天心と赤倉 ]T |
それから三週間後、院展開催中、院の事務所から大観の代理として、私方へ話にて、明朝お話 |
いたしたいことがあるから大観邸へ来ていただきたい御都合如何ということであつた。その翌日 |
大観邸をお訪ねすると、先客として大智勝観が見えていた。大観はしきりに妙高々原の雄大なる |
景観として、秋晴れのときはよく佐渡の金北山が手にとるように見えることや、秋の山麓はとく |
に美しいことを語り、かつて天心先生が美術院を赤倉に移動したかつたことなど、当時の天心の |
心境を話しながら何か思いついたように「時に郷倉君は御郷里へも近いので当然よろこんで賛成 |
されるかと思つていたがしかし別荘を持つような、そんな贅沢なものでなく、山の生活だからそ |
れこそきわめて簡単なものだよ、なんでも山の山菜を食うのだね、二重生活になるといっても、 |
経済的にはそれは問題にするようなことはない。第一土地も家も温泉もすべて無条件で貰つてい |
ただきたいという篤志に対してだね」ともかく明後日八代が案内するそうだから、大智君と一緒 |
にこの話の賛否は別問題として、一、二泊の旅行するつもりで赤倉を見て来てくれたまえ。とい |
うのはその用件であつた。大智君はすでに賛成で土地の下見と場所を選定してきてもらうことに |
なつていると。 |
そこで私は出品制作も終り、どこかえ一寸旅行にでもでようかと思つていたのですから、それ |
は何より好都合です。久々大智さんのお伴をいたしましようということに一決した。 |
× × |
その翌々日、早朝の汽東で上野駅を出発した、古い日記を調べるとそれは昭和七年九月十五日 |
であつた。 |
田口駅に着いたのは午後四時すぎで、車の中から夕霽れの妙高連峰を仰ぎみながら寒村、田切 |
部落を左に登ると間もなく新赤倉別荘分譲事務所というバラツク建の二階の一間がわれわれ三人 |
の部屋とされてあつた。小川雄逸という事務所長との挨拶もぬきにして、温泉に一と浴びすべく |
単衣に着替えた。そうして、このバラツク建の事務所にすぎたる四坪以上もあるコンクリの浴槽 |
に案内された。こんこんと流れおちる澄みきつた、碧く透明な温泉に勝観と肩を並べて浸りなが |
ら、どうやら疲れが出たのか眠く放心したような気分になった。ふと樹立の林から初秋の大空に |
こだまする、蜩のかん高い声をききながら、なんとなく旅愁を感じた。 |
山の夕餐には、めづらしく岩魚の塩焼に舌鼓をうつた。岩魚は二千尺以上の渓流でなくてはい |
ない河魚であるが、一体どこの渓流から釣つて来たのかときくとこの裏の郷田切という妙高山の |
雪溶けの冷めたい水がながれている渓河から、村人が釣つて来たものです。そんなにおいしいよ |
うでしたら、あす昼飯にまた召上るように沢山釣っつ来て貰いますが、この辺では、めづらしい |
河魚ではありません。山田のほそい用水の小川にまでものぼつて来ます。という給仕に出た素朴 |
な田舎娘の話をききながら心たのしく思つた。 |
寝る前に、二階の窓を一寸あけてみると、山の夜はしづもり、青い大空は無数の星明りで美し |
く流星は花火のように交錯している。宵の明星は黝々として妙高山頂の上、ひときわ大きく、ダ |
イヤモンドが輝くかのように初秋の、夜の山気は冷えびえとして、うすらさむい。 |
その翌朝はさわやかな清涼の秋晴れで信越五山と称する、妙高山を中心に、戸隠、黒姫、飯綱 |
の連峰を、ずらりと左に見、右には神奈の連峰が並ぶ一碧の大空に澄みわたり、高原の中央に切 |
り拓いた赤土の、土の香いがする八メータの新道が、山の方に向い一直線に走つている。その新 |
道横に並行した、幾本の区画された、その分譲地の草原の丘には秋草が咲乱れ、涼風になびく芒 |
の白い穂波は海原のように、ひろく光り輝いていた。つまさき登りの新しいデコポコの拓かれた |
新しい山道を十余丁にして、この新道にして動かすことのできなかつたらしい大岩が道の中央に |
あぐらをかいている。その横道を左に曲り、一丁も行つたところにこれはまたおどろくべき、巨 |
岩が象のように横臥している。この岩上に村人二十人が坐して宴会を催したことがあるという有 |
名な大きな岩であつた。 |
この岩の上に登ると妙高山の中腹の白糸の滝がよく見え、また前面の班尾山脈が青く澄んでい |
る。この辺一帯は広い茅場で眺めをさえぎる何ものもなく、平坦なよい土地である。すぐこの地 |
の下に流れる渓河は、白糸滝の水量がその源流である。 |
私達三人を案内された、小川事務長と二、三の社員が、この地は大観先生の山荘地として好適 |
な場所を選んだことを告げた。いうまでもなく、新赤倉分譲地として、随一の景勝の地とみら |
れ、この巨岩は、おそらく大観好みの得難いものであることをみとめた。そこで勝観は私にいう |
には、大観にうつてつけの場所が決定した以上、あのうるさいおやぢと少々離れたところがいい |
とて、大観山荘地よりさらに四、五丁離れた新道に添うた、とある場所を選んだ。そこには唐松 |
林があり、その林の中にはいぼ岩であるが、やはり巨きな岩があった。その近くには白樺の木が |
散在し、裏は崖となり、その下は郷田切りの雪溶けの清冽な水が滾々と流れる小さな渓河であ |
る。水流の音もしづかで、その渓河のすぐ上は広莫とした高原の斜丘が重畳して、芒の白い穂波 |
が幾十里となく秋風に輝きわたる風情はなかなか壮観であった。勝観は、すでにはじめからこの |
計画に参画していたので山荘の設計図まで特集していた。そうしてこの土地の一角に、勝観の山荘建設場所を自ら選んで社員に差示した。それから私に、あらためて、郷 倉さんこの土地は裏側 |
に人家が建つことがない、妙高山もよく見えるし、渓流の音もいい、何んとなく気がおちつき、 |
ほんとにいい場所である。どうか貴方も一つ決心をなさいよと、しきりに誘そわれるのであつ |
た。また小川所長も同じくすすめられる。また真実この妙高山麓の大自然が大いに気に入り、い |
つしか一生のうちにこんなところに住んでみたい気特にもなつた。なかなか好適の場所でもある |
し、いつしかなんとかなるだろうという気にもなつて素直に仲間入りすることに転向した。幸い |
勝観の隣地に形のよい牛が横臥したような相当大きな岩があったので遂にこの地を選ぶことにも |
なつた。 |
直ちに山荘用地として事務員達が二軒の山荘のため杭を打つて縄を張つた。私の山荘設計図も |
いそがれるので、事務所に帰るや勝観の設計図を参考にして大体同じような間取りで二十五、六 |
坪位のものを設計した。その後間もなく大観から直接にこの仲間に入るように、誘われたらしく |
勝観の東側隣地に小杉放庵の山荘も新設されることになつた。そうして年内にこの三軒の山荘工 |
事が完了されるということであつた。 |
× × |
その日の夕、田口駅から夜おそく上野に着いた。翌朝早速、勝観と一緒に池の端の大観邸をお |
訪ねした。勝観から、くわしく大観の山荘地として、大体決つた場所のことや例の巨きな岩のこ |
と、すぐ近くに郷田切の川の流れがよく、あの土地を生かしていることなぞ説明した上、最後に |
話をつけ加えて、郷倉さんもあそこの雄大なる連峰と変化に富んだ広い高原にすつかり魅せられ |
、とうとう同志の一人になりましたと愉代そうに告げた。そうして、それはよかつたと笑いなが |
らいかにも、ご機嫌のよい大観であった。 |
その年暮押しつまつてから、山荘ができたから見に来てもらいたいと手紙や電報が小川事務長 |
からきた。二人の子供はスキーに行きたいとせがむので家内とともに、ともかく行つてみようと |
いうことになりスキーを担ぐ二人の子供達と新雪尺余の山の家に行つた。 |
この雪の中に建てられた新しい山の家は、ほんの山小屋にふさわしい、いかにもお粗末なもの |
ではあつたが、台所のうしろの小さな浴室の硝子戸を引くとコンクリの浴槽に透きとつた温泉が |
こんこんと浴槽から溢れていた。家の外廊は出窓となり、雨戸のうちに硝子戸があり、それに並 |
行して障子戸が入って、三重戸になつているところはさすが雪国の山の家らしく、寒気に堪える |
ような仕組になつていたが、その雨戸が建具屋の仕事が遅れたためにまだ持つて来ないので雪の |
夜の寒さが身に泌みた。私がまだ寝ている間から、朝早く子供達は初スキーを楽しみ、すぐ家の |
前の狭いスローブの上で滑ぺり、幾度となくころんでは起き、起きてはころびしながら誰にコー |
チされるでもなく、いつしか適いところまでスキーに乗るようになつた。 |
× × |
それからその翌年五月、山の新緑を見に一カ月余り滞在した。妙高山の残雪はまだ皚々として |
裏の渓川の水音が、雪溶けの増水のため音たてていた。新緑の高原は別天地で、時鳥、廓公が鳴 |
き老鶯が頻りに囀り、山つつじや、うつぎの花が全山を色彩り、ほんとに百花百禽の好季節であ |
る。わらび、ぜんまい、山うど、山筍等々の山菜を採る山の行楽と味覚の楽しいよろこびをはじ |
めて湛能した。また、すこしの雑音もはいらぬのびのびとした、気分のよろしいままに、どうや |
ら仕事の能率もよく、また新たなモチーフや構想の上にも、おもいがけなく得るところが多かつ |
た。 |
一カ月余も滞在すると、台所へ出入する村の商人や草刈人夫まで、いつしか家人と近づき、村 |
の出来事や温泉事務所の噂まで耳にするようになつた。それで驚いたことの一つは、昨年の暮か |
らお正月にかけて分譲地経営者の市川辰夫が株に手を出して莫大な損失をしたために、最近つい |
にこの分譲地まで公売に附され、東京の駒沢銀行頭取の駒沢という人が落札して、新たな会社組 |
織として発足することになり、すでに駒沢配下の茂原という人が経営を一任されて事務所に来て |
いるという話なぞ伝わり、私達には何等の通達や諒解もないが、ただ不可解なことと思つていた |
その頃放庵一家もはじめて新緑の山荘入りで二、三度お目にかかつていた。ある日、はからず |
も今度新たな分譲地経営を一任された茂原という人が挨拶かたがた見えて、ただ今小杉さんへも |
行つてまいりましたが、実は市川さんのこの分譲地は、当社でお引受けすることになりましたが |
、聞くところによりますと、市川さんが先生方への御約束は無条件でこの土地に温泉をつけ家ま |
で新築されて提供されたということですが、市川さんからは当会社は現在の土地温泉建物一切の |
権利をそのままお引受けしましたので、このまま会社として認めることは出来兼ねます。但し先 |
生方が、この土地にいて下さることは何よりのことですが、やはり、代価として建築の実費と土 |
地代は分譲地価格より多少勉強して差上げたいということであつた。そうして、その負担は幾枚 |
の絵か現金のどちらでも結構ですということでもあつた。その代理人が帰るとすぐ行違いに放庵 |
大人が見えられた。只今、会社の人が帰つたので、これからすぐ貴方へ相談に行きたいと思つて |
いたところですと、それから二人で会社よりの申出について、いろいろの角度から相談した。 |
市川の約束とはまるでその内容は違つてきたが、新たな会社としては当然なことであると思つ |
た。そこでむしろ、会社へこのまま返却してしまつた方が、さつぱりしていいなと考えたり、ま |
た、こんないいところは生涯中にわれわれなぞには滅多に手に入らぬという話も出れば、いろい |
ろと考えた結果、この土地は景勝地としてばかりでなく、第一すぐれた気分で仕事が出来ること |
の幸せを大きな条件として考えられた。そうして、結論は若干の絵を描いて、その代価に肩替り |
することだけは、お互に迷惑であるから、これから一年か半年内に二回払いのような形式で支払 |
つた方がいいということに話がまとまつた。これがそもそも妙高々原の山荘に居住することにな |
つた因縁であつた。 |
このことを早速東京の勝観のところへ手紙でお知らせすると、こんどは意外の返事にいささか |
困却した。それは八代がこの市川分譲地の件以来、市川に贈る名目として大観に作品を依嘱した |
依嘱というよりも、大観始め院の関係者が市川にその約束したという約束金の代りに大観の小品 |
か何か簡単なもの一点を大観が代表として贈つた方がその市川の好意に報いる礼儀であるという |
八代の申出に大観は喜んで応じた。大観は市川の好意を謝して八代の希望した作品以上に大きく |
立派なものを描いて与えた。八代がその意外な力のこもつた作品を見て急に欲心に迷つたのか遂 |
に市川に贈らず、市場で売却してしまつたことが間もなく判明した。八代はその前も二、三度大 |
観に不義理を重ねていたこととてその時、大観の感情がひどく一時に爆発した。そうして大観か |
ら八代に憤りの言葉として、『過去のことを今更いわぬが、赤倉の件でこれ以上君と関係が重な |
ると、今後はどんなひどい目に遭うか知れない。赤倉の計画はすっかり断念する』と言い放つ |
た。そうして、その後八代は一切横山邸への出入を禁じられた。という意味の勝観からの手紙の |
内容であつた。更に丁度その後間もなく市川が株に大失敗したことをもほのかに大観が聞いてい |
たこととも推察され、そうして大観が具体的に、どういう責任もないが、どうやら厭気がさした |
に相違ないというような意向の文面がつけ加えてあつた。この問題以来、八代は沓として姿を消 |
して三十年以来、まだその生死すら不明である。八代の問題で遂に新赤倉の計画を放捨されてか |
ら十余年間、いつも秋の爽かな季節頃に大観にお目にかかる都度、いつもなにか思いを新たにす |
るように今頃は赤倉はいいだろうなとしばしば洩される言葉であつた。 |