懐しい思い出(承前)「古径さんの人柄」
 はじめて私が小林古径さんをお訪ねした頃は大森の新井宿のささやかなお宅から、半道あまり
もある馬込の画室へ通っていられるころであった。大きな農家を求められ、それをそのまま画室
に改造された素朴で頑丈な家相はどこかお寺のような、しんかんとして、天井や床下も高く、い
かにもゆったりと清朴な画室であった。自然のままお庭は、農家らしく広く、いつも掃き清めら
れてあり、私が初めて伺ったのは晩秋の頃とて、お庭の真ん中に枝振りの見事な古く大きい柿の
木が数本散在して無数の真赤な柿のつぶらが秋の陽に朱玉のように輝き、しばし庭を眺めていた
ことを覚えている。
 黙々として角帯をしめ、きちんと座っていられる小林さんは、いつも寡黙・沈静にして謹厳な
ること一見、虔しくひんやりとした感じをうけ、なんとなくとりつきにくい感じをうける。丁度
文学者の故島崎藤村さんと酷似した感じであるが、しかし二、三度とお会いしているといつしか
心から話のつきない温かい人柄に魅せられ、純情な人間味の豊かさと、生まれつきから錬えられ
た性格と同時にきびしい自己反省の鋭い仁であることが首肯される。ことに絵の話や古美術、ま
たは旅行などの話になると、いよいよ熱心に話がはずむのである。そうしていろいろの興味深い
質問をされるし、また、種々の経験談としておもしろい話もされる。世人はよく誤解して、古径
さんは冷徹な人であるから従って絵もまた極めて冷めたいという見方をする人もあったようだが
古径さんという仁は、大体寡黙で言葉が少ないためと、特に気にくわぬ人には一言もいわぬとい
うところは、たしかにあるが、その反面、安心して話のできる人には時限を超越した情熱の仁で
ある。ただ二人だけの相対的に親しい間柄の場合は、何事も思いきって直截に話されるが、また
話の内容によっては全く情熱的な強い一線を易々と画せられる、正義的なきびきびとした感情を
はっきり表現されることがしばしば見うけられた。しかし妙な癖というか、その素因がわからな
いが、三人以上の席になると、古径さんはどうしたわけか、不思議にも全然無表情のままに一言
も発言されなくなり、話の糸口を向けるとただ「そう」とか「いい」のほんの一言だけ、まこと
に要領の得ないことはおびただしい。先輩の言によると、小林君はもとから三人以上になると滅
多に発言しなくなるのは不思議で、それは随分古い頃からの習性であるといわれたことは、全く
そのとおりであった。小林さんに限って三人以上の会合の場合、その心理感覚というか、不言の
心情は謎のようで今もってわからない。謹直な小林さんにはユーモラス、あるいは冗談とか漫談
とかというような軽い気分の微妙な言葉の「あや」とか動きというようなものは遂に一度も耳に
したことがなかった。某先輩のところで、歌麿だったか清信であったか忘れたが、浮世絵として
秀れた春画の絵巻を見せられ、やはり巻頭の絵を凝乎と無表情のまま「これはいい絵巻だ」と、
しづかに一言いわれたままゆっくりと全巻を見られながら、余程気に入ったらしく、この絵巻し
ばらく借してくれたまえと懐に入れて、黙々と帰られたということを聴いた。これも小林さんら
しい性格の一面であった。

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 小林芸術に対するとかく冷めたい、という見方もあるらしい。私は決してそう思わない。ま
た、冷めたい温かいということは、要するに個人の好みの問題であり、性格的なもので、それは
どちらでも芸術そのものが秀れておれば、それでいいと思う。古径芸術は一本強いすき透った個
性が貫徹した、まことにきびしい存在であり、沈潜した底光りのする静謐にして潔癖の香り高い
豊淳な芸術内容が、その生命であること喋々としていうまでもない。
 大正十年の秋であった。小林さんと前田青邨さんの二人が院展絵画部を代表されて欧州へ見学
されたことがあり、彫刻部からは放佐藤朝山氏(玄々)が直接パリへ波航された。
 この両人が英国博物館で、スタイン氏の蒐集された唐代の顧豈之の有名な絵巻を模写されたも
のや、暾煌の壁画の臨模や、中央アジアの発掘された壁画や、踊などを刻明に写生されたものを
興味深く拝見した。
 欧州からのお土産として持参された、泰西の古代の名画集や原始時代の壁画集や、イタリアの
ジオットや、アンジェリコのキリスト宗教壁画集、ポンペイの発掘壁画集などの豪華にして貴重
な大画集などの参考書を沢山拝見して、いささか欣羨に堪えなかった。その頃から洋書の美術参
考書として豪華な洋書では丸善書房第一の得意先は古径さんのところであったということも聞い
ているが、それから終戦以前三、四年前までに求められた高価な参考書の数量はおびただしいも
のであったらしい。私はいつも清直な古径さんにお目にかかるだけでも、どうやら心のしづもり
と楽しい悦びに浸されるばかりでなく、交々それらの数々の貴重な参考書をゆっくりと見せてい
ただく喜びと感激は限りないものであった。

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 あれだけ楽しく蒐集された数量の貴重な参考書も、戦時中に疎開される準備として一応参考書
を自宅の防空壕に入れて保管さるべく、幾重にも厚紙やダンボールのような箱の中へ厳重に入れ
て、まず安心というところで、幾カ月かを中央線の浅川駅近郷の旧家に疎開され、終戦と同時頃
に帰宅された。早速防空壕に入っている参考書が気になるので壕の中に入られると、ひどく雨漏
りして黴臭い香いが鼻をつく。直ちに参考書を入れた箱を悉く取り出して調べると、あの豪華な
書籍に雨漏りが、しっかり浸透して甚だしく汚損、あの豪華を誇る金色燦然とした装幀も、まる
でもとの面影もなく、剰(あまつ)さえ洋書としてその内容はアート紙を使用されている。アー
ト紙は雨水につかると土色にひどく変化するはかりでなく、紙と紙が密着して硬化する性質のた
め、高価で立派な参考書も、全く見るに堪えなく痛々しく汚化して、何らの価値もなくなり惨但
たる汚書の一群と化したのである。それ以来、洋書の参考書には一切魅力がなくなり、その惨め
な数量の参考死書を捨てるわけにもゆかずさりとて焼くことも容易でなく、また貰い手すらなく
そのまま書庫に眠らせてあったようだ。

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 小林さんが私宅へはじめてお見えになったのは、私の蒐集した古陶器と古い漆の蒔絵などを、
見たいということであった。当時の私は漫然と私の気にとめた古陶器や古い蒔絵が好きで、いつ
しか蒐集したという程度のものであった。ただ私の趣味としては、時代が少々下るが、文化、文
政頃の日本古陶器を代表するといわれる。しかも私の生まれた郷里の小杉焼だけは系統的に蒐め
ていた。
 客間の一隅に置かれた桃山期の高台寺の蒔絵棚がすぐお目にとまったらしく、しばらくじっと
見ていられ、やがてこの扉の桐紋は古いね、桐葉紋の中央の葉はわりかた細く、両端の葉がたっ
ぷりと広いのは、古い形態で、いいねと独言のようにいわれていた。根津美術館の時代蒔絵展に
出品された足利の瓶子を見たいということでお見せしたり、また室町頃の黄瀬戸茶碗や、その他
二、三にも関心を深められ、それぞれお褒めにあずかったが、小杉焼飛青磁一輪花生や、高さ一
尺五寸余の黒釉の燭台などをお見せするとこの燭台に形態の斜線を自ら手で撫でながら、この黒
釉が美しいね、この鋭い両端の斜線は、まるで速水君(御舟)の作品に見る、あの弄れた鋭いま
ことに美しい線条と、そっくりであるといわれたことを今でもよく覚えている。人間として芸術
家として故速水氏に対する真の理解と将来を心から期待され、いつも速水氏の芸術を対象として
話されることが、しばしばであった。

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 ある年の柿の若葉のさわやかに、まぶしい頃、ふと馬込の画室にお訪ねした。玄関にお嬢さん
のお通さんが出られ、私を見て一寸挨拶されて、そのまま奥へ引込まれた。間もなく古径さんが
玄関に見えられ、咄々とした口調で、よいところへ来たね、「今大磯の安田君が画室に来ている
のです」それはお珍らしいですねと答えながら画室に案内された。両先輩に挨拶してから、今日
はお珍らしく何かご相談でもおありになるのでないですかとお訊ね申しあげると、いやいや幸い
郷倉君見えてよかったね、実はアトリエ社の藤本韻三君が計画で富岡鉄斉先生の人と芸術につい
て私達二人にその所感を聴いて、アトリエの特別号に掲載したいとのことで、久々小林君をお訪
ねしたところです。貴君から敦賀市のなんとかいうお医者さんで、鉄斉先生と御交誼でありまた
鉄斉先生の作品を随分沢山蒐集されていられることや、更にいろんな鉄斉逸話をよくお聴きしま
したので、是非あなたもこの座談会に入ってくださいと、大磯の先生がいわれるのであった。い
やいや私はこの席で両先輩の鉄斉先生に対する所感を静かに聴かしていただくのは何よりの幸せ
ですと申しあげたが、どうしても両先輩が座談に入ってもらいたいとの御希望でとうとう仲間入
りをさせてもらった。司会者は美術評論家の水沢澄夫氏で約二、三時間にわたり、たとえ短時間
ながらも両先輩の鉄斉観に対して深い感銘を覚えた。先生の偉大な人、並びに芸術に対しこの両
先輩も深い認識と虔しい尊敬をもっておられ、まことに有益な得難い座談会であったことを記憶
している。
 永年にわたり、私は敦賀港の医師布施巻太郎氏と交誼であり、十余年前医院を閉業して目下郷
里の滋賀県虎姫駅近くの旧家として知られたわが生家に帰り鉄斉美術館を経営していられる。ま
た布施さんと鉄斉先生とは親子にひとしい御別懇の間柄であったので、布施さんから多年聞かさ
れていた鉄斉先生の人柄や、その逸話、また勤王の士としての鉄斉先生を心から尊敬をもってい
られた。更に布施さんは鉄斉芸術に対する深い理解と崇敬の念が深く、したがって数百点を蒐集
されて、それらの数ある作品をほとんど見せていただいているので、その感想を少しばかり座談
会で申しのべた。
 アトリエ誌特別記念号に「富岡鉄斉を語る」という名題で、三人の名が記載されているが、前
述の如く当然私が小林さんをお訪ねしたときの遇然の参加であり、あの記事は実は先輩のみの対
話的座談会であったのである。

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 京都の院展は昭和十八年の秋が最後であった。その時、小林古径、平櫛田中、斉藤隆三の三先
輩と私の四人で行った。その頃旅館はいつもの柊屋であった。私は以前に不眠症で、随分悩まさ
れた苦しい経験があるので、柊屋に着いて間もなく女中に、どんな部屋でもよいから私だけ一人
寝る部屋を頼んだ。それは同行の平櫛田中老は鼾の名人として有名であり実は窺かに怖れを抱い
ていたのはそれである。幸い静かな茶室を寝室にあてられていたためによく熟睡した。翌朝二階
の広間でこの四人が一緒に朝食しているとき、斉藤博士より「小林さん、あんたは昨夜眠れなか
ったのですか、平櫛老は寝つきに一寸鼾をかいたが、後はなんでもなかったようです。僕が小用
に起きたとき、床の上に座禅をくんでいたね」と訊ねられると、僕は今不眠症にかかっているん
です」と、ぽっちり一言返事されたまま黙々食事していられる小林さんであった。
 それから午前中招待日として会場、午後小林さんに誘われて大徳寺に行った。門内の広いお庭
を二人で歩きながら、私もかつて不眠症にひどく悩まされたことがありますが、不眠症は原因治
療をしないと、あの苦しい不眠症は到底治りにくいものであることを申しあげたところ、黙々と
して歩いていられた小林さんは、しづかに歩行を止め、凝乎と覗くように私の顔をみつめながら
「郷倉さん、貴方たちは私を幸福そのもののように思うでしょう。実は僕には僕の家庭の悩みが
ありましてね」とのお答えであった。ご家庭のことに立ち入ることをおそれて黙ってきいていた
が、その頃から深い悩みと病因のきざしがあったらしい。その翌日法隆寺の壁画模写を実地に見
に行った。荒井寛方さんがそこにいられないので、近くの閑寂なところに借家をしていられるお
住いをお訪ねした。荒井さんは一生のうちで法隆寺の壁画の模写をさせていただく、こんな幸福
は今までの私の一生になかったと、感謝と法悦を語られていた。あれが荒井さんとの最後のお別
れであった。

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 話が前後するが、たしか昭和三、四年の頃であったと思う。目黒の速水御舟氏のところで、安
田靭彦、小林古径、前田青邨の先輩はじめ中村岳陵、速水御舟、小茂田青樹、富取風堂、小山大
月諸氏をメンバーとして研究会が結成された。あの黙々とした古径さんが、いざ批評になると沈
黙を破ったような、太い声で、熱意に充ちた咄々卒直な口調で、作品の核心にふれた批評はいつ
も私達の心に響くものが深かった。そうして、あれだけの大家が自ら研究会にお作品をお持ちに
なったのに感心した。それは院展十六回に出品された「琴」と題する二曲一双に描かれた娘が琴
を弾いている図を、その出品前の試作のつもりか、尺五竪双幅に描かれたものを出品されたこと
を覚えている。その季節は早春の細雨粛々とした空寒いある日の午後、荻窪の森の中に古びた
洋館を住居とされていた小茂田青樹氏のお寺のようにからんとした画室で、武蔵野の黒土の畑
と、疎林を窓ごしに眺めながらのわびしい研究会であった。それだけにまことに印象深く記憶し
ている。帰途夜おそく、電灯もない暗い起伏の多い夜道を、あのモンペイと釣鐘マントの古径さ
んと並んで話をしながら帰ったことも懐しい想いがする。あの研究会はかれこれ二年ほど続いた
と思うが、院展出品作の批評会のごときは普通の批評家などの観点などと全然その内容や見方が
相違して、卒直簡明にして忌憚なく思いきった批判は、真に啓発され深い暗示を与え、更に自己
省察のまことに有益な研究であった。

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 古径さんという仁は、いかにも身振りの構わない殊に壮年の頃には全く書生っぽうのように見
られがちであった。私の知人のある実業家が院展の会場で初めて古径さんに会われた際の印象は
古径さんという先生は、まるで質屋の番頭さんのように見える仁ですねといわれた。またある知
人は、禅宗のお坊さんのようだねともいわれた。古径さんはいかにも仙味で、着ていられる着物
なども木綿のように見える、日だたない縞柄のようなものを着られていた。ともかく、すべての
好みがごく目だたないが、実は贅沢な結城などの高級なすばらしいものを着ていられるのであっ
た。ともかく、平俗に徹した粉飾のない地味の態度は古径さんらしい本領である。
 酒は嫌いということで、いかなる宴会でも個人の招待でも、一滴も呑まれないが、ただ煙草は
とても好きで、巻煙草をはなさない、いつも指の間にはさんで呑まれる指と指の間は煙草のヤニ
で黄色く染っていた。
 私はある時お訪ねしているところへ、欧州旅行のとき、パリやイタリアへガイドとして案内さ
れたヨーロッパ通の画家長谷路可氏が見えられ、一緒に大森の料亭で御馳走になった。その時も
一滴も呑めぬ小林さんが、私達に酒をすすめられた。長谷川氏は多分酔ったように覚えている。
 その後、小林さんに誘われて銀座の味の店として有名な料亭に案内をうけたことがある。その
時も一本の酒を注文されたので、私は酒は頂けませんから、というても聞き入れなく、一本の銚
子を女中が持参すると、直ちに私にお酌される、私も銚子をとってお酌をすると、酒は嫌いです
と、お酌を厳として断わられる。一滴の酒も呑まれないのである。私もほんの三杯の酒はうまく
呑めるが後の酒は辛いので呑まぬことにしている。私の余り呑めぬことを知っていられるはずの
古径さんは、一杯でも呑める人には心温く迎えられる心やりの深い人柄であった。
 
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