千靱と草樹社 | 郷倉千靱が発起設立した画塾団体 | |
郷倉千靱と草樹社B 島多訥郎 | ||
郷倉千靱は早い時期から、リアリズムを基礎とした抽象性や象徴性に日本画独 | ||
自の行き方を志向していたという。故に、千靱の下に集まった弟子達にも、院展 | ||
の古典主義から離れて、抽象的表現に傾倒する者も多かった。そんな草樹社のな | ||
かでも異彩を放ち、戦後の院展において、最も個性的な仕事が眼を惹いた存在が | ||
島多訥郎(本名・島田訥郎 1898~1983)だ。 | ||
島多は草樹社に入る以前のキャリアからして少々変わっている。栃木県鹿沼市 | ||
に生まれた彼は、若いころから詩人・作家の佐藤春夫と親交を持ち文学に傾倒 | ||
し、早稲田大学文学部に進学。専攻は哲学科だった。しかし、三年在学の後中退 | ||
。一転画家を志して、郷倉千靱に入門。それが1919(大正8)年のこと。以後、 | ||
院展に出品するが24年に初入選を果すが、その後しばらくは落選が続き、昭和一 | ||
桁までは二度の入選のみ。38(昭和13)年以降ようやく入選を重ねることとなる | ||
。しかし、院展でも注目されるようになるのは、戦後も1950年代以降のこと。 | ||
50年の奨励賞から連続受賞し、八年目の日本美術院賞(大観賞)受賞で同人に推 | ||
挙された。 | ||
島多訥郎の50年代以降の大きな転機は、遠近や明暗を廃し、鮮やかな色面の構 | ||
成による独自の絵画空間を展開しはじめたことにある。時は、日本美術界全体に | ||
抽象表現が席巻。洋画家はもとより多くの日本画家もその影響を受けざるを得な | ||
かった。そんななか、島多が取り入れたのがキュビスム。それも、ピカソやブラ | ||
ックの対象を単純な幾何学的形態に還元するそれではなく、そこに現実的イメー | ||
ジや鮮やかな色彩を加味した、グリスの総合的キュビスムと言えるもの。島多は | ||
、花鳥を主なモチーフに、強い線と色面でモダンな画面を構築した。そして、彼 | ||
はそれを現代的様式にとどまらず、独自の絵画論理・思想にまで深めようと思考 |
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した。 | ||
早稲田で哲学を学んでいたというキャリアもあって、彼は周囲から“画家であり | ||
哲学者”と称されていたという。また、主体美術協会会員の洋画家だった長男・ | ||
武幸も、その日常生活を「朝は早くから絵画生活に励み、夕方から夜にかけて学 | ||
問する父の姿が今でも目に映る」(「横山大観」 1985年美術年鑑社刊)と回想 | ||
している。 | ||
そんな島多訥郎は自身の抽象絵画論を、近代西洋の合理主義ではなく、“禅” | ||
に繋がる東洋的精神思想に根差すものだと論じるのだ。その絵画論の一端を挙げ | ||
ると。 | ||
「球体原理は宇宙なのだ。円は宇宙を数学的に表現した、宇宙を佳假した形で | ||
ある。この如く円に駈り假定することが、宇宙の表現を最も強くすることであ | ||
る」(島田武幸編「島多訥郎画論」私家版) | ||
多分に捉えどころのない論理だが、現代絵画とは単なる技術や様式ではなく、 | ||
そこに裏打ちされた思想性が問われる、という画家の信念は伝わってくる。 | ||
その真摯なる思索の姿勢を、郷倉千靱は高く評価していたのだろう。千靱が長 | ||
年教鞭をとっていた多摩美術大学で、島多も教授となり後進の指導に当たった。 | ||
島多訥郎は、西洋のモダニズムと東洋の精神主義の折衷を試みた、まさに異色 | ||
の存在。そのキャリアを旧友・佐藤春夫はこう評した。 | ||
「彼がその古朴なる性格を以てして近代的画風を創始せるも亦一奇なりと謂ふ | ||
べし」(1964年栃木会館・個展の推薦文)と。 | ||
藤田一人(美術ジャーナリスト) |
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