懐しい思い出(上)ー院展五十年を迎え
 いつしか今秋の院展は五十回展となります。大正二年九月岡倉天心先生が、赤倉山荘にてお亡
くなり、その翌年秋院展が再興されてから丁度五〇年を迎えることになり、いささか感慨深い。
大正拾三年春、私は堅山南風、富取風堂、酒井三良諸氏と一諸に同人に推挙されてから、すでに
四十二年を閲みしている。一般出品者として、入選している頃から加算すると、どうやら約半世
紀に近い。そうして院の今日までのことを回顧してみるとずいぶん遠い昔のようにも思えるが、
またすぐ昨今のような思いもする。その頃よく若い同人といわれた私達も、いつしか古参の同人
となり、二、三年前にすでに古稀を迎えた自分の年を顧みて、ただただはづかしく心から自省す
るのみである。
 今日の院を構成する同人は、全部で卅一人であるが、そのうち、戦後に推挙された同人が過半
数で、私達が同人になったころの先輩として存在されるのは、わずか三人のみで、約半数以上は
故人となられ、またそれぞれの事情で院から離れられた仁や、更に彫刻部の解散なぞあり、歯が
ぬけたように淋しく惜しい気がする。今度の五十回展を迎え、院の業績や成果歴程について、そ
れぞれ各専門家達の詳細に渉り、紙上に論評あるいは紹介されていることとて、私は永い間の院
の関係者の一個人としての、いろいろの懐しい思い出を詳しくしたためておきたいと思うが、そ
れは少なくとも干頁ぐらいの一冊の単行本としても纒りがたいので、ここにほんの忘れられない
思い出の数々の断片を記憶のままに綴ってみる。

×   ×   ×

 まず、永い間の憶い出としては、なんといっても私には故人となられた大観、観山の両先生を
はじめ、小林古径、速水御舟、小茂田青樹の三氏、その他小川芋銭、富田渓仙の先輩には、人間
並に芸術に対する人一倍の虔しい尊敬をもっていた。ことに大観先生は院の統師として、いうま
でもなく、人間として卓跋、作家として傑出されていたように、両面を具備した稟質的英材とい
うものは、世紀に一人の出現もあり得ないと思われる存在だけに、私達が永い間、院の温い家族
的一員として、またその側近にいたことが私なりの人生記録として忘れがたい、まことに幸せで
あったことを銘記したい。私はそのころの、院の家族的温い団欒の雰囲気に浸っていたことを限
りなく懐しく想起されるのである。大観、観山の両先輩に対して、先生号を同人一同から贈って
、この両先達に対して、はじめて大観先生、観山先生と呼ぶようになったのは、たしか昭和五年
の秋から院規として決定されたのである。その二、三年前に彫刻部に若い新鋭の同人達が一時に
五人も推挙されたため、一応院としては、社会的にも秩序をたてなくてはならぬのではじめて同
人中に先生と呼ぶ新しい慣例ができたのである。それまでは同人諸氏は、横山さん、下村さんと
呼んでいたのである。むしろ私達も先生なぞと敬語も使用することは、むしろお世辞のようにお
かしく思われていた。しかしその頃帝展側の作家なぞは一階級も上の人には、先生と呼んでいた
ころとて、いかにも院は、さすが同人制度であり、平等的、庶民的であり、また温い家族的な感
じもあった。しかし酒の席上なぞでは余りにも家族的が親しみを超えて山村耕花氏や彫刻部の佐
藤朝山氏(玄々)なぞはオイ大観々々なぞと呼捨にするようなことも、しばしばであった。いか
にもミじて慢心のように聞きにくく、どうやら、わが身上を忘れ、強慢に見えて、不快なことが
度々であった。しかし、いつしか今日の院には、時代的な階級のようなものが自然にでき上り、
先輩に対する、先生と呼ぶのは常識的礼儀として普通の考え方になったことも、時代の反影であ
り、更に年齢的な相違が、いつしか敬称を用いるようになったことも、院としては不思議のよう
に思われる。

×   ×   ×

 とりわけ秋の院展が地方に開催されたころ、名古屋、京都、大阪へ、恰も年中行事のごとく、
永い間、毎年のように同人旅行に参加した。そうして京都や、大和方面の目ぼしい、古社寺や、
名所旧蹟並に古い庭園、その他の有名なお茶室なぞを見ることが、なによりの楽しみであり、思
い出の深い記憶が多い。大正拾五年秋、京都院展の招待日の翌日、大観先生はじめ、二十余名の
同人と、浅野長武さんも参加され、秋雨のそそぐ中を、数台のハイヤーで山科の醍醐三宝院に行
った。例の有名な宗達の扇面屏風は、いつみても、すばらしかった。本堂の須弥壇の下の、ほこ
りのなかから、その頃発見されたという、弘仁仏は特色のある力強く、秀れたものであった。浅
野家は秀吉時代から、この三宝院とは、深い仏縁があるらしく、管長はじめ、総出で迎えられた
。ことに昼飯は伝統的古式の精進料理で、三ツ膳の珍重な味覚であった。あの有名な稚児草紙の
絵巻物は、それまで二回もみていたが、やはりたいへんなものだ。筆者は不明とされているが、
おそらく鳥羽僧正という説は、やはり妥当かと思う。あれだけの、すばらしい構成の妙、自由奔
放にして秀跋、更に人間臭い血脈の温かさと、また自然の幽寂神祐、五戒を身につけた仏僧の男
色の秘曲、あの長い秘曲を吟ずる大絵巻を名園前の大広間にずらりと、展開されるのも壮観であ
った。その各場面をそれぞれ、鑑賞した。そうして大観先生はじめ中村岳陵、荒井寛方二氏と小
生が、お寺から筆や紙を拝借して絵巻を直接に模写した。各自が半紙に二、三枚模写しているう
ちに、いつしか多く同人諸氏は、あの名苑の石庭にそそぐ秋雨に、たそがれる山里の、はなれた
ひっそりとした寺院は寂しく、燈のともる京の街へ幾台かの車で引きあげたらしく、どうやら絵
巻を幾枚か写し終ったころには、浅野さんと彫刻の保田竜門氏のみであった。

×   ×   ×

 浅野さんの肝入りで、同寺の秘宝、藤原期の白描として知られた、国宝春海阿闍梨筆、不動明
王と他に三幅の国宝の白描不動尊図をお借して貰い、奥醍醐に登り、そこで徹夜して、その不動
図を模写しようではないかということに、相談が一決した。大観先生を始めとして、浅野さん、
中村、荒井、保田諸氏と小生の六人が、更に二里の険阻な山上にある醍醐の奥院に出発すべく、
それぞれ六丁の山籠にかつがれたのは薄暮の頃であった。老杉鬱蒼とした、けわしい山路の急坂
にさしかかったときには、各自の体がふわりと宙に浮んだようになっても、拝借した国宝の不動
明王の軸幅は命がけで、脇差のように腰の辺に、大切に抱えていた。おりしも雨が霄れて、樹の
間の月は澄みきり冴えていた。奥の院に着いたのは、もう九時過ぎであった。早速書院の広間に
陣どった。そうして障子紙をつぎ書筆で模写にとりかかった。夜の山奥の寺院は、しんしん寂々
全く幽凄の地であった。模写にとりかかる直前に、少々冷えびえするので、大観先生と浅野さん
が、幾十段を下る、石段の下にあるお風呂に行かれ、浴後二人で並んで石段の横で立小便をして
いられると、その暗の熊笹の薮の陰にらんらんと、輝き光る二つの目のようなものが、すぐ目の
前に明滅するので、その瞬間に先生が大声で、オーイたいへんだと叫ばれると、同時にものすご
い音をのこしてそのらんらんとした獣の目が失せた。大観先生と浅野さんが小便を途中でやめて
真青になって石段を駆け登られ、驚いた驚いた、猪に逢ったよといわれるので、一時はじょう談
かと思ったが、それはほんとの話であった。
 深夜の奥醍醐はしんしんと更け、しづかに模写に専念している夜半、雨戸も引かない障子のす
ぐ外に唐突ものすごい、ざわめく音と動物のうごめく息炎に驚かされた。それは、この季節にな
ると、毎夜熊や猪の群れが笹薮の中の松茸を喰いに出るのであるとのこと。それは翌朝寺男から
聞いて、いささか愕いた。

×   ×   ×

 どうやら東の空がしらむ頃に、先生の不動尊図の模写ができて、隣室の寝床に入られた。それ
から一時間ほどして、われわれ三人の模写もどうにか完成したので、各々寝室に入った。そうし
て、うつうつする間もなく、早起の先生が、起床されたので、私達も寝床から出て、障子をあけ
て、昨夜来のものすごく跳躍して荒された、すぐ目の前の熊笹や雑木林の繁った自然の限りない
広い山庭を、ぼんやり眺めていたことなぞもなつかしく、また虔しい記憶として思い出される。
その朝は快晴で紅葉の山路はよろしく、再び山籠に乗って降るのは、惜しい気がした。三宝院に
着いたときには、黒板勝美博士一行が調査のために見えていたので一緒に、三宝院のお庭で物干
のような四本柱の仮屋台で、松茸と牛肉のすき焼がよかった。その時また浅野さんの肝入りで、
徹夜して写した徹夜不動を記念するために、醍醐会という会名によって結成された。黒板博士も
参加されることになり、築地の新喜楽や金田中で、幾回か催されたことを覚えている。時折その
頃の古い写真なぞ見て、今でも懐しく思う。この間の九月一日のホテル・ニュー大谷で、日本美
術院再興五十年の祝賀会に列席された浅野長武さんにお目にかかり、四十年前の怪しい奥醍醐の
徹夜不動の話がはずんだ時、やはり大観先生と一緒に石段の下のお風呂から出て二人が揃って立
小便をしているすぐ目の前の、暗い熊笹の中に、らんらんと光る二つの目が猪であることを直観
して、大いに愕き怖れ命がけに、どうして石段を飛ぶように逃げて帰ったか、そのときの話を手
足振って、真険に話された。どんなにか怖かったらしい。そうして、今まで幾種の大観伝のよう
なものが出ているが、大体表面的な、ありふれた、普通誰しも知っているおもしろくないものの
みであるが、世人が全然知らない、先生の反面の思出話や、ほんとの逸話のようなものを後世に
伝えたい。それには同人中、先生とよく旅行した人や、側近の人達と、真実の先生の人間として
作家としてその表裏を卒直に語る会を催して、先生のほんとの記録を後世に伝えたいと頻りに希
望されていた。

×   ×   ×

 それから昭和五年頃かと思うが、ある晩秋の澄みきった好日、常陸の牛久沼畔の画仙小川芋銭
翁の案内で、牛久村から遠からぬ古刹に、李竜民の国宝十六羅漢をみるために、院の同人廿余名
が出かけた。牛久駅には車なぞの乗物がなく、約小一里を歩くことになっていた。多くの諸氏
は、さっさっと早道されて、彫刻の藤井宏祐さんと一緒に、大観先生の後からぶらぶら十余丁ほ
ど、野径を歩いた。いつも、ふところ手で、悠々歩いていられた先生は、ふと足をとどめ、ふと
ころから筋張った手を出され、畦畔の枯草の中をゆび指されながら、驚かれたような鋭い眼つき
の表情で、感嘆久しく「これは立派だね」と、その場所からじっと、動かれないので、先生のゆ
び指されるところに大きな蛇でも、とぐろを巻いているのではないかと、おそるおそる注視する
と、これはいかにもおどろいた、たけだけしい虎の子のように黄色く、太く、まことに健康その
ままの原始人の所産のように渦まいている野糞であった。

×   ×   ×

 昭和拾年の、初夏の頃から翌冬にかけて、日本の美術界に大きな旋風が吹き荒んだ。それは有
名な松田源治文部大臣により、当時の帝展における種々の弊害を一掃せんがために、広く在野団
体に協力を求めた。まず在野を代表する院展総師大観が、主体となって官展を改組することにな
った。その時院の内部にも賛否両論があったが、大観先生の熱心な懇請により、院同人拾余名が
出品することに決定した。その同人のうちに先生が気にする目ぼしい三、四名の同人宅を自ら訪
問して、制作中の作品を、わざわざ見に廻られた。なんでもその改組新帝展の招待日は二 二六
事件が突発した大雪の日に遇然相当したことを記憶するから、その半月前の二月拾日前後である
と思う。斉藤隆三主事を伴なって唐突拙宅に見えられた。雪庭のささやかな門前で、家内と私が
出迎えた。
 寒い雪の朝とて、座敷の隅に大きな火鉢にかけられた、達摩堂という四角な京釜から部屋を温
める暖炉かわりの湯気がぐらぐら立っていた。釜の側に寄られ「この釜は古いね。調子の高い秀
れた釜だ」とたいへんほめられた。どうやらその形が遠洲流の瀟洒な、あかぬけしたところが先
生のお気に召されたものらしい。それから別棟の居室に案内した。「山の秋」と題する制作中の
作品を黙々として凝乎と、暫く見つめていられただけで、一言もなかった。しかし先生のお顔の
表情に微妙な明るい、すがすがした感じをうけて、いささか安堵した。再び客間にお茶を召され
ながら、その隣室の参考書が山積している壁面の一隅にかけてある額面が目に映ったらしく、あ
の書は天心先生の書でしょうと、お訊ねになるや直ちに、先生自ら隣室の額の前に立って、これ
は正しく先生御自作の得意の詩であり、赤倉山荘にお訪ねしたとき、先生のお伴して高原を慢歩
しながら一杯気焔で、この御自作の詩や、また蘇東坡や李白の詩を高かに吟じられた懐しい詩で
あると語られた。
 君去春山誰共遊 烏啼花落水定流
 如今惜別臨渓水 他日相思来水塊
 この書は、どうして手に入ったかということであった。これは先年多摩美術大学長の北冷吉先
生が、ボストン美術館に行かれたとき、案内役の同錆の東洋美術部長の富田幸次郎さんから贈ら
れたものを院の関係の深い貴君に呈するということで戴いたことを申述べた。また富田さんはポ
ストン美術館で直接永年に渉り天心先生を師として研究していられた仁である。

×   ×   ×

 その後秋の院展のころ、院の事務所でしばしば先生と二人のみで、お会いしたとき、よく先生
が「今頃妙高々原はいいだろうね。あそこの秋草がすぼらしく美しいね。また山丘の秋風にそよ
ぐ限りない芒の白く光る穂波もよいな。ともかくあの高原は雄大な景観だね」とくりかえされる
のであった。先生から度々妙高々原がたいへん気に入っていられることをおききすると、ほんと
うに愉快でありますと同時に、なんだか先生に、相済まぬ気特がいたします。以前に大智(勝
観)さんと一緒に、はじめて妙高々原の分譲地を見に行き、先生の山荘地として、その予定地が
決定した地内にある偉大なる巨岩が今もそのままで今は大観石と名づけられて有名岩になってい
ます。現在の会社は株式会社ではありますが、先生が御希望でしたら喜んで会社は快諾され、再
び以前の三千坪の地域がそのまま提供されると思いますと答えた。
 晩年にいたるまで、先生は酒仙として酒に徹し、酒を愛された。

(霜月上幹 赤倉草舎にて)

 
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