千靱とゆかりのある作家 | 郷倉千靱と交流のあった作家との逸話 | |
南風と千靱、千靱と南風@ | ||
「当時院展の先生方は、お互いにあまり交流をもたれなかった。親しくされるの | ||
は各塾の同門の方々くらいで、それ以外は同人の先生同士でも審査の時に声を掛け | ||
合う程度でした。そんななか、郷倉(千靱)先生と私の父・南風は、まさに親友と | ||
いえる仲でした」と、日本画家・堅山南風(1887〜1980)の遺族で娘の堅山寿子さ | ||
んは言う。 | ||
堅山南風と郷倉千靱は1924年に酒井三良、富取風堂、小林柯白とともに日本美術院 | ||
同人に推挙された。そうした縁もあって、以降、南風と千靱は親交を深めていくこ | ||
とになったという。 | ||
そんな二人は、日本美術院における存在感というものも似ていた。南風も千靱も | ||
同人として活躍し、主宰していた画塾からは個性的な才能を輩出。特に、横山大観 | ||
亡き後は、ともに重鎮として院展を引っ張った。南風は、弟子は取らないとされて | ||
いた横山大観に入門。唯一大観直系の弟子として院展で頭角を現す。一方、千靱は | ||
東京美術学校卒業後帝展に出品した後、1921年の再興第八回展から院展に出品を始 | ||
めた、言わば外様的存在だった。そんな二人は、作品に関しても、安田靫彦、前田 | ||
青邨らの新古典主義を軸としてきた院展のなかにあって、モダンなカラリストとし | ||
て独自の道を歩み、高い評価を得ていく。さらに、戦後は官展としての日展にも、 | ||
南風と千靱は盛んに出品し、審査員も務めた。つまり、二人の画家としてのキャリ | ||
アや個性は、院展では異色の存在だったというわけだ。 | ||
さらに寿子さんは続けて、「郷倉先生と父は、主宰する画塾でのお弟子さんとの | ||
接し方なども似ていたのではないでしょうか。とにかく一人一人自由に個性を活か | ||
す姿勢が郷倉先生にも父にも強かったように思います。そして、そんな郷倉先生と | ||
父の画塾は、合同展を開催していました」と。 | ||
堅山南風主宰の翠風社と郷倉千靱主宰の草樹社の合同展は、1956年から“旦生 | ||
会”と銘打たれ、上野松坂屋を会場に十年に渡り毎年開催された。また、1974年に | ||
は「日本の四季」なる画廊企画(北辰画廊)の一環として、堅山南風・郷倉千靱の | ||
二人展が開催された。 | ||
そうして、二人は互いの仕事ぶりを意識し、認め合いつつも切磋琢磨していたと | ||
もいえる。美術評論家の河北倫明は、「千靱画伯の芸術」のなかで、南風が述べた | ||
という千靱へのコメントを引いている。 | ||
「郷倉君は実に真面目思慮緻密の人であり、私はドチラかと云うと粗野で甚だ失 | ||
敗の多い人間であるのだから、時々郷倉君が私の短所の支柱となって呉れるような | ||
訳で、私に取って有難い益友である。郷倉君の制作態度は実に追窮沈思の結果にな | ||
るものの様である。けれども、夫が萎縮窮屈のあとなく、宏々として甚だロマンチ | ||
ックで、しかもいつでも其裏にユウモアを蔵している。何か童話的な愛情といった | ||
様な泌々としたものを感ぜしめる」(「郷倉千靱」1976年 三彩社刊) | ||
そして、千靱も南風が文化功労者に推挙された際に、こう書いている。 | ||
「年齢を加えると、どうやらその色調も淀み筆鋭も鈍重となり、とかく生色が乏 | ||
しくなることは誰しも普通で、精神的にも一種の老化現象をおこすに相違ないわけ | ||
であるが、堅山さんの場合は、むしろそれに反して、老来いよいよ生気に充ちた色 | ||
調の冴え、線条の含蓄がますます洗練され、画心の磨きがかがやいていることは、 | ||
まことに神妙であり不思議に思えるのである」(「美術探求」1963年12月号『堅山 | ||
芸術と人柄』) | ||
その老境に至り輝きを増す南風の画業に対して、千靱自身が刺激を受けていたの | ||
かもしれない。折しも、千靱にとっても東本願寺大谷婦人会館の壁画を描き挙げ | ||
て、一つのライフワークを成し遂げたと感じていた時だろう。が、自分より五歳年 | ||
長の南風の若々しい精神性に接しながら、自分もまだまだ、次の仕事へと自分を駆 | ||
り立てていくことにもなったに違いない。その後千靱は、四天王寺大講堂壁画をは | ||
じめ、以前にも増して強い画面を志向していく。 | ||
藤田一人(美術ジャーナリスト) |
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