壁画の心境と(山田昌作さんを憶う)
 
 どうやら二年越の障壁画も、すつかり完成して間もなく東京美術倶楽部の三日間の内示展会と
更に京都東本願寺大谷婦人会館にて壁画の嘆仏謁と贈呈なぞ続いていたので随分忙しく、その間
緊張の連続で一時どうなるかとおもうほど疲労を覚えた。
 
 京都から帰宅して、大きな壁画も、身辺から、いよいよ消えてしまつた画室は広く大きくがら
んとした感じで、なんとなくさみしい空虚感というか、何も手につかず、ただ、ぼう然と庭の鮮
かな草花や、その周囲の樹々の若葉に、凝乎と目をみはつている。しかし考えて見ると、まるニ
ケ年間は完全に瑣雑した外部の仕事や、人事のことなぞから、ほどんと遠ざかつて、ただ一つの
目的を持つた仕事にのみ、打ちこんでいたことが、まことに幸せであつたことを、自らしみじみ
と想起されるのであつた。
 
 大きな壁画を作るという画業は、なかなか容易からざることであると思つた。永くこのような
印度の宗教画から遠ざかつていたので、幾多の資料や考証上の考察やそれを纏めることが大変で
あつた。そうして先年大阪の四天王寺の壁画を描かれた中村岳陵氏や続いて前田青邨、川端龍子
の両先輩が、これから野州日光における大壁画と大阪四天王寺講堂を飾る大壁画を八十歳に近い
高齢で意欲を燃やして精進されつつあることを思うと、衷心より敬意を献げると同時心身の御健
康をひたすら祈るのみである。
 
 顧るに院の同人として挙げられてから丁度今年四十年になるが、今まで六曲屏風、二曲屏風数
双の大作を発表しているが、然し今度の壁画は中心になる「釈尊父王に会いたまう」は堅九尺二
寸横巾二十一尺余、その左右の「朝のヒマラヤ」と「夕のガンジス」いづれも堅七尺、横巾十三
尺にて、大体八間に近い大画面で今までにない、けた違いのものである。岳陵、龍子の両氏の壁
面の数が多く総面積は私の今度の堅画より更に大きいのであるが、三部作として壁面の数は少な
いが中心作の「釈尊父王に会いたまう」の図は大きさにおいては従来日本の壁画に未だ見ない大
画面である。
 
 従来、仏教芸術としての壁画の内容は大体、釈迦一代記や釈尊頌徳行状図、或は、過去因果経
絵図か浄土界伝説絵詞などが主として描かれている。それらの壁画とは全然違つた境地で描いて
見ただけに至難な点も多く、また、今までになかつた新しい壁面を構成したことにもなると思う
それはなるべく暗くならぬように、線香臭い陰影のない明るい、しかも清浄な感覚の表現に努め
たい念願であつた。いうまでもなく壁画にも時代の生活感情の大切なことは無論である。その内
容は人情の機微をうがつて人の肺腑をつき感激の深い劇的シーンを新しい仏教芸術として構成し
て見たいという考えであつた。
 
 まず、この大きなものに対する心構えということを第一に考え、それから拙いものを描いて後
世まで恥をかかぬよう、人笑いにならぬよう、ただ真心から念願することは、なんとか、すぐれ
た立派な壁画を完成したいということのみであつた。そうして肩の張つたような緊張と熱意が昂
ずるのみであつた。そうして懸命に精進しているうちに、いつしか三月、半年と経過すると、そ
のように引続き気負い立つような張りきつた必死の精進がゆるんだのか、知らずにそのような気
持の張りが溶けてなくなり、ただなんとなく心の伸びを感じ、悠々と夢中に描いているうちに、
以前のような堅苦しい制作意欲とか制作意識とかいうものが、いつのまにか薄らいでしまつた。
そうして、なんとなく心の余裕が出てきたというか心平らに一とすじに、しづかな、すがすがし
い気分で、一切のことを何も忘れ果てて無心のままに安らかな気心で画面に向かうようになつ
た。このような日がつづくと、心境の変化というか、今まで画人となつて以来感じなかつたなん
となく描いていることそのものがありがたいという心にうつり、いつしか感謝の念がだんだん日
に日に濃くなるようであつた。
 
 その頃から気分の上にも、楽に明るく心がゆつたりとおちついて自ら描きつつある釈尊の画像
に向つて、朝の仕事の始めと夜の仕事の終わりに自然と心つつましく自ら礼拝をつづけながらど
うやら完成したのである。
 いま一つ懸念されていたことは、もしや永い間のこの壁画精進中、万一病気で倒れるようなこ
とがあつたら、どうするかということであつた。
 しかし、灼熱の印度旅行は短い予定であつたので、見たいもののみ多く、資料と写生のためず
いぶん無理もした。とりわけボンベーからアウランガバードまでわずか機上にて二時間余のとこ
ろを西印度の奥地がモンスーンに近く、豪雨で永らく飛行機が欠航したために、昼夜、車で二十
三時間も広い印度の山野を駆け廻り、焼けた赤土と砂塵のために顔から体まですつかり褐色に汚
れ、剰え、車のエンヂンの焼けた香いと、車の内と外気の熱気はすごいもので、全く焼熱地獄そ
のままであつて、ひどい無理を続けたにもかかわらず何んの障害もなかつた。
 更に帰国早々直ちに壁画にとりかかりこの二ヶ年の間にはずいぶん暑い夏の日も、きびしい寒
さの冬の日も、風邪一つひかずに健在で、どうやらこの大作を完成させていただいたことは、真
に不思議に思うのである。これは全く仏縁につながる御仏の御加護であつたことと私はひそかに
信じ、ただありがたく感謝している次第である。

×     ×

 私は今夏この私として大きな画業から開放された気楽な気持ちで心身の休息かたがた画室の整
理の精進に赤倉の画室に滞居している。そうして毎夏当地の山荘の静養を続けていられた故山田
昌作さんのことを、しきりに憶うのである。
 山田さんとは久しい以前からよく知つていたが戦後数年前にこの妙高高原の私の画室から一丁
程のとこに、清風荘の寮を造られて間もなく、その後方の空地へ瀟洒な山荘ができてから数年以
来、山ですつかり親しい間柄になつた。私は大体この山には年に三回ほどきていつも一ケ月ほど
滞在で帰ることにしているが、山田さんは年に一回、それも真夏の酷暑季節に二週間ほど滞在し
て帰られた。それは病弱のため、せつぱつまつた静養であり自然療養であつた。いつも私は八月
上旬当地に着くと、いつものようにその四五日前に来ていられた。そうしてこちらについた翌日
お隣の小杉放庵老と山田さんを訪問するのを楽しみにしていた。
 よく碁客があり、その横でしづかに見ているのも楽しいものであつた、碁客のないときは、慢
然と二三時間もよもやまの話が多かつたが、よく専門的な質問をされ私の見解を訊ねられたこと
がしばしばであつた。よく人の話を、凝乎聞かれ、おもむろに答い語られる謙譲にして明敏であ
り清淳な人柄であつた。
 
 一昨年六月、印度から帰つてから間もなく山の画室で、「釈尊父王に会いたまう図」と「朝の
ヒマラヤ」「夕のガンジス」の小下図にとりかかり、この三部作の小下図を私の画室にお見えに
なつたときお見せした。そのとき、私はどうもその三部作中の「夕のガンジス」が二三度描き直
していたがまだ気に入らないことをいうと、しづかに瞠めながら、やはりこの三部作中の「夕の
ガンジス」が見劣りすると答えられた。芸術とか絵画というものに正しき系統的な知能や、鑑賞
眼があつたかどうかは知らないが、ともかく鋭い感覚と明澄な頭脳の所有者であつたことは慥か
で、芸術的な面から見ても立派に信頼できる御仁であると思うことが多かつた。それだけに単な
る実業家でない秀れた知性的な素質に敬意を表していた。滞在中は必らず、二度か三度あるいは
奥さんや、お嬢さんとも御一緒のことがあつた。そうして私の画室そのものが眺めがよいとて、
いつも悠々おちつかれるのであつた。
 昨年の夏「夕のガンジス」切小下図が六回描き直してできた頃にも、お見えになり、早速お見
せしたところ、大変よろこばれ、実はその後「夕のガンジス」を非常に気にしていたが、今度の
「ガンジス」を見せて貰え実にうれしい。三部作の小下図の中で、貴方が気に入らないように僕
なぞ見てもどうも見劣りして困ると思つていたと申され、さては今度もどうかと今拝見すると、
他の二部作におとらぬ高い調子で、印度へは行つて見ないが曠漠たる印度の山野に、しづかに流
れている「夕のガンジス」の大きな気分がよく出ていると目を細くして喜こばれたこと、今も目
の前に浮ぶのである。
 
 そのとき、中心になる「釈尊父王に会いたまう」は東京宅にて大分できていると他から聞いて
いますので今秋貴宅へ是非お伺いして拝見いたしたいということであつた。壁画製作中は、誰に
も壁画をお見せせぬようにしていたが、山田さんがお見えになるなれば読売新聞社で造つていた
だいた巾四間、高さ二間半の鋳骨と鉄鋼の上にビニールの尾根をつけた大画架を据えつけた、庭
に立てかけのをお見せするつもりで楽しみにしていたが、生憎旧臘十二月翁久允氏が上京され旧
友の小集に出席したとき翁氏より山田さんの数度の入院をお見舞にでてきたとのことにて、いさ
さか吃驚した。
 
 その翌日、早速病院へお見舞に行つたが、案外元気にいづれ退院して、すこし静養後、今度は
貴宅にて壁画を拝見することを楽しみにしているとのことであつた。
 私もお見せすることを愉しみにしていたが、それから二、三ケ月後に唐突になくなるとは考え
てもいなかつた。今更ながら人間行路の寂莫を心身に泌み透る憶えであつた。
 
 人間柄から見ても重厚で知性的な信頼のできる卓越した存在であつた、年齢的に見ても私なぞ
より二つの年上で、これからいよいよ県や国家のために献身努めて貰えたい山田さんを亡くした
ことは寔に残念である。心より愁惜に堪えない。今夏はこの悠久たる妙高山麓にきて、心のどこ
かに空虚と寂寥を、しみじみ感ずる。
 
 切に亡き山田さんの御冥福を祈る。
    昭和三十八年八月十六日
           妙高にて
 
 
Back