千靱と草樹社 | 郷倉千靱が発起設立した画塾団体 | |
郷倉千靱と草樹社@ 樋笠数慶 | ||
「院展を先達する折衷良識家」。1957年5月21日付「東京新聞」夕刊に掲載さ | ||
れたシリーズ記事「美術人論断」では、その見出しの下に、当時の郷倉千靱につ | ||
いて論じている。 | ||
「院伝来のシーンとした古典趣味におぼれず、むしろ洋風の感覚美を大幅に盛り | ||
こんでいる。といって、めくらめっぽう新しがるというのではなく、そこにハメ | ||
をはずさぬ学者的な中庸があり、いわば米とパンとが健全に半々に割り当てられ | ||
調合されているといった工合なのだ。戦後、他団体なみに洋風化し、感覚的色彩 | ||
主義がはんらんしてきた院展で、この人が元老と新人の調和者の立場にあるとい | ||
われるのもまず妥当だろう」と。 | ||
そうした千靱に対する評価は、彼の作品とともに、彼が主宰する画塾・草樹社 | ||
の存在にも通じるものがある。草樹社は、院展内の他の画塾に比べて、個性的な | ||
人材を輩出した。特に、戦後間もなく、伝統的な日本画と日本画壇のあり方に疑 | ||
問が湧き上がり、新しい時代の新たなる日本画の可能性を意欲的に追求した、若 | ||
き才能が千靱の下に集まり、院展を舞台に自由に羽ばたいた。そして、1950年代 | ||
後半から60年代初めにかけて、彼らのなかから受賞、同人推挙も続き、院展の一 | ||
勢力となっていく。1961年に同人に推挙された樋笠数慶(1916~86)も、そんな | ||
千靱門下の一人だ。 | ||
樋笠数慶は、香川県高松市に生まれ、旧制中学卒業後、画家を志して上京。同 | ||
郷で東京美術学校出身の馬場不二(1906~57)との親交から、馬場が師事してい | ||
た千靱の草樹社に入る。その他にも、馬場に岩橋永遠、常盤大空、吉田善彦、松 | ||
尾敏男らと、研究会を立ち上げ、キュビスムや抽象表現などについて論じ合い、 | ||
伝統的価値観にとどまらない、斬新な同時代的絵画世界を貪欲に探求した。 | ||
「とにかく新しい日本画を描きたい!主人は絶えず言い続けていました」。 | ||
と、樋笠美智子さんは、亡き夫の制作姿勢を語るとともに、そこには草樹社なら | ||
ではの影響も大きかっただろうとも。「私の父(堀田和更)も郷倉門下の画家で | ||
したが、千靱先生は進歩的な考えの持ち主で、弟子の師のスタイルや価値観を教 | ||
え込もうとするのではなく、若い世代にも自由な発想のもとに絵を描くことを奨 | ||
励していたように思います。そんな郷倉塾の空気があったからこそ、古典的傾向 | ||
の強い院展の中にあっても、そこからの飛躍を目指す、強い意識とエネルギー | ||
が、主人にも育まれたのではないでしょうか」。 | ||
樋笠数慶の絵画世界には、花鳥や風景を主なモチーフとして、箔に岩絵具を重 | ||
ねるような重厚なマチエールに、明確な形態と色彩を前面に押し出し、日本画に | ||
よる強い表現、強い表現の希求が見てとれる。彼にとって、“新しい日本画”と | ||
は、“強い日本画”のことだったようだ。それは、彼ばかりではなく、戦後日本 | ||
画の大きな潮流でもあった。 |
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同様に西洋的モダニズムの影響は受けてはいても、師・郷倉千靱と弟子・樋笠 | ||
数慶の“新しい”という言葉に託された意味と意図は少々異なる。しかし、“新 | ||
しい”とは、あくまで時代の感性だ。それを捉えるためには、各々の欲求と確信 | ||
の下、“いま”という時代と素直に対峙する以外にない。そんな郷倉千靱の意識 | ||
は、無意識のうちにも、草樹社の弟子達に伝わっていたのだろう。 |
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藤田一人(美術ジャーナリスト) |
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