千靱とゆかりのある作家 | 郷倉千靱と交流のあった作家との逸話 | |
岳陵と千靱、千靱と岳陵@ | ||
郷倉千靱にとって、堅山南風とともに、長年に渡る親交と創作上互いに刺激しあった | ||
同世代のライバルとして忘れてはならない存在として、中村岳陵(1890〜1969)を忘れ | ||
てはならない。岳陵と千靱は東京美術学校日本画科で寺崎広業に師事。岳陵は千靱の二 | ||
年先輩にあたる。そして、卒業後はともに文展入選を経て院展に出品するようになり、 | ||
岳陵は1915年に25歳で同人に、千靱は1924年に32歳で同人に推された。さらに両者は | ||
1935年に開校した多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の教授となる。戦後、岳陵は院 | ||
展を離れ、日展に活動の舞台を移すことになるのだが、それまでの岳陵と千靱の歩みは | ||
軌を一にするとともに、その後も二人の画業には様々な点でよく似た展開が見受けられ | ||
る。 | ||
そんな二人は美術学校の頃から交流を持ち、意識しあった仲らしく、後に互いの学生 | ||
時代を回顧している。まず、千靱は岳陵について次のように書いている。 | ||
「美校時代の中村君は、おおむね新味のある歴史畫を描いてゐられた。いつしか、そ | ||
れが、印度アジヤンタの研究者にもなり、また、中央亜細亜の敦煌の壁畫やホツチヨウ | ||
(高昌?=中国西域の歴史的都市)の研究者にもなり、その頃の傾向は卒業制作の『釈迦 | ||
降誕』や文展の頃に出品された『乳糜供養』や、再興院展の最初に出品された『緑陰の | ||
饗莚』や第二回の院展に好評を得られた『薄暮』の如きは主として、それらの研究のよ | ||
い所産であつた」(「アトリエ」1930年4月号『慧明、温情』) | ||
さらに千靱は、「『薄暮』以後は、いよいよ中村君の傾向と特異性がはつきりした。薄 | ||
暮は一種の象徴的ロマンチシズムの作で、その頃の畫壇には尤も迎合された、まもなく | ||
中村君の作畫の上に一つの慧明な革命が起きた」と続け、その後の後期印象派、大和絵 | ||
の繊細で優美さ等々、古今東西の表現方法を自在に駆使する、岳陵の多彩な展開から、 | ||
「カンと叩けばピンと金属的の音色が反響する弾力性に充ちた作家」と評した。 | ||
一方、岳陵は美術学校時代の千靱をこう綴る。 |
||
「極めて眞面目な人だけに逸事奇行といふ方面の話題には乏しいが、詩人肌の冥想的 | ||
な處に人を惹きつける深味があつた。當時所謂デカダン派の盛んな時代に、彼の哲学的 | ||
な超然たる態度は、時の一部の友人と相容れないものがあるようにも見受けられたが、 | ||
特に親しい友人きは彼を敬愛してゐた」(「美之国」1926年5月号『學生時代からの 友』 | ||
)そして、「初め宗教畫のようなものを描いてゐたが、段々自然に親しみ、雑草などに | ||
趣味を持つようになつてから彼の畫風に一轉機を來した」と。 | ||
そんな二人は昭和に入り、モダニズムへの傾倒が顕著になっていく。岳陵は、歴史物 | ||
語、風景、花鳥そして現代風俗と幅広く、千靱は主に花鳥画の世界で、明るく爽やかな | ||
色彩と斬新な画面構成にナイーヴな情緒を湛えた画風を展開。それによって、両者は高 | ||
い評価を得るとともに、日本画壇における地位を確固たるものにしていった。 | ||
しかし、彼等の学生時代の回想から浮かび上がっているのは、西洋それも近代美術 | ||
への憧れではなく、ともに東洋の宗教的世界に惹かれ、日本はもとより古代インドや中 | ||
国の宗教画や宗教彫刻を熱心に学び、研究していた姿だ。その後、両者の画業は多彩に | ||
進展を遂げていくことになるのだが、やはり画家としての核の部分では、宗教的テーマ | ||
や宗教画への思いが変わることなく息づいていたのだろう。そのことは、戦後に至り大 | ||
家として押しも押されもせぬ大家となった、二人の晩年の仕事で明らかとなる。 | ||
藤田一人(美術ジャーナリスト) |
||