天心と赤倉 ]U
 この頃、院展出品作品の大きさの制限がなかつたので毎夏閑寂の茅舎で六曲屏風の大作を毎夏
連続して精進した。大作になると、どうしても絵具を思いきつて溜めて描くので、その絵具が乾
くまで、畳の上に屏風を寝かせて描いているために、いつも夜更けまで、寝室にするわけにいか
ないので、家族のものも随分迷惑した。それで止むなく山の家が出来てから三年目に地続きの土
地を求め、少々離れたところに、これは最初から採光を考慮した新しい画室を造つた。
 それから数年後、常陸の五浦と赤倉の両天心荘が財団法人として発足することになり、赤倉の
天心荘については赤倉に居住している関係で事実上の相談相手として、院の財団法人の役員を大
観からお仰せつかつた。それから間もなく戦争がいよいよ苛烈となり、この山の家に疎開したが
食糧困難ということで広い草原のわが庭の一隅を開墾したこともあつた。

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 話が前後するが、この画室の新しく出来た頃、杉林に囲まれた赤倉の松林桂月老の画室は天心
荘から、ややすこし下つたところにあつた、この画室の横を曲る小径の脇に一と間の瀟洒な茅茸
のあづま家があつた。そこには毎夏十年近く桂月の好意により在家仏教の総宗河口慧海師がチベ
ツト大辞典を編集の大きな仕事に専念すべく、その小さな草舎に起居されていた。ある日私の遠
戚である私の茅舎より、ほど近いN君の山荘へ山野の漫歩かたがた、一寸立寄ると、応接間に短
躯肥満で赤顔、禿頭の真白い髯をのばした堂々たる八十才に近い老令に見うけた。いかにも風格
の秀れた老人を一目して、これは正しく、チベツトの仏教学者として有名な慧海師であることを
直感した。それは、かねてよりN君の奥さんから、河口師と奥さんの実家が親戚関係であり毎夏
赤倉に滞在されていることを聞いていたからである。私は、ひそかに、これは慧海師と偶然いい
ところでお遭いしてよかつたと思つた。それは私が美校時代の大半は印度の仏教芸術の研究に終
始し英国政府出版の貴重な大冊アジヤンター壁画集を写すため二夏の休暇にも帰省せずして熱心
に写していた頃から、河口慧海師のチベツトや、印度仏教史の著書を読んでいた。大正四年美校
卒業間もなく研究科に入つた頃、学校の文庫にて河口慧海師が将来された古代チベツトの仏教美
刻、仏具、玩具から仏衣式服まで数多く展示され、更に講堂にて慧海師の興味深い講演を聞いた
ことを覚えていた。その記憶なぞを慧海師に話をすると、ああ、そうでしたかとひどくよろこば
れた。それから二、三日後の午後に突然河口師をN君の奥さん海師が案内されて茅屋に迎えた。
半日余もチベツトや、印度の仏教美術や風土の習慣や今昔物語、その他、仏教に因んだいろいろ
興味深い話がつきない。ことに、天心には印度にてはお遭いになる機会がなかつたそうだが、天
心には敬意を表していられたことや、『亜細亜は一つなり』という天心の理想と艮族的な考え方
に共銘され、そうしてチベツトとインドの実生活に即した天心と慧海は同じく帰一した思想的な
見方であつた。天心は偉い男であつた。若いのに惜しいことをしたものだと、その後もお遭いす
るごとに度々いわれた。そうしてこの赤倉にいる間は時々朝夕散歩の都度あの化物屋敷という評
判の草深い天心荘へ立寄るということであつた。天心が生前印度奥地のアジヤンターや、エロラ
の洞窟が十世紀と六世紀の永い年月を閲してしかも祖先累代、幾十代を経て、過去幾万人の魂と
信仰的高度な精神を結集して造つた、それらの偉大な洞窟の壁画や彫刻をみると、エジプトや、
ローマの古代芸術なんぞは全く児戯にひとしいといわれたことを同じく慧海師も同様なことを話
されていたことも覚えている。
 慧海師をその後、そのあづま家に三度ばかりお訪ねした。いつも山積した古書が膝下に散乱し
て、古い机にもたれ、しづかに調べものに専念されていられた。師の姪にあたる十七、八の小娘
が、いつも山菜や大根、人参、山芋などを入れた寵から出して小舎の一隅で包丁を使つていた可
憐な姿が目にうかぶ、いうまでもなく師は永年の菜食であつた。

×      ×

 天心の「亜細亜は一つなり」という、信念と希望に燃えつつ亡くなつた、天心に対して以前か
ら好意をもつて検討されていた久邇宮邦彦王は、まことに聡明な殿下として有名であつた。天心
の著書という著書は悉く読了していられ、天心の高邁な遺志とその業蹟をとくと了解されていた
ので、特に日本美術院の作家に親しみをもたれ、久邇宮家の書院が新築されかとき、その書院の
襖間は大観と観山が、その天井は同人一同で描いた。その頃は度々久邇宮家の御賜餐をいただい
た。そのおごそかな大きな卓上の正面のお席で邦彦殿下から天心の東洋の理想始め幾多の天心の
著書について卓跋な所感や感想を率直にお述べになり、亡き天心を激賞されるお言葉をよく聞い
た。更に大観や観山に天心の生前の性格や人柄、または子弟関係なぞについて思いきつた御質問
があつた。大観の性格が天心とよく似た一面と、いつも和服に紋付のその風貌もよく似ているの
と大観の描く水墨山水のその気宇が雄大なところに、どうやらひどくお気に召され大観に対して
邦彦王は並々ならぬ親睦感をもつておられた。
 その頃であった、院の開期中に会場当番として私は、朝十時頃、院の事務所に行くと、すでに
大観が来ておられた。挨拶するや、間もなく郷倉君お芽出度う、昨夕院から君のところへお電話
した筈だが、昨日久邇宮殿下が会場に御来臨になり、君の狗児図の屏風をお買上げになつたが、
久邇宮は普通の宮家と異なり宮内省のお金でお買上げになつたのではなくそれは陸軍大将という
、お給料からお買上げになられたので、まことに光栄であるということであつた。そうして、こ
れからすぐ院で車を呼ぶから早速渋谷の久邇宮家へ御挨拶に行つてくれたまえと、大観はわがこ
とのように莞爾として言われた。
 久邇官邸の真面玄関で呼鈴を押すと、いつも顔知りの大沢という事務官が出て見え、私の顔を
見るや、先生そんな直前玄関の固苦しいところでなく、すぐ脇の内玄関へお廻り下さいと内玄関
の方を指さされるのであつた。大沢事務官の心からの好意により久邇宮と大妃宮両殿下に拝謁を
賜り、昼の賜餐までいただいた。それ以来、私は久邇宮家に何かあると、よく招れる機会が度々
あつた。それから二、三年経って邦彦殿下が急に薨去になり、従つて院の同人が招待をうけるこ
ともなくなつたが、毎夏大妃殿下が赤倉の別邸に御避暑になるのでその都度かならずいつも二、
三度御伺候する慣例になつていた。そうしていつも古典的な美術上のお話や現代美術としての展
覧会なぞについてよく御存知の大妃殿下から、よく御質問があつた。邦彦宮殿下は早くからすで
に天心の思想に共銘を深められ、大観の芸術を讃嘆されていただけに、久邇宮御一家は、絵や彫
刻が大変お好きで、その鑑識の水準も秀れて高いものであつた。因みに邦彦殿下という御仁は篤
学の士として知られ、印度仏教として小乗大乗の教典をもひもどき、更に中国の仏教や老荘の学
にも通じ殊に文化の祖と崇められる聖徳太子の著、法華経義毓や太子のお選びになつた古来著名
な維摩経や勝鬟経なぞの難解な教典にも明るく、また書道の方でもその達人でいられた。中国の
王義之や懐素始め彼地の金石学、碑文また敦煌の写経の直蹟まで究明され、もとより平安朝の弘
法大師や伝教大師なぞの蒙古にして格調の高いところをお手本としてよく味識され、やがて邦彦
王独自の、おほらかにして深玄なる書風がおのづから創生されたらしい。また邦彦殿下は天心の
仏教美術に対する学者として、なお老荘、儒学や漢詩なぞの思想的の見解について相当高く認識
されていたが、天心の書体だけは、あまりにも原稿字のように忙しく釘曲りのクセがある妙な書
風としておとり上げにならなかつた。
 邦彦王の晩年に詩文を御染筆になつた書軸を大観に御下賜になつた。骨法太く紙背に徹し、い
かにも幽玄清雅どこか王義之や弘法大師に通ずる、まことに風格の秀れた、能書でいられ、その
名幅にはいささか頭が下つた。
 今日なお、久邇宮家の当時の秘蔵された宝物のこと、逸話や、恩誼にあづかつたいろいろの感
想や記憶が、はつきりしているが、記事の内容からそれるおそれがあるのでこれでひとまづ筆を
擱く。

×      ×

 赤倉の二十年を顧みると、やはり天心と大観を通じての、ふしぎなつながりの系譜であったこ
とをも、おのづから想起され、ただ茫然として思いを廻ぐらすのみ。そうして、いつ山麓を訪ね
ても、生々として見あかぬ妙高の山の姿が、いつも天地と、ともにしづかに悠久である。
 因みに、最初の記事中に天心生誕百年記念が天心父祖の地、福井市において、すでに開催され
たことを書いたが、あれは当時、主催側の福井市と福井新聞社がその理由の一つとして三ヵ年を
繰上げて天心生誕記念展としたのであつて、実は今年こそ正確なる天心生誕百年祭に相当するの
である。
 そこで今秋は生誕百年祭を意義あらしめるように、いろんな記念出版や催しものが数々開かれ
る。まづ日本美術院から今までの天心全集を更に内容的に拡充された「人間岡倉天心正伝」や、
また下村観山令息英時により、はじめて天心書簡集が上梓されることになつている。
 美術研究所と芸大の主催にて九月三日から上野の芸大校内の正木記念会館にて天心の認めた自
作の詩歌や絵画、尺牘の遺墨始め原稿や多くの著者なぞ凡ゆる方面に渉る記念展が催されること
が識者諸彦から期待されている。
 かねて赤倉の天心会にても何か記念館のようなものを建てたいという希望があるが、それはい
つのことか未知数のことであるが、そんな場合は、天心に関係のあるものを寄贈したいという篤
志の人達がある。現に天心先生の着られた縫紋のある羽織を大切に所有している平櫛田中氏はそ
んな場合には、すすんで寄贈いたしたいと筆者に申されている。私も、この記事中に掲載の天心
支那奥地の旅行から一雄に宛た書簡中の記念すべき有名な長文の書簡はじめ、扇面に認められた
天心自作の小唄の軸幅や、ボストン美術館で書かれた自作の漢詩なぞ悉く寄贈するつもりであ
る。
 また天心門下にして天心亡き後、ボストン美術館東洋部長として五十年に渉つて在職している
富田幸次郎氏を中心として更にウオーナーの弟子達が教授として重要なるポストを占めている。
ニユーイングランドのハーヴアドー大学附属のフオツグ美術館や、ウオーナーが、かつて館長を
していたフイラデルフイア美術館なぞでも天心生誕百年記念展が国外の各所に催されることと
思う。

(昭和三十七年八月) (完)

 
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