千靱とゆかりのある作家   郷倉千靱と交流のあった作家との逸話
     
     
  多摩美術大学教授としての郷倉千靱  
     
   郷倉千靱が画塾・草樹社を開いたのは、彼が三十代半ばに差し掛かり、同人とし  
  て院展に意欲作を発表する他、日本橋三越で個展を開催するなど、画家として油の  
  乗り始めた頃。ちょうど時代も大正から昭和へと移り変わろうとしていた。以降、  
  制作活動はいうまでもなく、後進の指導者としても千靱は頭角を現し、同塾からは  
  馬場不二、島多訥郎といった個性的な才能が輩出された。また、彼の後進指導はそ  
  れに留まらず、現在の多摩美術大学(多摩美)においては、その創設か ら三十年以上  
  も教授を務めた。  
   郷倉千靱が美術学校で教育に携わったのは、1932(昭和7)帝国美術学校の日  
  本画教授に招かれたことに始まる。1929年吉祥寺に開校した同校は、現在の武蔵 野  
  美術大学の前身に当たる。1935年その帝国美術学校で、校舎の上野毛移転を巡 って  
  教員に学生も巻き込んだ吉祥寺残留組と移転組の対立が起こり、当時の校長・北呤  
  吉をはじめ杉浦非水、牧野虎雄らの有力教授ら移転組が新たに多摩帝国美術学校を  
  創設。それが多摩美術大学の前身となった。その際、郷倉千靱も日本画科の主任代  
  理として上野毛に移る。以後、同校が戦後に至り、多摩造形芸術専門学校、多摩美  
  術短期大学そして多摩美術大学へと変遷を遂げるなか、1966年まで 一貫して教授の  
  職にあり1957年には理事となる。そんな千靱について『多摩美術大学50年史』では  
  「その人柄、教養の深さによる影響は大きい。特にインド、仏教美術に対する関心  
  と後期印象派、特にセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンへの傾倒が渾然一体となった緻  
  密な画風は、その毅然として風格とともに信望を集めた」とある。ただ、千靱自身  
  や周辺の関係者にも、画家の多摩美との思い出や指導内容についてはほとんどふれ  
  た記録がない。それに草樹社から上田珪草、島多訥郎が多摩美の教員として招かれ  
  ているが、草樹社に多摩美出身者は意外なほど少ない。多摩美の教授としての郷倉  
  千靱は、一体如何なる存在だったのか。多摩美の日本画科出身(60年卒業、66年大  
  学院修了)で、長年同教授を務め、現在名誉教 授の市川保道氏は、自身の学生そし  
  て助手時代の思い出を通して、次のように語った。  
  「当時の多摩美は今のイメージとはかなり違うものだったんです。カリキュラムが  
  しっかりと組まれて、頻繁に教授が来て指導するなんていうことはなかった。実技  
  の教室は四学年一緒で、モチーフなどは学生が安いものを持ち寄るほど。だから学  
  生にとって、学校は遊ぶ場所で、絵は家で描くという感じでした。そして先生に関  
  しても、私の学生時代は新井勝利先生と森田曠平先生が毎週学校に来られて指導し  
  て下さる以外、他の先生方は年二回のコンクールの批評会に来られるだけでした。  
  当時と今日とでは、学校側の教員採用条件が全く違ったんです。助手になってから  
  知ったんですが、“教授”という肩書きでも一回3,000円という 安さでした。しか  
  し時代も移り、文部省がもっときっちりとした制度を学校側に要求するようになり  
  ました。その最初が教員の定年制度です。それまで多摩美には定年はなく、院展の  
  重鎮の先生が長年“教授”でおられた。それが昭和41年に70歳定年制が導入され、  
  奥村土牛先生(当時75)と郷倉千靱先生(74)が辞められたわけです」  
 

 そんななかで、一多摩美大生にとっての教授・郷倉千靱の印象とは?

 
   「批評会でお見受けする先生は折り目正しい老紳士というイメージでした。そし  
  て批評会では、あまり個々の作品については細かくは言われず、『こんな絵を描い  
  ていたらダメだ!』とか、『こういうのはイイ!』とか・・・・・・。そして最後には 『と  
  にかく元気出してやれ!』と学生を励まされた。また個人的な思い出として、先生が  
  芸術院賞を受賞された時だと記憶していますが、私の友人に草樹社にいる飯鉢治雄  
  (画号・王朝)がいて、彼が『一緒にお祝い行こう』と誘われた。それで ご自宅に伺  
  うと、先生が出てこられて『やあ、よく来た。いま祝賀会をやっているから君達も  
  一杯やって行きたまえ』と言われて、塾生の方々と祝宴の場に加わりました。その  
  時、こんな若い学生にまで気を使ってくれる、なんと大らかで優しい先生なんだろ  
  うと思いました」  
   教えるのは“絵”よりも“人間性”。大学の“教授”なる肩書きはあっても、あ  
  くまで画塾の親密な師弟関係に軸足を置く、往年の日本画の大家らしいエピソード  
  だ。  
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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