかった | 
| そうである。また驛の指導者の置位にいた奉行の高田彌八郎は殊に風流藝文に通じ初代興右衛門 | 
| のよりよき伴侶者であった。このような環境に置かれた初代興右衛門は天性才質に恵まれた上、 | 
| 更に幾多の風流韻士と交わりいつしか、それが自己の作風に大きな反映と刺激を受けていたこと | 
| は当然である。 | 
| もっとも興右衛門の作風で関心を深めていた奉行の高田彌八郎は興右衛門のために幾多の紹介 | 
| 状をあたえて彼を金沢百万石城下に小杉焼の顧客を求め、その販路を広めさせた。九谷焼本場の | 
| 金沢にては五彩燦爛たる錦手の華麗な九谷焼とは異なり、小杉焼は極めて端姿雅調にして高古地 | 
| 味なるは当時の風流人士たる武士階級に却而称賛され興右衛門の特殊の作、その悉くは当時まず | 
| 金沢に第一の販路があったものらしい。興右衛門が金沢から郷里へ帰るといつも一分金を、ざく | 
| ざくと懐に持っていた、という逸話もある。今日なお小杉焼の初代品として、相当に秀れたもの | 
| は金沢方面に見出されることも如上の理由である。 | 
| ちょうどその頃京都の陶工青木木米が、金沢春日山に窯を築き北越の陶雅界に一つの指導精神 | 
| として意義ある貢献と大きな刺激をあたえていたのである。初代興右衛門のある作品中に木米と | 
| 酷似したものが、たまに見受けられる。これはたしかに木米から大きな影響を受けていたこと | 
| が、よく確証されると同時に、また木米が所謂金沢青磁なるものを造ったのは、やはりその頃で | 
| 、それは青磁としては果たして興右衛門の右に出ているとは思えない。これはどうも興右衛門の | 
| すなわち支那の天龍寺や八官青磁と別箇の味ある独特の優秀な青磁釉薬を見て、そこから深い一 | 
| 筋の暗示をあたえられたものの如く、私には考えられるのである。ただ木米と興右衛門の関係に | 
| ついて未だ何一つ文献らしいものを見ないのは甚だ遺憾に思う。ただ木米の窯焚に越中屋兵吉な | 
| るものがいたことから推測しても、両陶工の私的交渉は必ずや有り得ると考えられるのである。 | 
| どうも、一体陶工や陶窯の文献史料くらい、乏しいものはあり得ない。これはやはり当時の階級 | 
| として町人以下の比較的低い生活者であったからとも見作される。 | 
| 小杉焼の鑑賞について一言述べておきたいことは、一体小杉焼というものは随分相当の数が多 | 
| いものである。しかしそれは、およそ三代以後五代までのものがもっとも大多数であって、初代 | 
| の作品は極めて少数のものである。 | 
| 三代以後五代までのものは概ね所謂下手物であって、この下手物の大部分のものをもって、す | 
| なわち小杉焼と名称され、その価値の大半を殆ど決定され、批判されることを、誠に遺憾に思う | 
| のである。無論三代以後のものといえども小杉焼には相違がないが、真に小杉焼の本質的価値を | 
| 首肯してもらいたいのは、すなわち初代の全部と二代の青磁釉薬のある一部のものである。三代 | 
| 以後のものにも多少優れたものもないではないが、私は芸術至上主義の見地から見て、大略初代 | 
| と二代のあるもの以外はほとんど問題にしていないのである。世間では青いものを見れば、直ち | 
| に小杉青磁というように見るが、それは大体調子の低いものを標準としていることをまことに遺 | 
| 憾に思うのである。青磁薬は無論小杉焼の特色に相違ないがむしろ鉄釉のもので素晴らしい名品 | 
| をたまに発見して驚くことがある。 | 
| 鴨徳利は一般的に有名で大、中、小として四十五種の種類があってそれぞれ特色があって面白 | 
| いが、私は近来窓ぬきの青磁釉と鉄釉の瓢形徳利に興味を持っている。瓢形徳利は小杉焼として | 
| ほとんど皆上手向であり、その型体線條模様の美しさは言外に絶している、今まで見た瓢型徳利 | 
| の窓ぬき模様としては、富士山、雲、水模様、渦巻模様、柏葉、唐草、茄子、蝙蝠等々である。 | 
| いつかの機会にこれらの窓貫瓢形を集め選んで記念のために印画帖を上梓したいと思っている。 | 
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