千靱と草樹社   郷倉千靱が発起設立した画塾団体
     
     
 

郷倉千靭と草樹社F 松本哲男

 
     
   「私が初めて郷倉千靭先生のお宅に伺い、お目にかかったのは、院展に出品を  
  始めて五年目、秋の院展で大観賞を頂いた時のことでした」  
   松本哲男(1943~ )は、まずそう振り返る。松本は、美術教師として栃木県立那  
  須高校に勤め始めた頃、日本美術院同人の今野忠一と出会い、院展に初出品、初  
  入選を果たす。その後、今野に師事する。当時、今野は郷倉千靭が主宰する画  
  塾・草樹社の塾頭格。しかし、松本は当初、院展の重鎮であった郷倉千靭につい  
  ても、草樹社という画塾についても、あまり知らなかったという。  
   「受賞の知らせを受けて、今野先生ご挨拶に伺うと、『これから郷倉先生のと  
  ころに行くから一緒に来い』と。今野先生の師である郷倉千靭先生に紹介するか  
  ら、ということです。しかし、その時の私は、背広はもとよりネクタイも締めて  
  いない身なり。『お前は背広も持っていないのか?』と言われて、今野先生から  
  背広とネクタイを借用して、千靭先生のご自宅に伺いました。その時、今野先生  
  の背広が大きくて、私の体にはブカブカだったことを今でもよく覚えています」  
   その時、今野は自分の弟子が大観賞を受賞したのを機に、自身の師である郷倉  
  千靭に正式に紹介して、草樹社への入門を取り計らったのだ。院展も組織が拡大  
  していくなかで、有力な画塾に入るためには、それなりの実績が必要になってい  
  たということか。  
   「初めてお目にかかった千靭先生は、威厳に満ちて、実に風格のある印象で、  
  お会いした瞬間、身の引き締まる思いでした」と松本は出会いを回想する。  
   そうして松本哲男は画塾・草樹社に入り、千靭に師事することになる。当時、  
  草樹社には、今野忠一をはじめ、島多訥朗、樋笠数慶ら個性的な画風を展開する  
  画家が多く、院展のなかでも活気ある画塾だった。しかし、千靱は松本が入塾し  
  た翌年の19751025日に急逝。松本が師事したのは、一年程の短い期間だっ  
  た。それでも、草樹社での経験は今日の自身にとって貴重なものだったという。  
   「草樹社の春と秋の研究会では、千靭先生を正面にして、全員が正座で講評を  
  伺う。私にはそんな生活習慣がなかったものですから、正座途中で痺れが切れ  
  て、苦労しました。しかし、千靭先生の指摘は実に的確で、写生を軸にして、そ  
  れを各々が如何に絵にしていくかを的確に指示される。草樹社は実に個性豊か  
  で、幅広い個性を大らかに認める、千靭先生の人間性の大きさを感じました。そ  
  れにも増して、草樹社の先輩の先生方には、それまでにはなかった様々な刺激を  
  受けました。今野先生は言うまでもありませんが、当時の郷倉和子先生の斬新な  
  構成、荘司福先生の色使い等、写生から入りながら、各々に描く絵がみんな違  
  う。それでも絵を描く基本はしっかりとしていました」  
   千靱没後も、松本哲男は同塾を引き継いだ今野忠一の下で研鑽を積み、76年に  
  再び大観賞受賞。83年には同人に推挙される。そんなキャリアを経て、今では東  
  北芸術工科大学の学長を務める松本にとって、昨今の美大・芸大に対する“画  
  塾”の存在意義を如何に考えているのか。  
   「私も大学に勤めていて思うことは、絵は教えられるのかもしれないが、画塾  
  は人間を育てる場だと思うんです。草樹社では、世代も感性も価値観も違う、そ  
  ういう多種多彩な人材、才能が集まって、切磋琢磨しながら自分自身を高めてい  
  く。今日、院展でも若い世代は芸術大学、美術大学出身者が多くなりましたが、  
  だからこそ、これから画塾のような人間教育の場というものが大切な様な気がし  
  ます」  
   郷倉千靭も草樹社を主宰しつつ、多摩美術大学の教授を長年務めていた。大学  
  教育と画塾教育の豊かな共存なる課題が、日本画の指導者として心の中にあった  
  と言っていいだろう。  
     
     
 

藤田一人(美術ジャーナリスト)

 
     
     
     
 
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