千靱とゆかりのある作家   郷倉千靱と交流のあった作家との逸話
     
     
  岳陵と千靱、千靱と岳陵A  
     
   中村岳陵と郷倉千靱は、齢七十を目の前にして、自らの画業の集大成というべき大仕  
  事に取り組むことになる。それが奇しくも、ともに学生時代から心惹かれていた宗教画  
  それも名刹の大壁画の仕事だった。岳陵の大阪・四天王寺金堂壁画(1957〜60)と千靱 の  
  京都・東本願寺婦人会館壁画(1961〜63)と大阪・四天王寺講堂壁画(1966〜69)が、それ  
  に当たる。  
   まず、中村岳陵は1960年の四天王寺講堂再建に際し、それに先立つ57年に毎日新 聞か  
  ら堂内に奉納する壁画を依頼された。時に67歳。日本芸術院会員、日展常任理事という  
  画壇の実力者は、以後四年に及ぶ歳月をその壁画の仕事に精力を注いだ。テーマは  
  “仏伝”。「仏誕生図」「出城図」「降魔図」「初転法輪図」「涅槃図」五つのシーン  
  からなり、釈迦の生涯をドラマティックに表現した。その完成当時の評価は高く、翌年  
  の毎日芸術賞、朝日文化賞を受賞。さらに1962年には文化勲章受章と画家のキャリアと  
  しての絶頂を極めた。  
   一方、郷倉千靱の場合は、ともに当時の読売新聞社の社主・正力松太郎の依頼による  
  ものだったという。そうして本願寺婦人会館には「釈尊父王に会いたもう図」と「朝の  
  ヒマラヤ」「夕のガンジス」を、また、岳陵の金堂に続くかたちの四天王寺講堂には  
  “仏教東漸”をテーマに玄奘法師の旅を軸に、聖徳太子による日本の仏教の始まりに  
  至る物語を全18の壁面に描ききった。前者の完成が千靱71歳、後者の完成が77歳の時だ  
  った。  
   そんなほぼ同世代で、もはや大家と評されていた二人の日本画家が、晩年に心血を注  
  いだといえる宗教壁画は、それに掛ける意欲や情熱は勿論、互いの宗教画観や表現手法  
  にも相通じるものがある。それが東洋的宗教世界とモダニズムの融合ということではな  
  いか。  
   岳陵も千靱も学生時代から東洋の宗教画に関する知識を蓄えてはきたが、壁画制作が  
  決まると、改めて日本に残る歴史的遺産や東西の書物を通して研究に勤しんだ。さらに  
  千靱は、東本願寺婦人会館壁画制作のためにわざわざインドにまで赴いた。そこまで時  
  の大家を駆り立てたのは何だったのか。それは多分、従来の日本における仏画の様式か  
  ら脱して、古代インドの仏画や仏像を参考にその表現の原点に立ち返るとともに、それ  
  らを近代的絵画観の下に再検証、再構成することで、仏教と仏教に纏わる物語を日本の  
  “いま”という時代に豊かなリアリティを伴って再現しようという意気込みだったのだ  
  ろう。特に、歴史的様式を把握し、それを応用するに止まらず、そこから如何に現代的  
  躍動感を引き出すことが出来るか。それこそが、近代的感覚と合理的思考のもとに昭和  
  の日本画をリードしてきた中村岳陵と郷倉千靱が、自らの画業の集大成として挑んだ挑  
  戦にふさわしい。そうして、両者はともに明快な色彩と画面構成を駆使しつつ、そこに  
  東洋的な描線や様式を織り交ぜていくという、独自のモダニズムによって古の仏教物語  
  を再現した。  
   勿論、両者の間には違いもある。例えば、釈迦の物語を描く場合に、どちらかと言う  
  と、千靱の方がインド美術の様式や風俗に忠実であろうと心掛けている。その分、全体  
  的に色鮮やかな装飾性が強く押し出されることになった。それに対して、物語的躍動感  
  を重視した。それは視覚より情感に訴えるということでもある。それについて岳陵が書  
  いている。  
   「(壁画の登場人物を)印度の人という気持ちには描かず、日本的な表情に従って表現  
  したのは勿論である。それは各国の国々には自国の美術があるように、印度風の装いは  
  していても、どこまでも日本人的感情を盛り上げていった積りである」(「四天王寺金堂  
  壁画」1960年 毎日新聞社刊 『四天王寺金堂壁画制作にあたって』)  
 

 そうしたところに、中村岳陵と郷倉千靱が求めた日本画のモダニズムの違いがある。

 
     
     
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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