千靱と草樹社   郷倉千靱が発起設立した画塾団体
     
     
 

郷倉千靭と草樹社E 下田義寛

 
     
   下田義寛(1940~ )が郷倉千靭主宰の画塾・草樹社の一員になったのは、東京芸術  
  大学の日本画科を卒業した1963年。当時、芸大助教授で日本美術院同人だった須田  
  珙中に勧められてのことだったという。  
   「卒業に際して、学部の担当教官だった須田先生に、郷倉千靱先生を紹介してい  
  ただいた。それが草樹社に入る切っ掛けでした。千靱先生と私は同郷(富山県出身)  
  。院展で師仰ぐには最も適していると須田先生は考えられたのかもしれません」   
  そうして草樹社に入塾した下田だが、同年東京芸術大学に新設された大学院にも進  
  学し、岩橋英遠研究室に籍を置いた。岩橋英遠も千靱同様院展の同人。下田は同時  
  に二人の師を持つようになったと言うわけだが。  
   「大学院への進学は入塾後に決まったのですが、当初は大学院と画塾を掛け持ち  
  することに多少抵抗はありました。そんな折、千靱先生が『大学もあることだから  
  、塾の研究会には自由に参加すればいい』と言ってくださった。それで迷いは吹っ  
  切れました」  
   従来、大学と画塾では指導の方法が大きく異なる。画塾での指導は、春と秋の院  
  展の前に出品作を小下図から大下図そして本画にいたるまで、師の下に持参して、  
  逐一指導を受ける。その過程で師の手が入ることも当然ある。草樹社でも、そうし  
  た研究会の厳しさは他と変わらなかったという。「ただ、千靱先生は当時の院展同  
  人のなかでは数少ない東京美術学校出身者。だからでしょうか、大学教育と画塾と  
  の違いも十分分かっておられて、私には『君はプランだけでいい』と、敢えて研究  
  会に大下図や本画を持っていかないことを許してくださった。千靱先生は各々弟子  
  の個性や状況をよく見て、実に柔軟に対処されていた。そんな草樹社は実に進歩的  
  な画塾だったと思います」  
   当初、下田の作品傾向はルドンに影響された幻想的世界。さらにそれを押しすす  
  めて、異質な心象が重層するダブルイメージと称される世界を展開。1960年代 後半  
  から70年代かけてその斬新な表現は、院展はもとより当時の日本画壇で高い 評価を  
  得る。そうした下田の表現指向はどちらかと言うと、芸大の師である岩橋英遠や平  
  山郁夫に近いものがある。  
   「私が若い頃の千靱先生のイメージは、色が明るく、綺麗で、絵本のようなファ  
  ンタジックな絵画世界。そんな千靱先生の絵に関して最も印象的だったのは、千靱  
  先生が大阪四天王寺大講堂の壁画を御覧になった平山郁夫先生が『千靱先生と私の  
  絵画観は全く異なる。私はやはり現実からしか絵を描けない』と仰ったこと。玄奘  
  三蔵を題材に同様のテーマを追いかけられた両先生ですが、千靱先生は古典的な仏  
  画を描いておられる。それに対して、平山先生はやはり現実から得たイメージを描  
  いておられる。そうした画家の世代と絵画観の違いは確かにあると思います。同様  
  の距離感は、千靱先生と私の間にもありました。しかし、それでも私にとって師・  
  郷倉千靭は大きな存在に違いありません」  
   下田義寛は、67年院展で奨励賞受賞を皮切りに70年には大観賞受賞。さらに69  
  現代日本美術展・コンクール賞、71年山種美術館大賞展・大賞と受賞を重ね る。し  
  かし、75年師・千靱は急逝。その後、三年を経た78年に下田は38歳の若さ で院展同  
  人に推挙された。一方、東京芸術大学や倉敷芸術科学で教鞭を取り、長年後進の指  
  導にも当たってきた。そんな下田にとって、画塾とは何なのか。その意義を問うと  
   
   「大学では幅広い知識が学べる一方で、画塾は痒いところに手が届くように、噛  
  んで含める指導が出来る。そこには単なる絵の指導だけではない、人間性の教育、  
  研鑽の場と言うものも含まれる。いま、私も旧草樹社の人たちを何人か見ています  
  が、そこに93歳の方もおられる。その方は入選落選を超えて、院展に向け て絵を描  
  くことが心の支えになっている。そうした一種の運命共同体という性格が画塾には  
  ある。昨今、大学による知識として絵を学ぶ若い世代が増えるなかで、いまこそ画  
  塾的なものは必要だと思います」  
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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