紋兵衛の森
 
 二年半前、今の住居より一丁余はなれたところに大阪四天王寺講堂の大きな壁画制作のため造
られた簡易鉄骨とベニヤで組み建てられた画室は、どうやら雨天体操場のようにがらんとして広
い。陽あたりがよく冬はとくに暖い。天気のつづく寒中でも、朝のうちボイラーのスイッチを入
れると一、二時間で大きな室内がすっかり温り、夕景ごろになると漸く多少冷えてくる。夏は冷
房の設備がないため鉄とベニヤが簡単に太陽熱を吸収するので、まるで蒸し風呂に入っているよ
うな暑さである。暑さと仕事に疲れたときは、画室の窓先より三百坪の空地は、一面に身の丈よ
り高く繁茂した雑草群が生々と鮮かに伸び、その草むらのなかに無数の可憐な色とりどりの地味
な花が微風にゆれている。雨のふる日は、またしっとりとした雨情の潤いが美しい。霽れても降
ってもこの草むらのうちに、いろんな小鳥がきて囀り、その軽妙な動きをじっと眺めていると、
いつしか心楽しくうつろな気分によみがえり、再び仕事をつづけることが昨今の画生活である。

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 この辺は未だ若干の武蔵野の面影がのこっている。それは欅の森や林が見られ大空にすがしく
おおらかに拡っていることである。今年初夏の青葉のころは何かふしぎにうっとりとした美しい
魅惑にさそわれた。この辺の欅の大樹が毎年のように、ずいぶん伐採される。遠からず伐られる
運命を想起すると、名残りの美しさというか心に映り、しみじみと感ずる美しさであった。

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 この間、旧友、星の文学者野尻抱影さんから『今ごろは紋兵衛の森は美しいだろぅね』という
お便りがあった。紋兵衛の森とは私の住居のすぐ前の大地主紋兵衛さんの大屋敷を囲撓している
数百年来の欅の森で、古くからこの辺では紋兵衛の森と呼ばれている。私はこのすばらしい欅の
巨樹に魅せられ二十数年前にここに居を移したのである。その当時は、たそがれごろになると、
まるで行人もなく暗鬱な森から廓公や梟の声も寂しかった。夜明けの廓公のわびしい声をきいた
のもそのころであった。私がはじめてこの深沢に住んだのは、ここより更に十丁余先の寒村に、
ひとしく、やはり欅の大樹と孟宗薮に囲まれた農家を改造した古風な家で、詩人白羊の住家を借
りたのであった。そのころは武蔵野には欅林はじめ櫟、檜などの雑木林が多く、起伏の変化に富
んだ、ふかぶかとした黒土の野径はいかにも美しかった。

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 明治二十五年というと私の生まれた年であるが、この年の秋に明治天皇がこの深沢から上馬地
域にかけて、兎狩をされたことをこの辺の古老から聞かされた。
 そうして兎狩に使用された縄綱を古い倉から大切そうに取出して見せられたことを覚えてい
る。そのころは野兎がずいぶん、森や林、更に原野に跳躍していたらしい。この兎狩から十年後
ごろ出た国木田独歩の名著『武蔵野』は代々木村から渋谷村、今の道玄坂上から左右二、三キロ
あたりのところが武蔵野の主題になっているらしい、それからさらに五、六年後、代々木村の陋
居で描いた菱田春草の『落葉』は卅七才の晩年作で、武蔵野の代々木ガ原の静謐な雑木林の広々
とした落葉の丘から画因を得たもので、この作品は明治百年を通じて、まず日本の美術界のもっ
とも代表する名作である。そのころの上馬、深沢は全く原始的な寒村で狐狸や野兎の棲息した奥
武蔵野であったに違いない。

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 大正八年春この南郊武蔵の深沢村に移ってからちようど五十年目になる。ずいぶん古いことの
ようにも思えるが、またすぐこの間のようにも思う。今日半世紀を経てそのはげしい変遷を顧み
て、さらにあと十年後のことを考えると真にいよいよ虚妄錯雑にしてうたた無量の感慨に浸る。

以上

 
 
 
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