千靱と草樹社   郷倉千靱が発起設立した画塾団体
     
     
  郷倉千靱と草樹社D 今野忠一  
     
   1940月、日本橋三越で郷倉千靱展を観た当時25歳の若き日本画家・今野  
  忠一(1915~2006)は、その新しい表現に一目で心惹かれたという。そして、  
  それまで師事していた師匠の下を離れて、千靱に入門しようと心に決め、すぐさ  
  ま行動に移した。今野と同郷で日本美術院の同人だった彫刻家・新海竹蔵の紹介  
  で千靱と会い、入門を許された。  
   山形県東村山郡千布村に生まれた今野忠一は、16歳で山形市の南画家・後藤松  
  亭に師事するが、二年後に師が亡くなると、翌年上京。児玉希望に師事し、本格  
  的に日本画家の道を進むことになる。当時、希望は帝展の審査員を務め、官展の  
  スターダムを一直線に駆け上がっていた。しかし、入門から数年を経て、大和絵  
  の装飾性と西洋画の写実性を融合したような時の師の画風に、今野は自身の中に  
  シックリと来ないものを感じ始めていたのだろう。そんな時に出会ったのが、郷  
  倉千靱の爽やかなモダニズム。まさに眼から鱗が落ちるような、新鮮な刺激を受  
  けたのだろう。  
   そうして草樹社の一員となった今野は、モチーフもそれまで風景から花鳥へと  
  転換。入門の年に院展初入選を果たし、日本画家として新たな一歩を踏み出すこ  
  とになった。その頃の草樹社での師・千靱の指導ぶりについて、後に今野はこう  
  書いている。  
   「私が塾に入った頃は、厳しく、批評もかなり辛辣だった。ある時鯉を描いて  
  持ってきた者がいた。先生は下図の前へ行くと、木炭をもって鯉のわきに棒を引  
  かれた。そこから画面を切れという意味かなと考えていると、“ここへ竹竿を立  
  てると鯉のぼりになるね”と言われた。形だけしか描けていないという意味であ  
  る」(「三彩」19703月号『郷倉先生の思い出』)  
  そんな師も「年を経るに従って、円満になられたように思う」と今野は続けて書  
  いている。が、郷倉千靱の弟子思いの深い情と彼らに対する厳しさは変わらなか  
  った。今野にもこんなエピソードがある。  
  戦後、疎開先から戻って院展に出品を再開した今野は、構成的花鳥画で入選を重  
  ねていった。しかし、画家は自身が描く花鳥に納得がいかなくなってきた。そこ  
  でもう一度風景を描いてみようと思い、師に相談した。すると師は「今野君らし  
  い花鳥画が出来かけているこのときに、風景を描くなんて賛成できない」と言っ  
  たという。そこには、院展という公募展での評価のあり方も関わっているのだろ  
  う。とにかく、当時の師の言葉は単なる意見ではなく、絶対的なものが、そ  
  れでも風景に拘った今野は、風景画を描いて塾の研究会に提出して、師の評価を  
  仰いだ。そして作品を観た師は、その完成度の高さを評価して、発表を許可した  
  という。同作「浅春」は、1954年の日本美術院小品展で奨励賞を受賞。さらに同  
  年の院展で「晩彩」が奨励賞・白寿賞を受賞。風景画家・今野忠一が誕生する。  
   それから十数年を経て、師の没後、今野は画塾を引き継ぐことになった。そし  
  て今野忠一は、師・郷倉千靱の画塾への思いをこう回想している。  
   「(相撲の大好きな先生は)絵の精進を相撲の世界に例えられ、先輩とか後輩  
  とかではなく、実力だけが頼りなのだと言われていた。私たちが少しでも勉強し  
  て欲しいという親心からの言葉だったと思う」(同前)。  
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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