| 懐しい思い出(下) 「観山の風格」 |
| 寝台のカーテンを引くと、すぐ前の寝台がすでにかたつけられて、中村丘陵さんが車窓からし |
| きりに澄み透った黎明の富士の写生に余念がない。暁晨の富士はあまりにも静涼で美しい。私も |
| 寝台を下りて、中村さんの座席の隣に胡座をかきながら、写生にとりかかろうとすると、昨夜か |
| ら一睡もしないで独酌をつづけていられる観山先生が唐突にも、オイ中村君、一体富士の写生な |
| んかする馬鹿があるか、とらんらんと三角眼を鋭く大声でどなられるのであった。温厚である |
| が、負けずきらいで信念の強い中村さんも負けずに、富士を写生して何が悪いですかと詰問する |
| と、それだからいけないというのだ。富士を写生すると、こまかい神経質な「皺」だらけの繊弱 |
| な山になるではないか、写真で見る富士も、ほとんど「皺」だらけの線の細い扁平なもののみで |
| ないか。霊峯富士の神秘と、偉大な映像とは、まるで反対の異質的なものになっているという見 |
| 解であった。 |
| そうして特意そうに眼をつむり、両手をひろげ、左右の手の掌を開き、両膝から、おもむろに |
| 額の上まで両腕を扇形に挙げ、富士の裾野の型相を描くようにして最後に右手で横に山頂を意味 |
| するところで一尺位の間隔にして、左にすっと一線を描いて、始めてこれだ。この左右の挙手は |
| 裾野を意味するのでなく、これは即ち、大和島根を象徴する偉大な斜線をもって、最後の右から |
| 引く一線が無限の 大きな霊山としての山頂を表示してこそ 始めて大きく芸術化した窮りなき雄 |
| 大にして壮厳を意味するものであると、いうことであった。いかにも観山先生らしい一つの見識 |
| であるに相違ないが、しかし写生のため皺だらけの神経質になるか、ならぬかは、結局作家自身 |
| の見解であり 主観であり、叡智的創作の心境は、表現する作家各自の構想と組立によることで |
| あって、総明な中村さんもスケッチを止めて、そんなことを気にせず、明けゆく 富士の山容を |
| 凝っと一緒に黙々とみつめ ていた。 |
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× × |
| 大観先生も写生のみを中心にして絵を描くと、とかく卑俗なものになると、よ くいわれてい |
| た。戦事中に先生は陸海軍に飛行機を各一機宛献納すべく、山拾題 海拾題として、三尺巾の大 |
| 横幅二十点を精励された。山拾題は主として、霊峯富士山を春夏秋冬いろいろの見識で描かれ |
| た。大観先生の海山二拾題は単な理想的な主題というより、寧ろリアルに徹してリアルを招いた |
| 秀作であった。この霊峯富士の主材は地域的に各方面から取材さ れた富士がその大部であった |
| 。先生の写生帳を見ると凡そ、簡単な線のメモにひとしい骨格のみであったが、しかし、いよい |
| よ本描になると、大自然をよく心の眼で、しっかりと掌握されているので、い つも敬服するの |
| みであった。この海山 二拾題の製作にとりかからぬ前に、当時 富士百題の芸術写真画集を上梓 |
| された。富士霊峯を研究的に永年に亘り撮影され ていた斯界の権威、カメラマン岡田紅陽 氏の |
| 春夏秋冬を通じて、月花風雪、暁夕時雨、朝陽雲海の、さまざまの自然現象 を芸術的に撮った |
| 写真画集を大観先生に提供され、先生も大へん満悦のうえ参考にされたことを同氏から詳細に聞 |
| かされた。それは当然のことと思った。紅陽氏が多年苦心を重ねられた芸術良心の発想により、 |
| 取材された幾多の富士の写真を更に大観先生のアイデヤ・ナイズされた 格調の高い創作意図に |
| より、一層輝かしい表現として生かされていたのである。 その点、観山、栖鳳の両大家の描か |
| れる 富士連峰は堂々たる意欲と伝統的理想主義の表現を基幹とされた富士である。 |
| そこに自らの見解の相違もあり、やはり大観の富士は近代的感情につながる変化に 富んだ大 |
| 自然の神秘的漂渺とした牡厳雄大なものであり、これは写意を織り込ん だ創作的であり開眼で |
| あり、更に先生の独創と気魄に充ちた富士霊峰との相違であると思う。 |
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× × |
| この汽車が東京駅に着くのは、朝の九時頃で、昼中このままあっけなく各自が 別れるのは、 |
| なんだかつまらないから、これから途中下車して江の島辺で清遊、 ゆっくり酒盛とお腹を充た |
| して、薄暮の頃、東京駅で散会する相談が車中で一決した。 |
| 藤沢駅で下車、四台のハイヤーで江の島に向かった。真先の車には、観山、武 山と小生が運 |
| 転台に酒井(三良)が乗られた。昨夜来呑みつづけの観山先生は、 汽車から車に乗り坦々とし |
| た江の島街道を走る気分が、よほどよかったのか、なかなか機嫌が よく、独り言の多弁が続い |
| た。急に何を思ってか、大声でオイ運 転手よ、思いきってスピードをうんと出してくれたまえ |
| と、叫ぶように言われたが、さすがの運転手も、それはとても危 険であり、規定以上に出せま |
| せんというや、そんな馬鹿なことがあるかと、酔った勢いで言いながら懐から出されたお財 布 |
| の中から拾円の紙幣を数枚左手に鷲づかみにつかんで先生自ら前かがみになり腕 を伸ばして運 |
| 転手の肩の上から一寸見せて、これをやるからスピードをうんと 出してくれと言いながら、運 |
| 転手のポケットへねじ込まれた。さすがの運転手も旦那、ごじょうだんでしょうと言いなが ら |
| も、万一のことがあっても知りませんよ、よいですかと、念を押すような返事をするや否や、 |
| 両手に握ったハンドルを忙しく力いっぱいに回転すると、いよい よスピードが迅速になるに伴 |
| い、こんどはハイヤーの車が急速に駆走するのでな く、まるで宙を飛ぶかのような状感でも |
| のすごく走るのであった。こうなると観山先生、喜色満面、大いに得意になり、 両掌をパチ |
| パチ叩きながら愉快だ、愉快だ、と歓声を叫び、全く天心爛漫の姿はどうやら童心にかえった |
| ような無邪気であり、放心の気特が、遂にわれわれまでも両掌を叩き少年のような、愉しい気 |
| 分に誘われた。 |
| 江の島の桟橋近くで下車した。橋を渡って間もなく近くの岩本楼の眺めのよろ しい広間に、 |
| 通されて四五分も経った頃に、どやどやと後の車の人達がやって来 た。しばらく休息後、やが |
| て広間の中央 にぐるりと円座して、汽車から解放された、江の島の環境が悠々快濶で、伸びの |
| びとした雰囲気で、いよいよ酒盛がはじまった。 |
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× × |
| 空腹の朝酒は、あまり呑めぬ私達には 直ちにききすぎて酔ったが、新鮮な魚貝 や生きている |
| 伊勢えびのお刺身などの磯の香がする生々した味覚は珍重で、とみ に食欲をむさぼるのであっ |
| た。呑める同志は、観山先生を中心に、どっかりと腰を据えて、悠々呑みはじめた。四五人の |
| 女中たちが、さかんにサービスをしている。その中に一人の色白く肉付のよい十人並の、ただ |
| 愛くるしい女が、先生の前にすわって、頻りに先生に酒をついでい た。昨夜来からの酒もこの |
| 環境でよほどうまく、また愉快らしく、いよいよ盃を しげく重ねていられるうちに、ふとご自 |
| 分の前にすわって愛橋よく酒をついでいる、その色白の重量感のする女の存在には っと気がつ |
| いたらしく、たちまち先生のあの鋭い眼が三角に輝き凝っとその溶 姿を、にらむように、瞠め |
| ていられるうちに、何を思ってか、敢然唐突にも、すぐ目の前の女中の持った徳利をとりあげ |
| 女の腕と胴体を引寄せ、更にいやがる女の全身を先生の膝の上に抱き上げられる 一瞬の早技 |
| と、そのおそろしい腕力は、さすがに鉄筋コンクリートのあだ名のごとく、鮮やかな芸当であ |
| った。あれゝ と叫びもだえる女中も鷹に兎がつかまったようなものであった。そうして間一 |
| 髪しづかに女中の着物の肩の上から胴体、史におしりから太ももの方へ、おもむろ に撫でおろ |
| しながら、この肉付の線条の豊かなことはどうだ、まるで天平仏のような生きた曲線 の美しさ |
| はどうだと、眼を閉じ、感無量の表情で、繰り返し言われるのであった。その時の先生の心境 |
| は恰も浄土世界で菩薩に会ったようなもので、真心からの温かく美しき感激のあり 方は、いさ |
| さかの不快や、いやらしさ、あるいは女の体臭に蠢めく本能的な遊戯 もなく、さすが純粋な芸 |
| 術家らしい美しい気構えが、如何にも自然に見うけられ、純一な感覚と芸術家観山の直截な人 |
| 間像がよく、ありのままに表現されていた。更に古典の美しい生命の追求に徹した観山のひと |
| すじの温かい心の感触が燃焼したような豊かな一瞬であった。そう して秋晴れの蒼空を仰ぎな |
| がら島廻りなぞして夕景帰京の遠についたことなど、すぐ昨今の感懐のようであるが、もう四 |
| 十年に近い歳月が流れている。 |
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× × |
| 観山先生の三四十才頃までの画集は、 橋本雅邦歿後は雅邦の位置を嗣ぐものは 観山以外にな |
| いとまで世上に認識、称賛されていた。その頃の画業として、幾多の古今を通じての名作を残さ |
| れている。しかし惜しまれることは、先生の晩年の画想は、いつしか通俗性を帯び、どうや ら |
| 枯渇の感があると酷評する批評家も相当あったようだが、三十代から四十代頃のように、生々 |
| した立派な名作を連続に 発表された当時からみれば、たしかに画心の情趣が若干乏しく、あの |
| たくましい大きな構想も遂に技巧的洗練のみに化したという見方も、あながちでないと痛感 さ |
| れた。それはやはり青年時代より斗酒尚辞せず、その豪酒が一層晩年ますます 朝から気分のま |
| まに日々三四升も呑み、 酒浸りのため、頓に健康を害されたことに、大方起因すると思う。 |
| 顧みるに、あの格調の高い画技と画境の規模の大きく、気格に充ちた正に東洋画の真諦に透 |
| 徹した作家はまず先生を最後としてその比儔を見ない。 |
| 天心先生の在世中は大観、春草より以上に観山の芸衆と温厚素純な人柄が気に入っていたら |
| しい。その頃には大観、春草共々内心おだやかでなかったという見 方や誤解もあったようであ |
| る。それはその頃、大観、春草の作品に対しての世評は朦朧派として酷評をうけ、また旧派全 |
| 般の作家よりひどくその怪奇なる作風が異端視されていた。しかし大観、春草は近代絵画として |
| その研究はいつも根本問 題と対決していた。天心は当時読売新聞紙上にペンネーム春風道人と |
| して十日間にわたる批評中にも大観、春草の朦朧派としての没骨描法は明快を欠くことを難じ |
| た。しかしこれも一つの研究過程としてやむを得ないと認めていた。 |
| だが大観、春草は天心先生の偉大なる理智と情熱が俗人を遥かに超越した、全人格に対して |
| あくまで衷心より崇拝していた。ただ、観山に対して天心のアイデ アを忽ち作品に構成する技 |
| 術の才能を信じ、更に温謙なる人柄を愛していたのみである。大観は個性の強烈な点とやが て |
| 用うべき天稟と力量を発揮する作風として大観を育てられた。春草は忍苦に堪え理智に徹する |
| 個性を生かす先天的な才量を認めて育成されたので、天心はそれぞれの角度と個性の相違をち |
| ゃんと知りつつ指導されたのである。 |
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× × |
| 観山の二十五才の名作「嗣信の最後」の大作は、美術学校で完成された時には 天心先生は、 |
| 毎日欠かさず熱心に指導された。文展初期の「木の間の秋」のごときは、五浦の研究所で制作 |
| された時も、 天心先生は完成するまで終始、観山の側にいて指導されたということである。と |
| もかく、前期美術院、文展、再興院展も通じて「大原の露」「大原御幸」「伊叟古話」「魔 |
| 障」「弱法師」「天心肖像」 「俊徳丸」「春雨」などの堂々たる代表作が嘖々たる好評であ |
| り、日本芸術史か最大級の記録として銘記される名作であった。 |
| 昭和五年五月十日僅か五十八才にLで横浜市本牧和田山に永眠されたことは、 真に痛惜に堪 |
| えない。 |
| 人型に入る勿れ 自分の影を踏むなかれ |
| 酒堕竜宮剣腥 詩来仏界欲空霊 |
| 英雄不悪神僊好 勿使江山人定型 |
| 贈 癸巳六月四日 |
| 観山子 混沌子(天心別名) |
| この詩篇、天心先生より愛弟子観山に贈られたものである。 |