千靱と草樹社 | 郷倉千靱が発起設立した画塾団体 | |
郷倉千靱と草樹社A 馬場不二 | ||
「馬場不二君は、真に資質に恵まれた作家であった」(郷倉千靱「馬場不二と | ||
その芸術」1972年「郷土先覚作家展−5」カタログ) | ||
郷倉千靱が主宰した画塾・草樹社に集まった多彩な個性のなかで、千靱がその | ||
才能を買っていたのが、馬場不二(本名・和夫 1906~57)だったという。 | ||
馬場は、香川県高松市に生まれ、香川県立工業学校木彫科を経て、東京美術学 | ||
校日本画科に進学。卒業後、神戸で小学校の教員となるが、画家への夢断ちがた | ||
く、再び上京。創作活動に入った。画壇デビューは1934年、青龍社を脱退した落 | ||
合朗風を中心に結成された明朗美術連盟への参加。都会的なモダニズムを志向す | ||
る同連盟展で、二年連続受賞を果す。その後、38年に岩橋永遠、丸木位里らと歴 | ||
程美術協会を立ち上げ、旧来の伝統主義から脱し、新たな時代の息吹を反映した | ||
前衛的日本画を探求。そんな馬場が、日本画の本質を学びなおそうと入門したの | ||
が、郷倉千靱の草樹社だったという。当時の彼はこう主張する。 |
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「日本画はあく迄も日本画であって、西洋画の模倣であってはいけないとよく | ||
叱られる。然し自己にないものを又自己の内に有り乍ら見出し得ないものを発見 | ||
し、自己を拡充して行こうために他に求めることが果たして悪いことであらう | ||
か。伝統に逆らったと見える私の絵画行動は実は限りになく伝統を愛しそれに何 | ||
分かプラスしようとの熱意なのである」(「美之国」1939年6月号) | ||
そうした考え方は、モダニストであった郷倉千靱にも通じるものがあったに違 | ||
いない。千靱はその若き才能と意欲を高く評価し、後押しもした。しかし、馬場 | ||
のキャリアも芸術的志向も時の院展では甚だ異色。それ故、長らく院展には入選 | ||
を果せず、不遇の歳月を送った。その苦悩の姿を、師・千靱は書いている。 | ||
「私が院展の最終の審査を終って夕景頃帰宅する途中、いつも、私の家の附近 | ||
のどこかに、私の帰ってくるのをひとり密かに待ち受けているのであった。帰宅 | ||
する私の姿を見るや、薄暗い小路のようなところから、或は、塀や電柱の蔭から | ||
飛び出るように、忽然と私に近づき、その瞬間凝視するかのごとく私の顔を覗き | ||
ながら、まただめでしたかと慄えながら挨拶して訊ねるのであった。あゝ馬場君 | ||
かと私も声をおとしながら、また惜しいところ落ちた。真に残念に思うが、来年 | ||
こそ一層頑張りたまえと慰め励ましたことが何年も続いた」(前出「郷土先覚作 | ||
家−5 」展カタログ) |
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そんな馬場に光が差し始めたのは戦後。1948年に院展初入選。53年に佳作(白 | ||
寿賞)受賞以降、三年連続大観賞を受賞。56年同人に推挙された。が、その三週 | ||
間後にこの世を去った。特に、最後の制作は進行する病との闘いでもあったとい | ||
う。“感性豊かなカラリスト”と評された、馬場の晩年の仕事は、モダニズムに | ||
琳派的な装飾性を取り入れ、明快で力強い形態と色彩による画面構成に、ナイー | ||
ブな日本的情緒を漂わせる。それが、馬場の愛すべき伝統に前衛がプラスされた | ||
絵画世界。 | ||
長年評価が得られずとも、「幸い郷倉先生が新しい道に進むように指導してく | ||
れるから、大いに勇気がわく」と、馬場は周囲の人々に語っていたという。 | ||
個々の才能や努力とともに、師弟の強い信頼感が、豊かな可能性を切り開く、 | ||
ということだろう。 | ||
藤田一人(美術ジャーナリスト) |
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