懐しい思い出(中)「院展五十年を迎え」
 院における大観先生が鑑審査に出られる光景は、他の美術団体なぞで、とても見られぬ一つの
名物風景であった。同人諸氏が、いつも二三列に並んだそのいちばん後方に、蓬髪茫々、ケイケ
イとした眸を光らせて、たまたま右手に巻煙草をくわえながら、黙々として一言もなく、凝乎と
鑑査の行程を瞠めていられる。多くの公募作品が同人諸氏の挙手の数によって入落が決定の場合
、たまに一作品に対する同情的な質疑のため、時間的に多少渋滞するようなときは後方に控えて
いられる先生が「諸君、公平にしたまえ」と鋭い力のこもった大声を耳にすることがしばしばで
あった。私が院の鑑審査にたずさわって四十一年余にもなる。先生と列席正しく三十二年間、そ
れが春秋二回の鑑審査であるから六十幾回も同席しているので、先生の審査員としての公正無私
の立派な態度を見ている。先生は誠実の仁であり、また責任感の人一倍きびしく強い仁であった
だけに、八十三回の高齢にもかかわらず、あやしい脚を引きずりながらもよく出席された。

×      ×

 顧みるに、岡倉天心先生と一緒に、常陸の五浦に日本美術院が都落ちして、天心が一年の半分
を遠くボストンの美術館の東洋美術主任として渡米され、後援者として米塩の資を贈られる人も
ない、まるで島流しのような、太平洋の岩頭に晴れの日は嘯ぶく波の飛沫を浴びながら、毎日晴
れた日は、食事のおかずを得るべく魚釣りに専念されていた。大観、観山、春草、武山の盟友た
ちは、乞食になる覚悟で雨や風の日だけは、五浦の研究所と称するお粗末ながらも少々広い画室
で精進に努める日課であった。
 幸いにして明治四十年、はじめて文部省主催の美術展覧会として文展が創設された。その際、
大観、観山の両人が天心先生の推薦により、はじめて文展審査員に任命され一躍一流大家に伍し
て特定の待遇をうけることになった。その頃大観として初めて尺五竪幅一点大枚百円という画料
をもらって、いささか目をまるくして驚き、喜んだという先生からの直話を聞かされたことを覚
えている。それは極度の貧乏な画生活であったが、画人として寸毫の妥協もせず、節程を守り研
究を続けた天運に恵まれた賜ものでもあったのである。
 画壇的にも個人的にも、はげしい波乱曲折に富んだ運命を担わされた先生ではあるが、いつも
その機に臨んでの心構えとその成果は、人間として、また画人として、一生を通じて太い一本の
たくましい大道を一直線にものすごく、いかにもすばらしい天馬空を駆けるような恵まれた叡智
でありまた天才的な努力であり、やがてそこには雄々しい苦難と開拓された運勢があったのだ。

×      ×

 私は院の関係者として同人に推挙されたころの先生の年齢五十五、六才の覇気満々たる壮年期
であった。先生の傑作として百数十尺の大作、生々流転の大絵巻が完成され世上嘖々たる称賛の
大名作大野心作として迎仰されたのもこの頃であった。それから数年後、先生の還暦があった。
続いてまた古稀の両祝も今日から考えると、いつしかもう古い記憶になったが、築地の新喜楽で
院の主催として先生夫妻を招いて、ずいぶん賑やかで旺んな祝賀の宴を催された。この頃の記念
写真を見ると、盛大な祝賀会というよりむしろ豪華で壮観でもあった。その余興として幾か月前
から準備されたいろいろの催しものや、お祝の長唄や長唄の歌詞は同人の誰かの作詞で、新橋一
流の芸者総挙げして、唄わせ踊らせ、美しいさかんな情景であった。それに引換え、喜寿のお祝
を迎えたときは、丁度戦時中であったため、還暦祝のときのように、あんなぜいたくな催しなど
は到底できないのみならず、適当な料理屋もなく場所もないので、谷中の院の二階の広間でいか
にもわびしく催された。床間には天心先生の横向の大きな額入りの写真を掲げられ、正面の中央
に先生と、その左右に安田靭彦、小林古径、前田青邨の同人順に列んだ。
 酒のたけなわのさなかに、同人外の来賓のたった一人として美術印刷所の大塚巧芸社々長大塚
稔氏が末席から立って、先生の面前にすわり、先生今日はまことにお芽出度うございますと、い
かにも謹直に先生のお顔をじっとみつめながら欣羨に堪えない表情で、先生お流れ一つ頂戴いた
しますと、先生から盃を頂き、ぐっと呑みほして返盃される。そこまではよかったが、更に先生
の顔を凝乎と酔眼で瞠めながら、急に改まった大きな声で先生ほど恵まれた方はない、この現世
にはたぐいのない珍らしい仁である。先生々々と呼び続けながら、まず先生の左右を御覧なさ
い、靭彦、古径、青邨の三先生は悉く見事な禿頭白髪のご老人であるが、この三先生よりも十六
七才も年上のこの先生があべこべに頭髪が縮れているが、真黒でふさふさとまるで青年のごとき
化物のような存在である。いや全く化生とはこのおやじである。そうして、これから更に百才ま
でも齢を生きようとする不思議な化物だ。ともかく、ずいぶん欲の皮を張った大観おやじで、ど
偉い化物だと、半酔いの機嫌で同人諸氏を顧みながら、いよいよ大声に叫ぶのであった。
 さすがの先生も黙笑されるわけにもいかないので、オイ大塚君、オレはそんに欲張らないよと
、とぼけた顔してひとり苦笑されていた。この大塚稔という仁は先生の背後にいつも躍動してい
た智者であり、魂のすわった男でもあった。常に先生に対して、いつも人一倍の尊敬の念を深め
ながらも、いつも先生に思いきっての苦言や注意をうながしたり、皮肉な憎まれ口を叩くことが
平気で、とかくワンマンの先生に対して同人中誰一人として思いきった口を聞く者がないのに、
何か問題が起ると、まともから正直簡明に先生に向ってゆくという人柄と、その誠実の反面、ユ
ーモラスの多い大塚さんは先生の気に入りでもあった。たまたま、大塚はけしからぬ奴だといい
ながら、先生の好きな人物でもあり、先生の身辺になくてはならぬ仁でもあった。
 大塚さんのいうように、その頃の先生は、ほんとに三先輩と比較して、あべこべに見られ、恰
も張りきった壮年のような容貌が慥に十五や二十も若く、はつらつとしていられた。またこの頃
の先生は芸術の上にも、弾力性と窮りのない変化に富んだ秀れた幾多の大作や傑作が続いて完成
されたのもこの頃であった。

×       ×

 終戦後数年を経たころと思う。築地の本願寺で故安井曽太郎氏の告別式に来列の帰途、京橋の
近代美術館のある展覧会を見に行った。玄関のドアを開くと、すぐそこに二、三の批評家諸君が
大観先生をとりまいて立話をしていた。先生もやはり安井さんの告別式の帰リの序にここの展覧
を見に来られたのであった。私は約三十分ほど陳列作品を見終ったころには、先生の姿が会場に
は全然見えないので、出口の女事務員に聞くと、先生は二階の応接間にいられることを知り、一
応ちょっと挨拶して帰るべく顔を出すと、そこに芸大の上野直照校長はじめ博物館の野間清六氏
や、当館の批評家河北倫明氏がいられた。すぐ先生が私の顔を見るや、郷倉さん、あんたも一緒
に是非つき合ってくれたまえ、今これから築地の金田中にゆくところであるといわれた。集って
いられたこの人たちも懇切に誘われるままにお伴することにした。先生は終戦後はどうされたの
か、わが家のようにされていた新喜楽へはほとんど行かれなくなり、この金田中のみに足が向い
た。相変らず先生を中心に先生の話はおもしろく、暗示と含蓄に富んだ、殊に女の話なぞは軽快
で練達の士であった。声は細く、やさしいが絵の話や、また国家的な何かの話題になると、いか
にも豪快にしてしんらつできびしいが、話が豊富であり、古い話なぞはなかなか記憶がいい。酒
も半を過ぎると、気分がよほどよかったと見え、先生自ら一つ唄おうかと、手許のコップの酒を
ぐっとのみ、得意な天心先生作の院歌である「谷中鴬・初音に血を染む紅梅花…堂々男子は死ん
でもよい。 奇骨狡骨・開落栄枯、何のその   堂々男子は、死んでもよい。」
 天心先生時代の昔のこの院歌をつづけて二回も唄われた。この院歌はいままで幾回となく聞く
ので、またかと思うのであるが、更に今度はなんだか、ちんぷんかんぷんわからない歌を声高ら
かに唄われながら、どうだ、諸君は物識りだが、この唄は、おそらくどこの唄で、どんな内容を
もった唄であるかがわからないであろうと、謎をかけられるように、先生ひとりでゲラゲラ笑い
ながら得意であった。一体、その唄は妙なアクセントを持った唄のようですが印度か中国、ある
いは朝鮮あたりの唄ですかと、誰かが訊ねると、また笑いながら、この唄は昔、寺崎(広業)山
岡(米萃)と三人で、支那へ遊杖したとき、彼の地の紅燈街で仕込まれた唄だよ。そうして天心
先生の生前の酒席で、この唄を得意なつもりで唄ったら、先生がはじめ黙々と聞いていられたが
、やがて、横山さん、それは支那のいやしい猥歌で、あまり人の前で唄ってはいけませんね、と
笑われたよ。天心先生はなんでもよく知っているのに驚いたね、と自笑された。

×      ×

 それから暫らくたって、すっぽんの吸物が出た、あまりにうまいので四人とも舌鼓しながら御
飯を頂くと、どうしたことか、不思議にも、そんなにうまいすっぽんの吸物なら僕も御飯を頂き
ましょうと、茶碗を自ら出された。先生が御飯を食べられたことは、このとき私は初めて見た。
それまで三十余年の間、院の同人会はじめ幾多の会合、あるいは先生のお邸にても幾回となく御
馳走になったことはあるが、いつも先生は、このはた、うに、からすみなぞのほか、滅多に箸を
つけられなかった。先生が自ら御飯を召上るのはそのとき初めての終りであった。
 ここの金田中の主人公と先生はよほど意気投合された間柄なのか、ここの大広間の檜舞台の中
央正面に、先生の傑作富士山を中心に続いて横の大襖間十余枚に描かれた富士山を囲繞する山岳
の連峰はいかにも余韻縹渺、深玄幽妙、おそらく先生の名作中の名作である。御物になっている
暁の富士六曲屏風以上に先生の一生一代の傑作として指摘される名品として後世にのこる顕著な
作柄である。戦後先生の富士山図は余りにも多く数十点も拝見しているが、一二の富士山以外は
どうも心からぴったり打たれる作品が乏しく、一時は先生も、いよいよぬきさしならぬ老境に入
られたかのごとく考えられ心さみしく思ったこともあったが、この大作を拝見して、遉に天才大
観の面目躍如として、犇々吾人の魂魄をゆすぶるのものがあった。
 この名作も生一本の先生が、ここの主人に惚れ込んで無報酬で描かれたものであることをつけ
加えておく。

×      ×

 米寿を迎えられたお正月のある日、お年始に伺った。いつもの、鐘鼓洞の炉辺で、まず一応新
年の挨拶を申上げ、更に先生はすでにお聞きでしょうが、今年はまず先生の米寿の祝賀会を院主
催として盛大に催すことを旧ろう同人会で決定しました。今年は先生にとっていうまでも なく
ほんとに芽出度い年であります。院としても悦びに堪えぬ寔に意義深い年であることを申上げる
と、微笑のうちにも 静かに有難う、朝日新聞社主催でも祝賀会をこの五月ごろにやってくれる
そうですがと、ここに何か改まったような表情で、しかし郷倉さん、顧みると、私はずいぶん欲
張って永い間生きて来たように思うが、また、すぐこの間のことのようにも思われ、そうしてこ
の歳になるまでロクでもないへタクソな絵をたくさん描いてきたことを思うと、まことに恥かし
くざんきに堪えないのみならず、考えてみると、このままくだらぬ絵を描いて今 後百才まで生
きてみてもあと十二年である。人生はたあいもないものである。更にまた二百年生きるとしても
あと百十二年である。永い歴史の断面からみれば、人生は束の間の一瞬の夢にすぎない、全くた
あいもないものである。そこで、私はなさけないことに、この米寿を迎えてやっと昨今、どうや
ら悟ったことは、老子の日く「死而亡不滅者」という古い言葉の内容をやっと自覚したのであ
る。この精神をおそまきながら真剣にこれから貫き徹すことである。たとえ肉体は死しても亡び
ざる生命であり、魂に生きた芸術を創ることです。これから魂の自覚をもって第一歩を踏み出す
ところです。私は八十八才にして漸く心が目醒めて、永劫に生きなくてはならぬということを、
恥しながらこの歳になってはじめて悟ったのです。これからいよいよ生命に徹した、振出しから
発足する覚悟ですと、いかにも悲愴な信念に満ちた、異状な表情で、はげしい覚悟の一端を洩ら
されたのであった。

×       ×

 黙々として、私は先生の思いがけない 真剣な覚悟としての言質を、一言一句洩らさぬように
、慎重に聞きながら、古今を通じての画人中に、この先生ほど稟質に恵まれ、変化に富んだ個性
的偉大な芸術の限りない創作として幾多代表的な所産を発表された画人として、また近世画人と
してもまず第一人者であることはいうまでもないが、日本の作家として最高権威者であり、また
広く一般の識者ならびに庶民大衆まで認識している実情であり、また三才童子すら知っているこ
の卓抜な天稟に恵まれたこの英才としての先生が自ら自己の従来の芸術を否定され、ひどく卑下
していられる、そのきびしい自己反省を通じて、すでに名も功もとげられた芽出度い米寿を迎え
られ、古今を通じて秀れたこの老画人の心から更にたくましく永遠の生命を欲求される、悲愴な
覚悟の数々の言葉を聞いて、ただひたすらに驚きと感激を覚え、ここに深く自らを省みわが画業
の貧困を恥ずるのであったが、天命惜しむべく空前の大なる意図を抱きながら、その翌年の二月
二十六日先生が忽然として他界されたのであった。今更ながら人生の悲哀寂莫として心身に泌み
た。

×      ×

 それから先生の一周忌が上野精養軒で営まれ、その翌月三月にふとして、拙作が日本芸術院賞
を受賞されたとき、受賞者一同が宮中の御陪食の光栄を辱うし、 更にそのあと、別室にて陛下
の御前で、受賞作家たちの画業の経験談や苦心談を各自約十分間お話し申上げる慣例であった。
話の拙い私が、ことにその経験談や 苦心談ということになると、ひょっとすると、どうやら自
己の自慢話になることをおそれ、恐懼に堪えないことであることを自戒した。そうしてその御
前の談話について、私として心ひそかに迷っていた。そこで私は多年夏の制作季節に、制作に夢
中になり悩懊を深めているときには、とかく夢のうちでも、両面構成や、 色調追求に悩んで、
そのあげく漸く夢中の幸せというか夢ながらはっきりとした 成果のヒントを得て、ひとりで飛
び上がるような悦びに浸っている瞬間に夢がふと醒めると、その確掌した実在のヒント が、す
っとそれこそ夢のごとに霧散するそのようないろいろのおもしろい、また 苦しい話の実例をあ
げて話をしようかとひとり考えこんでいたが、夢は潜在意識の表現のようなものにて、やはり自
慢話と、どこか結合するところがあるように思われ最後まで迷っていた。ところが 遇然にも、
御御陪食のデイニング・ルームの正面の中央に陛下の御著席の背後の広 い壁面に百号ぐらいの
横額に、大観先生の富士山の大額は従来の富岳の構想とは凡そ違った異色のある名作であった。
そうして、この名作にひき込まれてじっと みつめていると、ふと昨年先生の米寿のお正月にお
会いしたときのことや、先生がかねがね老子に私淑していられる例の 「死而亡不滅者」(シシテホ
ロビザルモノ)の一句を思い出して、私の気持ちが急に明るく、心昂ぶるものがあった。
 間もなく別室にて歳順により私の順番 になったとき、咄弁ながら、あの偉大なる功績と足跡
を日本画壇にのこされた、しかも米寿の老大家が更に永遠の芸術生命に蘇り、不窮の魂を追求
される先生の人間として画人としての、すさまじい心構えの一端を申上げ、私のごときもので
ありますが、永年にわたり院の側近者で あり、また先生の画人として未曾有のこの尊い覚悟と
心構えにあやかり、これから一層精進に努めたい信念でありますと申上げた。
 それから二、三名の受賞者たちの話が終ったころに陛下と御一緒に列席された 皇太子殿下、
三笠殿下が御退席後、私たちの後方に著席されていた旧知の宮内庁次長の瓜生順良さんが、つか
つかと私の席に見えられ、小声で今の大観先生のお話は大変おもしろく、まことに良いお話し
た。陛下は大観先生とたびたびお会いされていますから、御興味があったでしょう、定めしお悦
びであったと思います。そうして、あのようなお席でめった に陛下御自身が御質問なぞなさら
ぬのですが、二、三度もあなたに御質問ありましたね、と謹直に語られたことをただ有難 く覚
えている。

×      ×

 大阪での院展が開催された、昭和の初 年頃の秋であった。院展主催側の朝日新聞社々長村山
、副社長上野両家の招きで両家蒐集の古美術品を見に行った。まず市内の副社長上野理一邸に見
参した。いかにも上方の旧家らしい古風な格式の整った邸構えに院の同人二十余名が招かれその
コレクションを拝見した。主たるものは光琳派系譜のもののみで、光琳の草花絵巻はじめ 大小
数々の花鳥の名作ならびに菊の二曲屏風なぞも興味深く、更に芦屋の村山竜平邸の広大な洋館の
大広間に平安朝から藤原、鎌倉時代順に陳列された多の仏画のほとんどは、大体、華 美、国宝
級の秀れた代表的な逸品として珍重な参考品が多く、大広間の高い天井に面した広い壁面にずら
りと展開された名幅は、いずれも荘重、幽玄な名品ぞろいで、いかにも村山竜平その仁の秀れた
鑑賞的識者であることを心ゆかしく感得 した。慥かその夜であったと思うが、朝日新聞社側で
あったか、三越側であったか、その夜の招待主が判然した記憶に乏 しいが、大阪一流の料亭灘
万に同人一同が招宴されたときのことであった。
 関西の一流料亭は、どうやら関東方面 の一流どころの料亭とは、すっかり異った雰囲気がお
もしろく珍らしく感じられた。まず玄関の構えや座敷の組立や、室内の飾りや床の間の趣向、庭
園の造り方 またけんらんなお膳の上の調理の仕組みなぞは、やはり関西好みの趣向でいかに も
ローカル的で洗練された美しきが心楽しかった。座敷舞台も上方流の典雅で、あでやかな芸者の
踊りの美しい官能的なしぐさもおもしろかった。一通り芸者の三味線や踊りが終って、大広間が
がらんとした瞬間、どこから運ばれたのか、座敷太鼓の前に下村観山先生が肌じばんに腰巻一枚
という姿態で、両手に持った太鼓の棒を高く低く太鼓の両に打ちおろされる。その容姿は、ただ
ものでない。太鼓の音調はさわやかに冴え、座敷がぱっと明るく陽気に、人の心を浮きたたせる
に充分な腕前に驚いた。それを見ていられた大観先生も、どう感じられたのか、 同じく肌じば
んに腰巻一枚と手拭鉢巻という出立ちで走りいで観山の手をとり、 太鼓は芸者にまかせた観
山、大観の二人は、大広間のまん中で、いかにも天心爛漫というべきか、デタラメにひとしい滅
茶苦茶踊りに、感極まったかのごとき二人の巨匠が、いかにも青年のように疲れ果るまで踊り興
じられた。その滑稽な姿 態が今でも眼前にほうふつとして浮ぶのである。この元気であった二
人の巨匠も今は幽冥の境にして、遉に三十数年前の上方旅行のことなぞも懐しく思い出されるの
である。

×      ×

 その夜九時頃の急行列車で、同人の過 半数が帰京することになっていたので、梅田駅の列車
ホームで寝台券の抽せんがあった。寝台車に入って、番号を調べると私の寝台車の上段が観山先
生であったことが判明したので、私は先生の寝台券をもらって私が上段の寝台に寝ることにきめ
た。発車前には三越、高島屋、大丸 などのデパート美術部から御機嫌よろしくと、ビール数打
と折詰その他の御馳走 が沢山届けられた。発車間もなく、まず観山先生を中心に寝台のうす暗
い、むさぐるしい小さな電灯のもとに三、四人が割込んで酒盛が始まった。

×       ×

 いろんな漫談中に、今の若い諸君は、 どうも酒がのめなく、おとなしいばかりで元気がない
よ、僕たちは若いころは酒と女で混戦したデタラメがよくも続いたものだよと、先生の若いころ
の自慢話に 花が咲いた。でもそれだけ旺んな酒と女の遊びにふけりながら、あの立派な名作が
続々と出来ましたね、そのおどろくべ き精力にいささか敬服しますねと、ある同人が答える
と、すかさず先生が待っていましたとばかりに昂然と、それそのと おりだよ、その酒をのんで
燃えあがる精力と、その精力の反面の結晶は性欲でな いか、昔から偉大な傑人や、ど偉い芸術
家の悉くはそれだよ。要するに、性欲は偉大な芸術を創造する密接な楔でないかとコップの酒
をぐっと一のみにされながら得意顔に大笑された。いかにも鉄筋コンクリートとあだ名をつけ
られていた、堂々たる豪傑風の大男であった先生らしい言分であり、またふくみのある言葉の
うちにも、その反面のその道に対する強い自信を仄めかされるのであった。当時美術学校を卒業
された三、四年後の頃と思う。観山(下村)武山(木村)天城(本多)この三人が上野の帝室博
物館から依嘱されて、高野山に当時国宝や重美に指定された仏画の模写のために一年有半も滞杖
された。寺院の大広間を画室として陣取り、この三人の青年作家が毎朝八 時には必ず模写のた
めに余念なく、熱心に精励にうち込む意欲はものすごいものであった。そうして午後四時にな
るとぴった り筆を止め、その三人中の一人がオーイ四時だぞという言葉の合図に、そのまま立
駆上がり、この 三人が鬱蒼とした山径の雑草や茨の繁茂した、でこぼこの山の近道を三、四里
もけ下り、山の麓の橋本という田舎町のだるま屋にひとしい小料理屋に飛びこむことが毎日の課
程のようであった。枯木の料亭では連日連夜太鼓を叩き、大声で唄や踊りに興じ、夜 を撤し酒
と女の一夜は短い夜明けの白む朝の四時頃には名残りを惜しみながら再び朝の山気に蘇えり、
遊びに疲れた足もとも意外に軽く元気に山へ駆け登り、寺院に着くやそのまま夜具の上にぐっ
すり一眠りして、また朝の八時になると必ず大広間の画室に端座して、夕べの楽しい 遊びの夢
や雑念を忘却して大きな仏画の模写にひたすら専念精励する心構えは少しも乱れなかった。そ
うして更に午後四時になると、急ぎ下山する毎夜の楽しい遊興が一日として休むことなく、一
年半も続いたという直話を聞いて、超人的な精力と 、よくも倦きなく続いたものであると、た
だ驚くのみであった。

×      ×

 汽車が米原駅に着いたころは、寝台客のほとんどは厚いカーテソを引いて、あちらこちらから
低いいびきや時折高いいびきが洩れていた。先生が便所に立たれた、酔って足どりがあやしく車
中の動揺に、つい他人の入寝中のため引かれたカーテンの中へ先生の体が横にころがり込んだた
め、睡眠中の乗客から「誰だ」とひどくしかられながら「ああ、御免」と再びあやしけな足どり
で先生の寝台に帰られたころには、同人諸君は一人もいなく寝台に入っていた。私も夜はすでに
更けたので先生の上の寝台に入って、しづかに眠るべく手足を伸ばしていた。寝台に帰った先生
は周囲を見わたしても一人として酒や話の相手のものがいないのでオイ郷倉君と度々呼ばれる
が、しづかに眠った風態で黙って答えないと、今度はビール瓶でこつこつ寝台の床板を下から上
につき上げられる、それでも黙っていると、そのビール瓶でいよいよはげしくつきあげられる
が、辛棒していると、今度はたくましい大きな手を伸ばして、寝ている私の腕をつかんで、オイ
下りないかと、引きずり降ろされたので困った。やむを得ず、また先生の寝台に下りて、酒に
弱い私は、さみしがりの先生の話の相手としてお酌をするのは、ずいぶん辛かった。
 関ケ原をすぎた頃には、また便所にゆかれたのを幸いに、また急いで梯子をのぼって寝台の
側面の窓に、再び大きな手が届かぬように、わが体を構臥して眠った風をしていた。
 先生がまた自分の寝台に帰るまで二、三の寝台車のカーテン中に転がり込んだらしく、大声
でしかりつつ「酔ぱらい御免よ」と低い先生の声を聞いていた。今度も寝台に帰られた先生がオ
イ郷倉君、オイ郷倉と幾たびとなく呼びつつ例の大きな手の平をさし伸ばされるが、私の体が
窓際にぴったり横に寄せているために私の体や腕に手の平が届かず、どうやら寝台にいないだろ
うと諦められたらしく独酌とひとり言を言いながら夜が更けてゆく。私もいつしかぐっすりと
深い眠りに入ったらしく、富士駅から沼津駅に向う朝の車中に眼が醒めた。
 
Back