| 印度まんだら |
| (一) |
| 一度でも印度へ行つた人や、話にきいた人たちは五月の印度行きを中止して、もつといい季節 |
| をえらんだほうがいい、かの地はいま四十幾度の盛夏であるから必ず病気になるとおどろかされ |
| た。なるほどニユーデリーの夜の飛行場におりたときは、あたかも地上から炎がわが身に燃えう |
| つるかのような感じがした。 |
| まず翌日、日本大使館へ行く途中、街路樹や住宅街の庭や、公園などの各所にみられる原色に |
| 近い強烈な赤、黄、柴などなどの名のしらぬ大小の花がまつさかりで、いかにも印度にきたとい |
| う感じで暑くてしめきつた車の窓から心うれしくながめた。午後はホテルに帰り一眠りして国立 |
| 美術館(旧イギリス総督府付属美術館)に行つた。この館は、玄関の石段をのぼつて音楽堂にひ |
| としいホールとなり、印度のミニアチユールにみるような高い円形の天井は清潔で柱の多い白亜 |
| の建築である。二階の各室には主として絵画、彫刻の陳列であるが、午後の日がさしこみ、館内 |
| は高熱の蒸風呂のようなはげしい暑さであつた。 |
| 西域の壁画や彫刻の発堀品としてまとまつたものを、あのように多く一堂にみたことがないの |
| で、たいへん有益であり興味をそそつた。中央アジア系の発掘のものではじめてみたものが多く |
| 、さらに新彊省の赫色勒の廃寺の僧房から、また吟喇和卓付近の墳墓中から発掘した壁画は色調 |
| に富み、いかにもエキゾチツクな新鮮味のあるものであつた。その他敦煌の壁画なども数多く参 |
| 考資料になつた。なにしろ五十度に近い館内とて心頭滅却すればの覚悟でみて歩いたが、今にも |
| 目がしらが暗くなり、たびたびぐらぐらと昏倒しそうになる。二時間あまりの館内歩行は私の心 |
| 身にとつて限度であつた。 |
| その翌日、午前中に再び行つたが、やはり三時間以上の館内歩行は困難であつた。また西域の |
| 絵画、彫刻を再見して、他の室に印度の古いムガールとヱジプトのミニアチユールや、ペルシヤ |
| の古いミニアチユールの数多い代表的のものをみて、いかにも十六、七世紀ごろの古い印度の王 |
| 族貴族の生活が、現在一部の印度の富豪や、バラモン系の権力者の生活にも如実に関係している |
| ことと、このころの印度貴族の生活には典雅な熱国の自然と人生のすがすがしい詩情が小さな画 |
| 面にあふれていることに興味を覚えた。 |
| (二) |
| 印度は大きな国だけに、いたるところに新しいものと、古いものとの対照が多い。ローカル的 |
| にもまことに色彩絢爛な国がらである。気候も、夏季、冬季とモンスーン季の三つである。私の |
| 行つた五月はもつとも暑い盛暑で、普通の旅行者はこの季節を控える。 |
| しかしこの季節の旅はいかにも暑く、熱国の印度らしい無数の花が咲き競い、果実が熟する自 |
| 然のふぜいをみるにはもつともふさわしい季節であると思つた。 |
| なにぶん一カ月に近いみじかい旅程とて、なるべくいわゆる観光的な名所回りを排して、目的 |
| の仏教美術に関するものや、古い遺跡にしても芸術的につながりの深いものを主としてみること |
| につとめた。アグラのタジ・マハールも有名な観光的名所として美しい物語をひそめた華麗な遺 |
| 跡であるが、帰りの飛行機が確約されてなかつたのと、百六十キロ余のあの暑い方面から窓をし |
| めきつた車で帰ることを考えると、どうやら辟易して残念ながらやめることにした。 |
| いま一つの理由は、タジ・マハールより古いフマユーン王の霊廟はデリー郊外にあつて、しか |
| も古典建築としてすぐれ格調の高いこの霊廟を模したものがタジ・マハールであることを教えら |
| れたためでもある。緑の森につつまれた閑寂なフマユーン王の霊廟は、なるほど、タジ・マハー |
| ルよりはるかに精華と壮麗に乏しいが、典雅蒼古にして、霊廟として古代建築のもつ線条が、簡 |
| 潔で素朴のうちにいかめしいものが貫いている。付近の丘には大小とりどりの霊廟が蒼然と美し |
| くみられた。 |
| ガンジス川の上流の清冽なジエムナ川をみるぺく、さらにムガール王朝のシヤジヤハンが千六 |
| 百三十年から半世紀にわたつて築造した宮殿をたずねた。贅のかぎりをつくした豪華な宮殿内の |
| 各室の中央に浅い大理石の溝に水を流し噴水をあしらい、その流れのつきるところに四方に水を |
| たたえた大理石の浴室に諸国に号令して美女をあつめ、その美しい裸女の水浴をみて楽しんだ観 |
| 楽場である。これは単なる王様のデカダンス的な痴欲のみでなく、どうやら熱国の一つの清涼を |
| 意味する遊宴ともみられる。ともかく多くの妃たちとともに観楽の限りをつくしたところである |
| 。その大理石の壁面に金銀宝石や象嵌螺鈿をちりばめた豪華さは多少損傷されているが、栄華の |
| 音の夢のように残つている。広い庭の古い大きな菩提樹の緑の芝生のかげに銀色に光る一匹のリ |
| スが飛んでいた。 |
| (三) |
| ポンペイからアウランガバード行きの飛行機が、その奥地方面の豪雨で、三日間も欠航したた |
| め、アジヤンターまで往復約千四十五キロの夜の曠野を車で走つた。豪雨後の道が荒れ、さらに |
| 百二十八キロを遠道したりして、どうやら昼夜二十三時間も車に乗つたため、車のエンジンまで |
| も焼けたらしく、車内がものすごく熱くなつていた。 |
| 国営のアウランガバード・ホテルは豪壮なものであつたが、盛夏のアジヤンター行きの泊り客 |
| も少く、ルーム・クーラーのない緩慢にまわる扇風機は、ベツドの上からつられた白い蚊帳をか |
| すかに波動させているくらいで右手に扇子をつかいながら暑くて眠りづらかつた。翌朝六時の早 |
| い食堂にはいつた。あけはなされた窓から数羽の小鳥が卓上と足もとにも飛んできて、パンくず |
| をついばむのも燐であつた。 |
| アジヤンター行きの車が七時に出発した。高原の肌ざわりのよい朝風は爽快であつた。一望千 |
| 里のはてしない起伏のある赤土の原野は縹渺として、道路の古い並み木以外なんにもない。窓外 |
| には一本の雑草すらみあたらない高原のあちこちにみる牛、馬や山羊の群れが何を食つているの |
| であろうか。 |
| 二時間半でアジヤンターに着いたが、その三十分前から暑さがはげしく車の窓をふさいだ。ア |
| ジヤンター付近は今でも虎や豹が出没する物騒な所ときくが、一見明るい閉寂な渓谷である。い |
| くつかの彎曲した石段をのぼると正面の山腹に窟院がずらりとならんで壮観である。 |
| アジヤンター窟院の壁画と彫刻は純粋な仏教を中心とした二十九個の窟で、東から西へ順次番 |
| 号があり、このうち礼拝を目的とする石塔のある五個の窟院と、あと二十四個の窟院は僧侶の修 |
| 学居住の浄舎である。まず開鑿されたのは紀元前二世紀より紀元七世紀に至る約千年間である |
| が、いまだ完了されていないのである。年代の上より三期に分類される。初期のものは小乗教に |
| 関するものでいつさい装飾もない空洞で、このうち有名な壁画は第三期に属する。八個の窟院の |
| うち第一号と第十七号の窟院壁画はとくにすばらしい。わが法隆寺の壁画より約二百年さかのぼ |
| るだけに、どうやらその源流とも思考され、技術構成の上にたしかに影響がみられる興味深い研 |
| 究資料であつた。 |
| 壁画は釈尊一代記とその奇跡頌徳を物語る大壁画である。壁画の四方はむろんのこと、天井や |
| 入口のベランダや石柱にも、彫りの深い人物、動物、花などの彫刻と、ことごとくフレスコで彩 |
| 色され、昔時は豪華絢爛なものであつたことを考察される。 |
| 三十余年前この壁画の剥落と変色をふせぐための保存上、ニスのような化学塗料をほどこした |
| ために、多少画面には陰影を認めるが、以前からうわさにきいていたほど酸化して黒く変色して |
| いないので安心した。 |
| このケープが発見されたのは今より一世紀前、イギリス駐屯兵の演習中のことで、長い星霜の |
| 間に吹きこまれた砂塵により全部の篇院が埋れていたために、幸いにしてマホメタンの破壊行為 |
| からのがれたことは全く天恵である。さらに仏教の壁画彫刻として最古の美術文化をほこる世界 |
| の至宝である。 |
| (四) |
| アウランガバード街からアジヤンターに行く道と反対に三十二キロ余を走ると坦々としたデカ |
| ソ高原より隆起した高い山上にいかめしいドウラバツドの城塞が眺められ、それからまもなく閑 |
| 寂な山ふところにある大きな岩山の斜面の二十四キロにおよぶ地域に三十四個の窟院がならんで |
| その壮観なことはアジヤンター窟院と類似している。おそらく窟院中、数の多く変化に富むこと |
| もまず印度随一の彫刻窟院である。十二個の仏教窟はじめ十七個の印度教(プラーマン)窟と五 |
| 個のジヤイナ教窟で、これらは七世紀から十三世紀にいたる六百年の年月を経て完成された。正 |
| 面の三階は岩石をくりぬいた楼郭で、近代建築を想起させる間口約三十五メートル、奥行約十三 |
| メートルの大ホールで、三列の石柱はことごとくレリーフ彫りの仏教につながる図様がきざまれ |
| 各階に仏像が安置されてあつた。 |
| エローラの窟院の内カイラーサ窟院は群洞中最も傑出した窟院で、ヒマラヤ連峰の六千九百メ |
| ートル余のカイラーサ山容を信仰的に具象したものである。岩壁の彫刻は神話、伝説、物語が多 |
| く、二階あるいは三階の窟院内の壁画や石柱などは、ことごとく異色ある精巧無比な彫刻で充た |
| されている。 |
| ポンペイ港のアラビヤ海を八キロのところにエレフアンタ島がある。酷熱の陸上と異なり、ポ |
| ンポン蒸気船はさわやかな海風を呼んで涼しい。この小さな島の窟院はアジヤンターやエローラ |
| と同じく岩山の斜面を開掘して、奥院の神体や壁面、岩柱、石段、ことごとく彫りぬきの壮大な |
| る偉観を呈している。窟院の奥院であるうす暗いところに大きな三面像があり、神秘と荘厳な迫 |
| 力をもつた傑出せる巨像である。 |
| 破壊と創造をつかさどるシバ神を象徴するリンガム(男根)が安置され、同じくエローラ窟院 |
| 中のカイラーサ窟院の屋上のドームも、ヒマラヤ連峰のカイラーサの山容も、やはりこのリンガ |
| ムを象徴したシバ神の礼拝を対象としている。このエレフアンタの窟院は比較的新しいが、千二 |
| 百年前に四世紀を経て完成したものである。 |
| 窟院入口の左右両面に、大きな岩壁面の縦に深く彫られたシバの旧踊神、半男半女神や、さら |
| に別の壁面にみる創造神は、いずれも古代彫刻として豪放にして動的な特色が人の心をうつ。 |
| ほかに三つの窟院があるが、いずれも自然の崩壊のため損傷をうけている。 |
| 前述のアジヤンターならびにエローラさらにこの偉大なる窟院をみて深く考えさせられたこと |
| は、われわれ個人の芸術などは、ほんのちやちな一片の仕事にしか思えない。幾十万人の人達が |
| 幾世紀にわたり信仰とその目的のために、一魂の高度な精神力が帰一されて精進完成したこれら |
| の偉大な窟院をみるごとに、ただ芒漠とした無限感にうたれるのみであつた。 |
| (五) |
| 印度の曠漠な山野を縦横無尽に流れるガンジス川の流れを各方面からみたが、ガンジスの主流 |
| はベナレス上空方面からさかのぼつてみたほうがもつとも美しかつた。カルカツタから一時間二 |
| 十分の機上よりバグドグラ飛行場に着くまで天候に恵まれてよくみえた。 |
| バグドグラは車で三時間あまり登るダージリン行きの関門ともみるべき農村で雨上がりのこの |
| 村は青田の水田が多く、白鷺が群れ、農家は茅ぶきで沼津垣のようなもので囲まれている。とこ |
| ろどころに竹林などもみられ道ばたに一面に雑草が繁茂して、今までの印度平野にみられない、 |
| まるで日本のいなかへ帰つたようでまことに心なつかしく思つた。 |
| ダージリンは、磐梯山や妙高山の頂上のような、二千百メートルのヒマラヤ連峰に面した空気 |
| の清澄な、人口五万人に近い山都で、今より百五十年前、イギリス総督府がカルカツタにあつた |
| ころの避暑地としてえらんだ、印度とチベットの国境の町である。山々の山頂や中腹に老杉の森 |
| や林にかこまれたダージリンの町が散在して、いかにも美しい。この山都は、外国人や印度の富 |
| 豪の別荘地でもあれば、また、日本人に顔や姿までそつくりのチベツト人が多く住む町で、世界 |
| 的に避暑地として知られている。 |
| この老杉は明治初年に同じ気温の日本の東北方面から移植されたものが、すでに十五、六メー |
| トルの老杉となり、山の斜面に今も杉の苗木がさかんに植えられている。 |
| 着いた日は山霧が深く、翌日もモンスーンが近い季節とて、朝からひどい雨がふりつづいた。 |
| 暑熱地獄のような印度の下界から肌寒いこの地に来て、まるで嘘のような気がしてならなかつた |
| が、ただ食欲だけがとみにすすんだ。この日の午後三時ごろはからずも雲の霽れ間からちらりと |
| みえた。白い雪に輝くヒマラヤ連峰はすばらしかつたが、連峰中心のカンチエンジユンガの八合 |
| 目あたりまでの雲がうごかなかつた。 |
| 翌朝四時にジープで十キロのタイガ・ヒールに登った。暁の朝日がカンチエンジユンガに映 |
| る、雄大なる金色の神秘にひとしい光景をみに行つたが、ほんのりと雲間の暁陽を仰いだだけ |
| で、さ霧のたちこむ山坂を下つた。十年以前までは駕籠や馬でみに行つたものらしい。 |
| 帰る前日はまたはげしい雨で、部屋にいて夏服の上にレインコートを着ていてもうす冷えがし |
| たが、午後ホテルの食堂前面に、突如として霽れた白い雲間から嶄然と雪肌に光るカンチエンジ |
| ユンガの幽玄荘厳な霊峰を目前に仰いだ瞬間に、ホテルの各部屋の窓から顔を出した。それぞれ |
| 人種の異なつた人たちがおのずから叫ぶ歓声に興奮を覚えた。さらによき展望の場所として一・ |
| 六キロ先の大学付近まで車で駆け、薄暮のころまで写生に余念がなかつた。 |
| ちなみにダージリンは茶の名産地として知られ、付近の山の斜面は茶株の山で茶を摘み籠をか |
| つぐ風情は、静岡茶どころとそつくりである。徳川期にここから静岡へ移植されたものである。 |
| 静岡方面の茶摘み風俗はここからきたもので、茶どころはダージリンが宗家である。 |