千靱とゆかりのある作家   郷倉千靱と交流のあった作家との逸話
     
     
  岳陵と千靱、千靱と岳陵B  
     
   戦後日本の宗教画において、大きな影響を与えたものに法隆寺金堂壁画模写事業が  
  ある。1939年法隆寺の昭和大改修の一環として、金堂解体と堂内壁画の保存に伴う壁  
  画模写計画が持ち上がり、法隆寺壁画保存調査会が発足。同会では安田靫彦を委員とし  
  て、中村岳陵、荒井寛方、入江波光、橋本明治を主任に指名、さらに各主任の下に数名  
  の助手が付いて、翌40年から模写が開始。以降、戦中戦後の激動期を通して模写作業は  
  続けられたが、49年1月26日内陣が全焼し、模写作業は中断する。その後、67年に安田  
  靫彦と前田青邨を総監修に法隆寺金堂壁画再現模写が始まり、翌68年に完成した。こう  
  した模写事業に関った画家達には、名前を挙げたリーダー格の他にも、新井勝利、真野  
  満(旧模写)、羽石光志、平山郁夫(再現模写)等、宗教画及び歴史画分野で評価を得た  
  日本画家が名を列ねる。そうして、敦煌莫高窟壁画に見られる初唐様式の繊細で硬質な  
  鉄線描と隈取りによる陰影法等に影響を受けた、法隆寺金堂壁画の端正な表現が戦後の  
  宗教画の一つの指針となった。  
   勿論、旧模写事業で主任を務めた中村岳陵もその一人に他ならない。岳陵は、吉岡  
  堅二、新井勝利、真野満等を助手にして、第一号大壁(釈迦浄土)、小第五号壁(弥  
  勒)を担当。その合間を縫って第六号大壁(阿弥陀浄土)に、同じく法隆寺の至宝「玉  
  虫厨子」の扉絵及び台座絵の模写も行なった。それまでも日本・東洋の伝統的絵画を意  
  欲的に研究し、多彩な表現を試みてきた。それが昭和に入って、シャープな描線と鮮や  
  かな中にも柔らかさを湛えた色調によるモダンな風俗表現を成熟させ、「都会女性職  
  譜」(1933年)から「気球揚る」(1950年)へと展開していく。そんな岳陵の戦前と戦  
  後の代表作の間に、法隆寺金堂壁画や「玉虫厨子」の模写があり、さらにその延長上に  
  四天王寺金堂壁画がある、と考えればどうだろう。“仏伝”の物語を、インドから中国  
  を経て日本化された宗教美術の様式と近代的感性を融合し、新たな日本的宗教画として  
  再現しようとした意図も納得がいく。  
   対して、郷倉千靱は法隆寺金堂壁画の模写には参加していない。それ故かどうかは分  
  からないが、少なくとも彼の東本願寺婦人会館と四天王寺講堂の壁画には、日本的情  
  感や端正なイメージはない。むしろ、平明な風俗表現と物語としての臨場感を重視して  
  いる。そのためには、人物や舞台設定は原典に忠実であればあるほどいい。だからこ  
  そ、千靱は東本願寺の壁画で釈迦物語の一場面を描くために、アジャンターやエローラ  
  の石窟院をはじめ幾多のインド仏教美術の古典を目の当たりにすることを欲した。さら  
  に画家の興味を惹いたのがインド・ミニアチュール。実際、現地の美術館でそれを多数  
  観るとともに、数点購入もしている。ただ、インド・ミニアチュールの最盛期は16〜19  
  世紀のムガール朝時代。イスラム教の下に栄えた同王朝の美術を参考に、仏教世界を描  
  くことに甚だ矛盾を感じないではない。それに関して、千靱は「壁画と印度」(1963年   
  三彩社刊)で次のように書いている。  
   「印度ミニアチュールには、印度の王族貴族の生活が緻密に描写されているので、壁  
  画の資料として貴重なものである。(略)これらは時代的に見て、アジャンターの壁画  
  より後、約十世紀の隔たりがあり、一方は仏教的要素に蔽われているのに反して、一方  
  は回教的性格を具備しているので、とかく異質と考えられるが、民族的素質の上から見  
  て、実材としての人物、建築、動物、花鳥などの構成上の姿態などに類似点が多く見い  
  だされる。やはり時代を超越した民族的感覚と血のつながりがみられる」  
   そうして郷倉千靱は、古代インドの王族出身者としての釈迦の物語を、20世紀の日本  
  において華麗に再現することを試みた。そこに他の戦後日本の宗教画には見られない、  
  千靱の挑戦があった。  
     
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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