千靱とゆかりのある作家   郷倉千靱と交流のあった作家との逸話
     
     
  南風と千靱、千靱と南風A  
     
    昭和も戦前に活動した詩人・小説家の小熊秀雄は、1939年の「堅山南風論」のなか  
  で、南風と郷倉千靱を比較してこう書いている。  
   「南風氏の自然に対する向ひ方といふのは、自然を素直にうけいれ、特に自然と妥  
  協することさへも恐れないが、結局は自然を自分の膝の下に組み据へてしまわなけれ  
  ば気が済まないといいふやり方である。郷倉千靱氏の場合は、自然に反逆する、自然  
  を物をもつて掻き乱すといふ積極性が終始する」(「歌謡詩人」1937年2月号)  
   つまりは、日本的な情緒的自然観に満ちた南風に対して、同じく日本画家として東  
  洋的世界観を表現しつつも近代の合理的精神を貫く千靱、と言い換えることも出来る  
  だろうか。そんな二人の絵画観に対する小熊の論評は、同論が書かれた当時は勿論、  
  戦後に至る両者の画業の展開を通しても、実に的を得ていると言っていい。そこで小  
  熊が比較の対象としたのは、前年(1937年)の院展出品作であった南風の「残照」と  
  千靱の「山の夜」をはじめとする、ともに世評の高かった花鳥画であり、晩年に至る  
  まで、そこに両者の画家としての個性が発揮されてきたことは確かだ。しかし、それ  
  にも増して、南風と千靱の対照的な絵画観を印象付けるのが、ともに晩年において画  
  業の集大成として取り組んだ宗教壁画だろう。  
   まず、郷倉千靱は1961〜63年に京都・東本願寺婦人会館、66〜69年には大阪・四天  
  王寺講堂の壁画に取り組んだ。テーマは前者が「釈尊父王に会いたもう」、後者が  
  「仏教東漸」。特に前者で釈迦と仏教の世界を描くためにインドまで赴き、当地の仏  
  教遺跡や博物館を巡り仏教壁画に仏教彫刻さらにミニチュアール等を精力的に鑑賞、  
  スケッチ、資料収集に励んだ。そしてインドの伝統的表現様式を現代に取り込み、歴  
  史的な宗教世界を再現することに情熱を注いだ。そんな千靱の挑戦を、堅山南風は  
  「君が偉業として永遠に遺るものである」(「郷倉千遺作展」カタログ 1976年   
  読売新聞社刊 『郷倉君追想』)と評した。そして千靱に刺激されたのか、晩年の南  
  風も宗教画に意欲を示した。  
   南風は大正期には宗教画を描き、また1916年から17年にかけて荒井寛方とともにイ  
  ンドに滞在し、当地の文化風土に触れている。その後は、花鳥画を主とするようにな  
  るが、1960年代の半ばから再び宗教的テーマにも取り組み、日光輪王寺薬師堂の天井  
  画「鳴龍」の復元をはじめ寺社関係への揮毫も多かった。そんな南風の宗教画の集大  
  成といえるのが、横浜孝道教団本仏殿の壁画と天井画。制作に三年の歳月を掛け、  
  1978年の完成時に画家は91歳を迎えていた。まさに画業の最晩年に描かれた大壁画の  
  テーマは釈迦の生涯。ただ、それを南風は、釈迦は勿論人物も歴史的風物も描くこと  
  なく、色鮮やかな南国の花鳥と風景に象徴させた。それについて彼は、「かつてのイ  
  ンド体験を六十年間暖めた釈尊の地の純化したイメージ」と語ったという。そこに  
  は、自然と寄り添い共生を宗とする、日本のそして東洋の文化観、宗教観の反映とと  
  もに、東山魁夷の唐招提寺御影堂の障壁画や平山郁夫のシルクロード・シリーズ等に  
  も通じる、イメージとしての宗教画の展開がある。  
   郷倉千靱が近代の合理的精神のもとに、歴史としての宗教的物語を具現化しようと  
  模索したのに対して、堅山南風は情緒的な自然観照のなかから、宗教的世界への想像  
  を膨らませることを試みた。そこに、南風と千靱という二人の画家の対照的な性格が  
  顕著に表れていると同時に、戦後日本美術における宗教画の二つの道が象徴されても  
  いる。  
     
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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