千靱と草樹社 | 郷倉千靱が発起設立した画塾団体 | |
郷倉千靱と草樹社C 荘司 福 | ||
郷倉千靱は東京に活動拠点を置きつつも、地方在住の若い画家達の活動に暖か | ||
い視線を送っていたという。地方の公募展などの審査員を依頼されると快く応じ | ||
た。そして、未知なる才能を見出すことを楽しみに、多くの作品を観て、作家に | ||
声を掛けたというのだ。そうして見出された一人が荘司福(1910~2002)。彼女 | ||
は、師・郷倉千靱の追悼文にこう書いている。 | ||
「先生は私の郷里仙台にはたいへん御縁が深くあられ、仙台で開催されます河 | ||
北美術展に確か十三年も審査にきて下さいまして地方の若い人達を育てて下さい | ||
ました。私も仙台で拾って頂いて先生の画塾草樹社の一員としていただき、何と | ||
か今日まで絵を描き続けている次第です」(「三彩」 1976年3月号) | ||
荘司は、裁判官であった父の任地先の長野県松本市に生まれ、東京の女子美術 | ||
専門学校(現・女子美術大学)日本画科卒業後、宮城県は仙台の親元に戻り結 | ||
婚。その後一男一女を儲けるが、1940年に夫が若くして亡くなる。それまでも日 | ||
本画は描き続けていて、グループ展で発表はしていたというが、心機一転、翌41 | ||
年に河北美術展に出品し、初入選。以降も入選を続け、本格的に日本画家として | ||
の第一歩を踏み出すことになる。 | ||
河北美術展は、地元新聞社の河北新報社等が主催し、1933年から今日まで続 | ||
く、東北随一の総合美術公募展。そこには中央画壇からも各分野の審査員を招い | ||
て、東北在住作家の中央進出の足掛りにもなってきた。その日本画部門の審査員 | ||
として、郷倉千靱が招かれたというわけだ。同展を通じて千靭との知遇を得た荘 | ||
司は、戦後間もない46年に草樹社に入塾。同年、河北美術展で河北美術賞、そし | ||
て院展に初入選を果たす。その後、河北美術展では受賞を重ねて、同委員、さら | ||
に顧問として、長年にわたり地方美術界進展の一翼を担った。また、院展でも、 | ||
62、63年と日本美術院賞(大観賞)を連続受賞し、翌62年に同人に推挙された。 |
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そうして、女流日本画家として頭角を現すようになった荘司の作品は、50年代ま | ||
では東北の地に生きる姿を素朴に逞しく描いてきた。それが60年代に入ると、強 | ||
い描線と色彩のコントラストを駆使したモダンな群像から、さらに抽象化を進め | ||
て、神秘的な宗教世界へと展開していく。そこには、郷倉千靱のモダニズムと彼 | ||
の晩年の宗教画への傾倒が大きく影響しているのか。実際、彼女自身67年以降、 | ||
中国、インド、ネパール等の仏教遺跡をたびたび訪れた。しかし、荘司にはモダ | ||
ニズムにも宗教性にも、師とは違う土俗性の強さが感じられる。そして、師の他 | ||
界後、数年を経て、その強さがスーッと引くかのようなに、素朴で穏やかな自然 | ||
描写に向かった。 | ||
荘司福の世界には、その強さにも穏やかさにも、どこか都会的にはなりきれな | ||
い、豊かな土着性がある。郷倉千靱は、荘司のそういうところに大きな可能性を | ||
見出したのかもしれない。それは、富山県は小杉町(現射水市)出身の自分自身 | ||
にも共通するものだから。そして、その可能性を地方在住の多くの画家達にも期 | ||
待していたのだろう。後は、それをどれだけ洗練出来るか。荘司は先の追悼文を | ||
こう続けている。 | ||
「時々先生と河北展のお話が出ますと先生は地方在住の作家の人々のことを想わ | ||
れて、『あの人はその後どうしているか、なかなか感覚のよい人だったが』など | ||
と作品をよく覚えて居られ、御心にかけてくださいました」(同前) | ||
藤田一人(美術ジャーナリスト) |
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