天心と赤倉 T |
岡倉天心は文久二年十二月二十六日横浜で生れた、然し天心は横浜で生まれながらどうしたこ |
とか横浜生まれということを生涯通じて誰にも言わなかった。この間天心生誕百年祭を意味する |
記念展として日本美術院第四十四回を福井県の主催で初めて福井市で開催された際、院の代表と |
して挨拶のうちに、天心に因んだ話をしてもらいたいということであった。天心に関する話は、 |
一部の人達を除き認識のまるで少ない福井の人達には、私のつたない天心観におもいがけなく、 |
天心という卓跋な人間について、ひどく興味と関心を持ったらしい。そうしてその後天心研究に |
熱心な一部の人達と院の我々と天心についての座談会が催された。出席した諸氏の大部分の人達 |
はやはり最近まで天心は福井の出身であると信じていただけに、天心は横浜生まれであったこと |
がはっきりわかり、意外の感に打たれたらしい。 |
天心の父は言うまでもなく福井の松平藩中で生まれ、多くの親戚縁者は言うまでもなく福井に |
あった。 |
おそらく当時の横浜というところは、その十余年前まで、ほんの漁村として辺鄙なところであ |
ったが、遂に面目一新して、新しい世界人の港として、極東の新興港街の繁栄地として、一攫千 |
金の夢をもった低俗な街として、そうしても天心の性格にはぴったりしないものがあったに相違 |
ない。そんなことからどうやら横浜生まれの浜っ子育ちということを一切口外に洩らさなかった |
、それだけに天心の心のふるさとは、やはり横浜でなく父の生まれた祖先の地を限りなく懐慕さ |
れたということがわかる気がする。 |
それではどうして天心が横浜で生まれたかということについて、言うまでもなく天心の父勘右 |
衛門は越前福井の藩士で身分は軽格の御納戸役に勤仕し、主として経理出納の任に当たり、藩公 |
松平春嶽は、つとに勘右衛門の商才を認め、両刀を放捨して牙籌をとれと命ぜられ恰も幕末の経 |
済混乱時代に聡明なる藩公の経済政策として貿易の新興策に勘右衛門を起用したのであった。時 |
勢を見るに敏なる彼は、自ら藩籍を離れて家族を伴い、横浜に居を移し専ら貿易商を営んだ。 |
藩公の密旨をうけ、植民地のごとき、はつらつとした新興横浜に大きな店舗を構え商人石川屋 |
善右衛門と改名して、その取り扱った商品は、越前の国産の羽二重や生糸であって、資金も藩公 |
から支給されていたために、いつも数万両を融通していた、その構えも本町通りに間口十数間の |
数棟の土蔵があった。 |
善右衛門の長男として生まれた天心について、その成長とともに教育には深い関心を持ってい |
た。言うまでもなく当時は洋学を志すものが多く、まず幼少にしてジョン・バラーから英語の基 |
礎教育を受け、更に神奈川の玄導和尚について外典の大学から論語、中庸、孟子に及び和洋の学 |
問を身につけた、このような和洋の基礎教養が、やがて成人した天心の一生を通じて大きな原動 |
力になっているのである。 |
昨年五月十六日横浜開港百年記念にあたり天心誕生碑の除幕式が横浜開港記念会館の前の敷地 |
で催された。奇しくもこの敷地は父の石川屋善右衛門の店舗の旧跡で全く天心の生誕の地であるこ |
とは、単に偶然とは言えない因縁である。 |
院の彫塑部の同人新海竹蔵氏の作の天心の横顔のレリーフを花崗岩の上方に嵌め込み、下方に |
は院の理事長安田靱彦氏の良寛風の品位の高い書体で岡倉天心誕生之地と彫名され、下の台石は |
磨かれた大理石で、いかにも上品で瀟洒な記念碑が建てられ、そうして令孫岡倉古志郎氏により |
おごそかに除幕式が挙行された。これは横浜美術懇話会の意図であり、発起により完成されたも |
ので、この誕生碑は横浜開港百年記念として横浜市へ寄贈されたことは誠に意義深いことであっ |
た。当日は横浜市と美術関係の多くの来賓諸彦により新に偉大なる天心の生誕を偲び、更にその |
偉業を讃えられた。この誕生碑により天心の出生地は横浜であり浜っ子であることを普く、はじ |
めて一般的に広く明らかにされた。 |
そんなわけで天心は生前中は幾度となく懐かしき父祖の地として心のふるさとの福井へ帰省さ |
れた。たまたま福井に帰る途中、豪雨のため洪水となり、汽車の不通のため止むなく越後の高田 |
に下車されて、待避三四日の滞在中に偶然にも同市の顔役の三館一郎治という人を知り、初めて |
近くの妙高山麓の赤倉の雄大なる景観と昼夜間断なく大量に湧きいづる無色透明のすばらしい、 |
いで湯の話や、出羽の詩人村上詩仏が妙高山麓の大自然に感激して詩作に耽った話などを聞かさ |
れ、即日、直ちに三館という人の案内で赤倉行きとなった。 |
妙高、戸隠、黒姫の信越三山が嶄然として中空に澄み透り、左右に飯綱と福奈の二峯が聳え、 |
遥かに見はるかす野尻の山湖が銀色に光るのを一望した、まことに壮観な光景と原始的な素朴な |
旅館にこんこんと流れている清らかないで湯がひどく気に入った。早速三館老の世話でまず赤倉 |
随一の眺望のいい土地を求めた。その後売物に出ていた高田市外の料亭富貴楼の建物を買い取る |
ことに決まった。それは明治三十五年五月のことで、それから三、四年経てはじめて二階建ての |
大きな山荘として改築された。 |
天心は毎夏避暑期間中はいつも赤倉山荘に起居された。この雄大明浄なる景観とひえびえと澄 |
みきった山気の肌ざわりは、五浦海岸のべとべとした海気の感触と異なり、とりわけ好きであっ |
た。また五浦の海荘生活のように同じ大きな景色でも漂べようとした、はてしのない紺青色の水 |
平線のみを見つめていた、単調な海洋とちがいな起伏に富んだ山と樹木が生吹してずいいる、閑 |
寂な山の行楽は海外から帰朝した天心のはりつめた心をひとしお慰めた。 |
いつも読書に疲れたときには、犬をつれ或いは管理人として一切の世話をしていた気の合った |
村人、遠間徳次郎を伴い、山野の漫歩そぞろに、寒山詩や李白の詩を、また自作を声高らかに詠 |
い、疲れたときには、山丘の灌木林に或いは山芝の上に寝そべりながら高山の大空に真夏の白い |
雲がかるく悠々とながれる相を黙然と、しずかに仰ぎ見られるかと思えば急に半身をおこしてあ |
の鋭い目つきで、あたりを○乎とへいげいされる姿がほうふつとして、眼前に浮かぶ気がする。 |
天心は五浦で釣りを好まれ、釣り用の小船と釣り道具まで一切米国式の釣用式を取り入れて自 |
ら作られた。赤倉の山荘で船を浮かべることは出来なかったが、同じく晴釣雨読の生活でもあっ |
た。それは付近の清浰な河や小さな渓谷や滝壺で、岩魚を釣ることが何よりの楽しみであった。 |
そうして夕飯の食卓に岩魚の味覚に舌鼓をされることであった。 |
夏の山荘生活は身辺の雑事から一時に解放された自由な心楽しい天心は唯だ一人の行楽の世界 |
であった。つねに、あまねく日本内地の古美術調査や、現代の美術教育のこと、とりわけ不振な |
日本美術院の前途に対する考察、さては米国ボストン美術館の東洋美術部長として新たなる計画 |
や解説と、欧州諸国における天心の講演資料や抱負等々寸隙の閑もなく、どうやら命の洗濯を要 |
したと憩いと言っても過言でない。しかしこうして心ゆくばかり大自然の山麓の温泉に浴しなが |
らも、明治四十三年度に英京倫敦に開催さるべき日英博覧会に出陳する特別保護建造物並に国宝 |
帖の英文解説を起草する幾多の仕事が山積していた。ただ、解放された自由な気分であったとい |
うだけに過ぎない。雨の日や、ひどい風の日は、いつも一室に閉じこもり、山積みした仕事をか |
たづけるか或いは読書三昧、または毎日届く多数の郵便物を処理することと、釣道具に手入れを |
することだけは忘れなかった。 |
妙高山麓の生活といっても仲秋から晩秋にかけての美しい万木の紅葉と、雑草や山芝まで金色 |
に醇化され、この万山黄金明るく映ずる大高原の中空に、妙高や戸隠が新雪に輝く秋と冬との連 |
接した鮮浄な景観や、また丈余もつもる雪深い真冬の自然現象はともかくとして、雪溶けころか |
ら新緑にいたる百花百禽の山の行楽の春として、ぜんまい、わらび、たらの芽、山筍等々山菜が |
出旺り、鶯や時鳥、廓公がしきりに啼く五月の山の春のよさは、はじめて天心が赤倉の山麓を訪 |
れた季節であっただけに詩人肌の多感な天心には、深い感懐に浸されたことと思う。 |
殊に八月中旬から赤い芒の穂波が山丘の起伏に添って爽やかな涼風に靡びく高原の限りない広 |
莫たる叢の中に、女郎花、撫子、藤ばかま、桔梗等々の秋の七草が咲き乱れる風情は、わけても |
日本的趣味の深かった天心には好まれた。 |
山麓の夏の秋、晩酌の微醺を帯び、すがすがしい爽やかな夜風を肌にうけ、幻想的な月夜の寂 |
莫たる光暉のながれる万古の原始的な感懐に、深更を忘れることが幾度であったかと思う。天心 |
の詩賦中に明月清秋酒半醺とか満天風露看星文、とかいかにも天心らしい。天心は笠間の奇人加 |
藤桜老について弾琴を学んでいたことが既に井上哲次郎博士が書いていられるように、詩を詠い |
弾琴を韻じて、白楽天や杜甫の詩境に遊んだ。 |
天心の大学時代から机を並べていた和田垣謙三博士は学生の酒豪家として知られていた。博士 |
から、酒の洗礼を享けたことは、天心自らいつも家族のものや酒を好む人達に洩らしていた。博 |
士は天心と度々酒席を共にされ、天心の晩年五浦の海荘へ招かれ、大いに痛飲して一連の英詩を |
白絹の上に書かれたことが記録されている。博士は赤倉山荘に行かれたかどうかわからないが、 |
同じ大学同級生であった、国際法の権威有賀長雄博士とも親しく、また天心と並んでフエノロサ |
博士の美学や講演の通訳もつとめていた関係で心の友であった。たまたま、博士はある夏、赤倉 |
の香岳楼に滞在中、名月の夜、天心に招かれ彼の山荘を訪ねた。天心と久濶の邂逅を悦び、酒席 |
を囲んで深更を忘れた、そのとき博士は「ここは月を眺めるにすばらしく唯一の景勝の地である |
が、然し月を眺めるには水がなければ、真に上乗の光景とはいわない、どうだ、岡倉君この前庭 |
の一角に大きな池を掘り清澄な水を湛えて 碧く光る月光が映るならば、いよいよ天下の景観で |
ないか」 |
天心は翌朝から早速村の多勢の人夫を雇い、山荘庭前に大きな池を掘り、山より引いた清水を |
流し込みここに博士からの名言をそのまま実現した。今日なおこの池はそのまま五十余年寥々と |
して月心の美を湛えている。 |
詩人肌の天心の生活は凡そ簡素にして風流であり、更に感性に鋭く清感と興趣のみの芸術的雰 |
囲気に生きながら、その一面父の血を享けて或いはその頃天心が学んだ大学の文学部といっても |
実は理財を主とした経済学部であったので、どうやら詩人肌の天心といえども経理の観念には決 |
して無関心ではなかった。 |
あの原始的な山荘生活として、牛六頭、犬数匹、鶏数十羽を飼い剰へ原野二十数丁歩を所有さ |
れていたことは、単なる豪奢な仕業ではない、おそらく、あの広濶な高原に牧場の計画があった |
のではないかと想起される。現にこの高原には、いくつかの小さな牧場があるが、妙高山裏側の |
笹ヶ峰の牧場で有名である。天心は既に五十余年前に日本人として最初の先見的な牧場計画であ |
ったに相違ないと考えられる。 |
そのときの原野二十数丁歩は無償に等しい廉価であって、天心山荘を降りる地続きの高原と、 |
他の起伏する高原中にも十数丁歩を所有されていたことを天心の令息一雄氏から、私は直接聞い |
た実話である。今日なおこの土地が岡倉家のものであれば、赤倉温泉地帯の岡倉財閥であったに |
違いない。いかにせん天心亡き後は無職者にひとしい放浪生活をした一雄氏としては同じく無償 |
そのままの廉価で、他に引き取られたと恥ずかしそうに両手で頭をかきながら咄々と低い声でど |
もりつつ今日非常に残念だと、幾度もくり返していわれた一雄氏も、今はすでに故人である。 |
天心が自己の生涯を占った、所謂天心の「一生予定書」という珍妙不可思議なものを書いた。 |
第一、四十歳にして九鬼内閣の文部大臣となる。 |
第二、五十にして貨殖に志す。 |
第三、五十五にして寂す。 |
この三項の一生予定書はどんな心境で書かれたものか不明であるが、これは天心のどこか人間 |
的強弱心理というか、あの豪快にして強情な性格の一面に宿命的な寂莫なものを感じて、すこぶ |
る興味が深い。その結果としてまず天心は十九歳にして九鬼男の推挙により東京美術学校校長と |
なったので、男が遠からず、必然組閣の日があると信じ、その際は再び自分が推薦されて、文部 |
大臣の印綬を享けると信じていた。そうして閣僚としての入閣とは凡そその逆に永年の美術学校 |
校長の栄職の椅子から転落した。第二の貨殖の方はせっかくの計画なぞは、経済理念と性格の相 |
違が、とかく予算と決算が、どうやら喰いちがい、凡べて予定のように運ばない、前述の牧場計 |
画のごとく経済理念と現実が離反して結実するに至らない、従って貨殖に志しながらもそれは単 |
なる希望にすぎなかった。最後の五十五にして寂す、ということは何ともいえない悲痛な短命意 |
識が気の毒で堪えられない気がする。この頃までに持病を意識されていたのか、或いは精神的に |
肉体的に、余りにも無理と過労をひどく意識され長命は出来ないと覚悟されていたようにも考え |
られる。しかし予定年齢表より三年も損して五十二歳の短命で寂されたことも、どうやら淋しい |
皮肉であった。 |
常陸の五浦と越後の赤倉に海荘と山荘を建てたということは、これは普通の富有人や名士が単 |
なる別荘を建てたその心理とは、いささかその事情が自ら違うと思う。天心は美術学校校長を辞 |
めてからの十年間の生活は、いかにも偉丈夫らしき生々した天馬空をゆくような、いかにも自由 |
奔放、当時の日本人として全く類例を見ないコスモ・ポリタンでもあった。世界の限界を越え、 |
その足跡至らざるなく、また人事往来の面でも天心ほど凡そ世界人として広く直接交渉を極めた |
人はあの頃として珍しく、唯一の国際人であった。この卓跋な英才であり、秀れた学者であり、 |
また深刻な詩人肌の然も直接実行家の天心もどうやら祖国の大自然の一角を対象として最後の心 |
の憩いを求めたことを考察せねばならぬと思う。 |
顧るに天心は明治卅一年美術学校騒動のため校長を辞職した天心に同情し天心のために殉した |
橋本雅邦の主任教授から横山大観の助教授始め各科を通じて卅四名の教授や助教授が総辞職して |
日本美術院を創立して、一時は美術界の一大革命新運動として、前途洋々たるものもあり、将来 |
に好奇を求めつつも、その新しい研究は、遂に当時の頑迷なる保守的な作家や鑑賞家に認められ |
ず、即ち朦朧派として排された。その間天心は東奔西走、米国ボストンの東洋美術部主任となり |
欧州各国の美術調査と講演或いは東洋の理想、茶説、等の英文著書が彼地で刊行され一躍天心の |
美術文学者として世界の人気を集め、責任ある美術院の指導並びに経営を見る暇がなかった。 |
印度の古代美術探訪の二度目に帰朝した頃は美術院も廃退の極に達していた。かかる状態のう |
ちに天心は、恵まれた世界の脚光を浴びながらも天心自ら身辺において一生涯中最も波乱重畳が |
続き、更に大なる希望と、深刻なる一身上の悲劇が痛く天心を苦しめた。 |
原始的な壮観をもった常陸の五浦海峡に海荘を建てたのは明治三十八年で、その二年後に悲運 |
な美術院を敢然として五浦に移動した。世上これを院の都落ちとして冷笑した。都落ちの宿命の |
うちに選ばれた錚々たる中堅作家の四人、即ち大観、観山、春草、武山のため、それぞれ新居を |
建てて家族をも移転させた。更に研究所を新設し、五浦湾峡の最も景勝の岩頭に見事な六角堂を |
建てた。この六角堂は天心が絶えず巻煙草を口にして黙々として海を仰ぐ心の憩いを満喫させる |
場所であった。 |
その翌年時の文部大臣牧野伸顕が文部省展覧会を開設した。天心はその創設者として学者側の |
審査員となり大観と観山も作家側の審査員に任命された。初めて一流作家として認められ、それ |
まで乞食のような耐乏生活に生命をかけて研究をしていた大観、観山はどうやらこの不便な海峡 |
の、しかも貧乏な生活からいつしか脱却することになった。この五浦時代の窮乏生活を大観より |
私達に幾度となく聞かされたことを今なお記憶に残っている。 |
前述のごとくこの年の夏、初めて天心の赤倉山荘が建てられた。料亭の古財で造られた百坪に |
近い二階建ての大きな山荘であった。二階は大きな一と間であったが膝下に見下す青い山脈の前 |
景中の左側に銀色にきらめく野尻の山湖は美しく、妙高山麓の高原の斜面は東南に流れ、この雄 |
大なる景観を讃え、殊に碧く澄み透った豊かな温泉を好んだ、温泉の浴槽は高田城門の大扉で、 |
巨松の厚板を譲りうけて二間巾、横一間の大きな浴槽に使用した。これは天心の好みによって出 |
来た湯室であった。はじめて五浦の海荘と違った山湯が引かれた。この山荘の簡素な生活をこよ |
なく満喫して盛夏より仲秋の頃までの滞杖であったが、再び米国行きの予定のためにそれ以上の |
滞在は許されなかった。 |
四十二年の初夏、ボストンより帰朝直ちに五浦の海荘に入ったが、すでに春草は眼疾を患い、 |
大観は失火のため家を焼失して上京していない。観山と武山も、とかく留守がちで、ただ研究所 |
のみが寂しく海風に吹かれて寥々たるものであった。この夏は初めて天心は悠々と一ヶ月余りも |
滞在して山荘の生活をしみじみと堪能するのであった。 |
この二、三年前から天心は、ボストン博物館と日本の間を半年づつ交代に往復することになり |
、いよいよ身辺多忙を極めたが、この頃から宿痾の病気は時折突発的に変調を見せて苦しませた |
博物館の日本間の自室で端然として分筆を執り或いは、博物館の古美術品の解説にペンを走らせ |
ながら気分のすぐれない日が続き、館長やガードナー夫人その他多くの交友の勧めによりマサチ |
ュウセッツ州の山間の景勝地に静養に出かけた。一時は小康を得たが間もなく再び時々の変調に |
苦しみ遂に意を決して最後の帰朝になったのは大正二年の桜の咲く四月頃であった。 |
宿痾の腎臓炎や痔核は、すでに数年前からそのきざしがあって嗜む酒を慎むことと五浦の釣道 |
楽により冷え込みが痔核を一層悪化する因であったが、どうしても天心の性格は、医師の忠告を |
そのまま固くまもるわけにいかなかった。晩年まで天心の二つの道楽は酒と釣りで徹底した。病 |
中にもかかわらず自ら建造した小船竜王丸を海洋に浮かばせて釣りを楽しむことを忘れなかった |
。そうして日一日と衰弱する病中、ただ遥かに妙高山麓の山の湯を慕い、また雄大なる山の景観 |
がたえず天心の、想出の憧れとして脳裏に擦過するのであった。 |