天心と赤倉 十
 
 二月のさむい霜柱がちかちか針のように光る、晴れた日が、つづいたある朝、故下村観山の令
息英時さんが唐突訪問された。それは天心の書簡をすでに二八〇通ほど収集され近く出版される
ので例の天心が令息一雄に宛た支那奥地の難渋な旅行の記録的な興味深い長文の消息は前述のご
とく一雄より私がもらつて秘蔵している天心の尺牘を写すための所要であつた。
 その際みせられた生前の天心を撓る近親の人々や門下生並びに美術院関係者の人達が五浦や、
赤倉の山荘内や庭前をバツクとした五〇余年前の由緒の深い古色蒼然たる写真の面影が懐しく甦
えるのであつた。その拾数枚の褐色をおびた写真はそれぞれ想い出の深いものであるが、そのう
ちで大形の家族写真は明治画壇に活躍した作家とその家族である。今は一人として生きている人
はない、ただし、その作家の家族達の写真の左端の方を英時氏が指差して、この若い女は僕の母
で膝に抱かれているのは私が生れたばかりの赤ん坊であります。当時父観山が美術学校教授で英
国へ文部省留学生として出発前の壮行会の写真であります。それで英国へ渡航するときに生れた
ので、私の名は英時と名づけられたのですと語られた、記念すべきおもしろい話である。
 それから、そのうちに一枚の異様な小照をみて、どうやらふしぎに心ひかれるものを感じた。
それは藤の花を描いた屏風のようなものをバツクにして、印度のアジヤンターの壁画やエロラの
洞院の彫刻のうちにみるようなすばらしいポーズの美しい麗人の立姿である。彫りの深い眸と鼻
立、髪と顔のふくよかなアウトライン、その気品の高い容姿は一見何人であるかと考えた。間を
入れず、英時さんからこれは天心先生最後の愛人であること、天心先生がタゴール邸に滞杖中に
結ばれた、つつましくしかも熱烈な愛人である。この豊麗な佳人は名を、インデイラ・デーヴイ
ーというタゴールの令姪であり、サンチニケタンのタゴール大学の音楽と国史を担当している教養のある気高い婦人であり、天心との交りは一年余もつづき、天心のま心をこめた情熱に燃ゆる
ような名文、それは天心の恋愛文篇として高度な詩的感情が織りこまれ、立派な恋愛文章として
有名であり、むろんこの度上梓される天心書簡集のうちに、その幾つかの手紙が掲載されること
と思う。

×     ×

 天心が最後に心をこめた宿命的な辞世のような恋慕の限りない思い出を、したためてデーヴイ
ー女史に送つたのは、天心が赤倉山荘で亡くなる二日前である。山荘に出入りの天心がもつとも
信頼している村人、涌井千代松を枕頭に呼んでもらい、看護の人達をしりぞけて、天心は声をひ
くく、ひそかに今朝お前に渡した印度への手紙は、たしかに投函したかと一大事のように念入り
に尋ねるのであつた。涌井はあれからすぐ郵便局員に渡したことを答えると、天心は病苦のうち
にも、かすかな笑顔をみせて、さも安心したように、両眼をとぢてこんこんと眠りに誘われるの
であつた。
 こうして天心は亡くなる二日前まで寸時もわすれずデーヴイー女史の美しい追憶と幻想が、ほ
うふつとして苦しい瀕死にちかい病疾に、さいなまれながらも、遙か熱国浄土に恋慕するひとす
ぢのかなしいさすらう心、いかに天心の痛々しい魂の明滅は、さびしく詩人天心の情熱的純粋な
人間性のはかない宿命の一面でもある。

×      ×

 この小照は戦後の五浦の天心荘が日本美術院から水戸大学に寄贈されし直前、天心邸内の倉庫
の一隅の古びた屑寵のなかから見い出されたもので、これはおそらく天心夫人もと子と令嬢のこ
ま子の仕業であるらしく、どうやら、冷めたいわりきれぬ、さみしい女ごころの気もちで一片の
紙きれのように、あわれにも捨られたのであろうとのことであつた。更に先年天心の孫古志郎氏
が印度に行つたときサンチニケタンのタゴール大学にデーヴイー女史を訪ねた。デーヴイー女史
はすでに八〇才を一つ二つすぎた老婦人でありながら、すこぶる元気で明るく古志郎を心より迎
え、ひどくよろこんだ。その容貌や態度や英語の話ぶりまでが天心そのままであり、老の目に涙
をうかべて祖父天心の稀にみる偉大な人間であつたことを、くりかえし懐しく語るのであつた。
デーヴイー女史は、いまなお、独身で気楽な気もちで国史をのみ担当しながら余生をタゴール大
学にささげている。
 天心の生格は一面複雑のようで、いかにも直情的であり何ごとにも太く一本貫くものがあつ
た。彼を真心から畏敬信頼する人と、極端に嫌つた人もあつたらしい。そうしてどうやら婦人問
題が東西を超えてひんぴんとたえなかつたらしい。英雄なんとかを好むではないが、まづ天心は
たしかに、女にすかれたという一面はあり得たに相違がない。女は生来大きなもの強く秀れたも
のに別個のあこがれをもち、それが畏怖となり、やがて畏愛から恋愛に移動する感情がよくみら
れることだ。天心は容貌から偉丈夫であり何ごとも赤裸々で人生の上に失敗も成功も男らしく痛
快であり、公私ともに自己の欲するがままに縦横無尽に生き、どこか教祖的と革命児的な魅惑吸
引するものを身につけ、しかも親切に思いやりの深い性格からして、とかく婦人としては、男の
中の男としてどの方面からみても、すくなからざる魅力を感じたにちがいない。
 天心は亡くなる二日前までデーヴイー女史に、はかない情愛と悩みを感じながらも、その反面
に亡くなる丁度一カ月前に『しずかに死を待つ以外に何もすることは残つていないのです。それ
は広漠たる空虚……しかし暗闇でなくキラキラした光明でいつぱいです。一瞬の雷光と電光がつ
くり出した膨大な沈黙です。私はまるで大劇場に独り坐して、すばらしい演技をただ一人でみて
いる王様のような気分です』同年八月二日に詠嘆している。天心は死ぬ二日前まで愛人への恋文
がはたして涌井が投函したか、あるいは家人のだれかにみつかり、取られやしなかつたかと、ひ
どく気にしている悩みをもつ一面にこのような心境をみると、いかにも超然として恰も光風晴
月、ここにまた詩人のような、新たな一人間天心の性格がみられると思う。

×      ×

 天心亡くなるや、まづ日本美術院の再興を使命として喫つた大観はこの重大なる計画に対し、
すでに三年前に盟友春草が病没し、また、大正二年の文展審査員に院関係から一人観山のみ任命
され、従来審査員の大観はその栄任から洩れた、それは当時貴族院の陰の力が強く、日本画の傾
向に新旧両派の争覇が絶えなかつた、旧派の審査員と結んで新派を代表するがごとく考えられた
大観を排除した。大観とすれば容易からざる不満と反逆的な心境に燃えつつ、ここに天心の死去
に際し、生死一番、日本美術院の再興は天心の精神を具現継承することであり、また大観として
唯一の自己を生かす堂々たる名分と考えたことは当然である。この重大なる責任ある大きな計画
に対し、もつとも杷憂されていた天心直門の観山は決然として官僚文展の栄誉ある文展審査員を
弊履のごとく捨て、大観と共に、天心の遺業日本美術院再興に専心したのである。そのとき大観
は観山の手を握り男泣きに悦び感激したということも、およそ想像される。
 観山は天心に、とくに敬愛され、モチイーフやその構想にまで天心の関心と指導をうけ、更に
天心の卓逸したアイデヤを、そつくりほしいままに表現の成果を挙げることのできる秀れた才能
をもつていた。しかし大観、観山は再興美術院の双壁として、いづれも名声高く、むしろ当時は
世間的には観山を重くみていたようである。それは皮相なる観察にすぎず天心亡き後の観山は秀
れた名作も数々発表しているが、なんといつても天心没後の観山は年を遂うにしたがい、大観の
比でない。観山はなんといつても立派な名人肌な伝統的技術に秀れた気魄もみられその性格も温
和誠実な格式をもつた仁であつたが、しかし大観や春草のようなはつらつとした革新的な独創性
に欠けていた。
 剰え大観のような作家として情熱意欲と頭脳明敏にして鋭く、性来負け嫌いな激しい直情的な
気性は、たしかに大観をして、その無器用な素質を自ら反省して百錬の苦惨を味識させ、彼独自
の知性的な精励努力により、次から次と新しい未知の境地を開拓した。人間天心の偉大なる性格
と、その資質の影響は、むしろ人間として卓抜な大観が、もつともよくうけついでいる。

×      ×

 日本美術院が再興創立されるにあたりまづ大観、観山始め靭彦、紫紅、武山の五氏と洋画の未
醒(放庵)がその経営者となり、第一回美術院展覧会が東京三越を会場として盛大に開催され
た、それは大正三年十月であった。開催中に日本画の小林古径、前田青邨、洋画の山本鼎、森田
恒友、彫刻の平櫛田中、佐藤朝山、藤井浩祐、吉田自嶺の諸氏が第一回同人に推挙された。大正
九年に洋画部がある事情により院から離脱して春陽会を組織した。院展はもともと日本画がその
中心であつたので憂うることなく、世上の人気はいよいよその頃よりなお大きく期待されるのみ
であつた。そのころは公の団体でありながらその一面に大観、観山を家長とした大家族的温い団
欒裡に抱ようされた、美しい血盟集団のようなものであつた、同人に推挙されるときは谷中の本
院の庭内一隅にある天心霊社で大観はじめ同人総出席して同人推挙の報告祭としての式典が厳粛
に挙行された。また同人中、死去の際は同じく報告祭がそれに準ずるような慣習で今日もなお続
いている、祭神は天心主神として狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草はじめ再興美術院に推挙され不
孝にして亡くなった同人二十数名が同じく神々として集られている。
 またそのころの院同人諸氏の必死な努力と、真摯な研究的な名作が毎秋の画壇に大きな衝動を
与えた。一般出品作品も五百余点中、わづか五点か六点の入選という、はなはだしい厳選ぶりで
あつた。そうして、高踏的芸術至上主義をモツトとした院の内容が充実していたことはいうまで
もない。それだけに土曜、日曜のごときはいつも入場者が幾重にも行列していた。大正十三年春
、筆者が同人に推挙された前後約十年間の院の盛況は、その高潮期であつたとみても差支ないと
思う。
 たまたま当時の名作を回想すると、大観の「生々流転」百数十尺の大絵巻、大自然と人生を象
徴した一大作始め瀟湘八景、観山の「夕立」靭彦の「日食」「黄瀬川の陣」古径の「髪」「犬と
遊ぶ」青邨の「羅馬使節」「洞窟の頼朝」御舟の「緑芝翠台」「名樹散椿」竜子の「竜安石庭」
芋銭の「夕風」「樹下石人談」岳陵の「朝風」「水紋」、渓仙の「御室の桜」恒富の「踊り」南
風の「白雨」浩一路の「御水取図」等々、大正昭和の美術史を飾る名作が続出した。
 この頃の院の名声は内外に高く知られ真実大観は院の総師のみでなく、日本美術界を代表する
権威でもあれば、同人中の幹部と称する先輩は同じく日本美界の第一人者と目される人々始め多
士斉々の同人はそれぞれ特色のある秀れた名作を発表して美術院のエポツク的な黄金時代を構成
したとみて差支えないと思う。

×      ×

 この頃(昭和七年)越後加茂市の素封家市川辰夫という仁あり、天心の終焉の地赤倉温泉近く
の妙高々原の一角に三十万余坪の土地を購入し、更にその土地に赤倉温泉組合から分湯される温
泉の権利を買いうけ、新赤倉温泉分譲地を経営することになり、この分譲地は日本の温泉地として稀にみる雄大な信越五峰を背景とした茫莫たる高原の一角に存在する、すばらしい景勝の 地で
ある。この分譲地を広く天下に知らしめ、また宣伝するには、かねて敬意を表する大観並にその
系例に属する院展同人諸氏に、土地と山荘をも建て無条件で提供することになればおのづから天
下の景膀地として知られることに相違ないと考えた。そうして市川家に出入する東京の画商八代
武之助は幸い院展関係者と別懇であることを聞いていた。八代はその直前に、大観始め院展同人
全部に作品を依嘱して黄牛会という日本画展を三越にて盛大に催したこともあり、また大観のお
気に入りのようにも聞いているので八代を東京より呼びよせて、この意中にある計画を打明けて
相談した。いうまでもなく八代も大いに共銘し市川に心から助力することを契つた。八代は翌朝
帰京早々、池の端の横山邸を訪ね、市川氏の計画とその意志を詳しく申し伝えた。その話の前後
をしづかにきいた大観は、おもむろに、それは結構なよい話である、ともかく一度市川さんとお
遭いして、よくお話をお聞きした上で御意にお添いしたいものです。と、答えながら実はね天心
先生が、かねてより妙高山麓の赤倉に日本美術院を移動しようとの意志がおありになつたので
す。先生のお亡くなりになる数年前下村君と二人を赤倉山荘に招かれ、あの山荘の大きな囲炉裡
をかこんで先生と三人で夜ふけまで先生の豊富なよもやま話をききながら下村君と二人でお酒の
お相手をしていたところ、先生はよほどいい気分になり唐突自作の詩を高声で誦われ、今夜はま
ことに愉快だ、ね……横山君、ね……下村君この赤倉というところは、住めば住むほどよいとこ
ろだ。第一妙高山はすばらしい山だ、この雄大なる高原には画材が無尽蔵だ。どうだ日本美術院
をここに移動したいと以前から考えていたのだ。この先生の憶底ある一言に大観、観山もいささ
か、おどろき、ただ茫然として黙々とするのみであつた。そうしてこの二人は言質をとられたら
一大事と席をひそかに一刻もはやく去りたいと思つているところ、間もなく先生が小用にお立ち
になつたのを幸い、与えられた二人の部屋に戻り、大息を洩らして、折角のお酒もいつしか醒め
て、二人は顔を見合せながら院をこの山奥に移動するなんて無茶なことをされては、われわれの
家族がこの誰れ一人知己もないこの山中で、干からびてしまうよ。先生がいい出したら後へ引か
ぬ人だからと、二人は院の将来のことなぞ話をしているうちにとうとう語り明かした。その朝の
一番汽車で帰京することになつた。そうして先生の奥さんだけに急に東京に用事ができましたの
で帰京いたします、どうか先生へよろしくと、先生が未だお起きにならぬ前に、山を下つた。こ
んなわけで、あの当時として先生を欺き背いたわけではないが、真実貧棒のどん底にいた私達は
、家族を見捨てるわけにもゆかず、あのように先生の奥さんにウソをいつて帰京したことを今も
つて先生に申訳けないと、つねに思つている。しかし市川さんからそんなお話があれば日本美術
院の自由研究所のようなものができるね。そういうことになれば、かつての天心先生の御遺志の
幾分を継承することにもなり、まことに結構な話であると、大観みづから欣然として物語るので
あつた。
 やがて市川の上京を待つて大観から築地の新喜楽に市川を招き、八代が相伴した。その席上で
市川の謙譲にしてしかもさつぱりした気持ちのよい好意と計画に対して大観もこころから感謝
し、その趣旨にすすんで賛意を表した。
 大観の構想はいうまでもなく、天心の遺志を継いで院の自由研究所を設けることであつて、ま
づ院の先輩靭彦、古径、青邨はじめ、約十名を選び、八代を使者としてその意図を伝え賛同を求
められたが、病身として遠隔のしかも気温の変化のはげしいところへは到底行けぬ、あるいわ湘
南方面に住宅並に画室を新築したばかりで応じかねるという、いろいろの家庭その他の複雑な事
情で大観が簡単に思つたようにならなかった。その十人の末席に筆者も選ばれ、八代が院の出品
製作中の酷しい暑さの日中に訪問されて大観より好意ある計画に対してしきりに賛成を求められ
たが、自由研究所と称する山荘をもらつたとしても、つまり、二重の生活を負担することにな
る、その能力と経済的な自信がないので残念ではあるが、お断りせざるを得なかつた。
 
 
 
 
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