天心と赤倉 V
 天心の発作は、ひとどきながら止んだが然し容易からざる発作状態を感知した妻の元子や娘
のこま子や妹のてふ子は、なんとなく暗い衝動をうけてすこしの油断もなく日夜の看護に余念
なくつとめながらも、この無医村の不安をお互にかこちつつ、万一の場合には、如何なる処置
をとつていいか、ひどく惑うのみであつた。
 とりあへず電報にて東京の一雄と、妻の孝子の岳父水科啓次郎を高田市から来てもらい、同
市の知命堂病院々長瀬尾博士を招いたが早急の場合と少々不便な当地とて、来診を得ず、代診
として杉本医師が応急の処置をとつた。彼女三人は不安がってるのみにて、更に天心の舎弟、
由三郎へも天心の急変状態を打電した。
 一雄の方へは、特に天心の病状を、つねに診ていた緑川医師と共に来たれとの電文を続けて
打たれた。その翌早朝の上野発にて一雄は、緑川医師と、ともにその日の午後三時頃田口駅
着、直ちに俥にて山荘にかけつけた。緑川医師はすぐ病室に入り、一応よく診察をした。そう
して近親の人達になかなか容易からざる重患であることを、慎重に冷静な語調で話されたが、
実は全くこれは危篤であると厳然と宣告されたも同様であった。

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 それから間もなくで一雄は妻の孝子と、孫の古志郎をつれて来るように打電したが元子は一
雄に対して孫の古志郎を呼びよせるもいいが「あれほど可愛がつていられたお父さまは、古志
郎の顔を突然に見られると、その喜びの昂奮から発作を再起させる誘因になることを怖れ、強
く反対された」然し一雄は到底この度こそは助からぬことと緑川医師の宣言を信じ独断で妻子
を呼ぶ電報を打つたのであつた。
 しかし天心の容態は仮睡のままに悪化することもなく数日を過ぎた。天心は好みの古代紫無
地のメリンスの重ね蒲団の上に無表情の姿で仰むいて眠つている姿はまるで芝居で見る関白や
大名のように見えたそうである。昔から紫色は病人を蘇へすということをよく知つている天心
の心持ちを酌んだ元子は新しく高田市の水科の親戚の八木太呉服店へ注文したものであった。
しかも長命をあやかるため附近の八十五才のある長寿のお婆さんに昼夜兼行の大急ぎて新調さ
れた蒲団であった。その翌日の夕景に孝子は古志郎を抱いて山荘に着いたが孝子だけを元子の
案内で天心の病室にしづかに通されたが古志郎は水科の祖父に抱かれ、病室から遠ざけられ
た。
 この頃近親外の見舞客として、最初に来荘したのは信洲上林温泉の山荘に滞在していた寺崎
広業であった。誰から天心の重態を聞かされたのか、羽織袴の律然とした姿であつた。そのと
きは天心は昏睡状態のため遠慮され病室にも入らずに病状をつぶさに聞き蕭然として帰った。
その翌日午後五時、横山大観、下村観山と舎弟岡倉由三郎の三人がともに来荘した。天心はそ
のとき昏睡状態とてこの三人はとりあえず湯に入り、それから薄暗いランプの下でそこはかと
食事をした。

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  元子と一雄が二人きりいて天心の病室に洋燈に灯をつけながら、黙々と坐つているとき、
ふと、目をさました天心は、何を思つたか凝乎とこの二人の親子の顔を見つめながら『お前連
は俺が死んだらさぞ喧嘩をするだろうな』と将来を憂れうるようにまた見透したような予言を
した。『喧嘩をするなよ』と再び言うて更に深い眠りに入つた。その翌日由三郎が病室に坐つ
ていると、またふと目をさました天心は、『由ちやん俺のウヰルが寝床の下にあるから、その
処置は万事お前に頼むよ』と、はつきりした遺言そのものであつた。それから間もなく大観、
観山が病室に入つたが二人の姿をよく見つめていた天心には、もはや気力も失つたのか語る
に、もの憂いのまゝに、再び深い眠りに入った。

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 その午後俄に常態がひどく急変した。幾回ともなく太い注射針の食塩注射をした、その反応
がありながらも一向にその経過が良好でなく刻々と愁眉に閉ざされる陰気な空気がこまやかで
あつた。その頃東京から橋本はつ子、雅邦未亡人と、令息始め川合玉堂、木村武山、岡崎雪
声、中川忠順、米原雲海、六角紫水や美術批評家の、関如来の見舞客が続々と来荘された。
その夜は大勢で徹宵しながらいよいよ脈もうすれ危篤に近い最後の昏陸状態に入つた。主治医
からも最期の死別を宣言されたころは、向いの班尾の山頂から爽かな黎明の光が雨戸の隙間か
ら、かすかにさしこむ頃で、病床の枕頭に黙然と悲痛な哀愁と惜別に閉ざされた悲しき元子、
一雄、こま子、由三郎、てふ子、孝子の近親者始め大観、観山等々の関係者の幾多の人達が心
しづかに最後の袂別をした。それは天心を病室の中央に囲んだ人達はいずれも、つつましく涙
に浸りながら衷心よりお別れの言葉をひそかに述べ、うやうやしく礼拝をくりかえすのであつ
た。万事休すとなつたのは大正二年九月二日午前九時であった。行年五十二才。この日の夕、
天心の女婿米山辰夫は熊本の任地より着荘、一同と共に山荘のお通夜が営まれた。

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 天心の遺骨は、山麓名香山村で火葬にして東京へ運ぶか、或は、消毒を厳重にして寝棺に納
めて汽車で運ぶかということが近親者や関係者の問に問題となったが一雄は即時名香山村の役
場で調査すると村の火葬場は、まことに、都会の人達から見たら痛々しい原始的な設備という
ほどのものではない。全くお粗末なものであることが判明されたためいうまでもなく医師の手
を煩らわし丹念に消毒して東京へ運ぶことに一決した。この村にはもとより神官や、僧侶もな
く入棺の読経をあげるすべもなく奥の座敷に安置されて薫香を捧げるのみであつた。この寝棺
は山麓の白樺材にて造り、おそらく大観、観山の思いつきの知恵であると思う。それに天心
は、つねに妙高々原の初秋の草花を愛したことを憶い出して、近くの高原から、桔梗、女郎
花、萩、撫子、芒、葛の花等々の七草を夥しく刈りとらせて、それを無雑作に寝棺の上にささ
げた。その奥の間の床には光悦の消息文の茶掛がかかり戸袋には観山が雪村に倣つて描いた瓜
図が描かれてあつた。

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 その翌日、軌の七草に飾られた寝棺には、草花が散乱しないように紐にて結び一頭の馬の背
に乗せられ一頭の仔馬を伴い、この尊い寝棺のすぐ脇には門弟の大観、観山始め幾多の関係者
が守り、後方よりは近親者や同じく関係者や村人達がしめやかに初秋の涼風に靡びく芒の白い
穂波が光る蕭条たる山麓のわびしい灰色の山径を下る光景はさながら、天心絵巻の構成を思考
されるのである。棺中に無心のまゝに双脚を伸して横たわる天心もさぞ本懐のことであつたろ
うと偲われるのである。今でも私の画室のすぐ裏の北側にひろがる高原を約七、八丁行つたと
ころに今は全く人通りの稀な旧道としてのこつている。私はいつも晩夏、初秋の頃には涼風に
なびく芒の穂波と大空に秋の白雲のしづかにうごくのを見るごとに当時の悲しい詩のような美
しい光景が浮んで心からなる追憶をくり返えされるのである。

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 田口駅から出発したのは零時幾分かの列車であった。柩を舁ぎ込んでどうやら安堵した近身
者や関係者一同は、ほつとした気持で車上の途についた。天心の発作以来亡くなるまで連日の
徹宵に引続きの疲れと心労で同行の人達は発車後間もなく知らず知らずに無心のまゝに深い眠
りをむさぼるのであつた。上野駅に着いたのは午後八時過ぎであつた。駅のホームには男爵浜
尾新初め、同窓の牧野伸顕、有賀長雄、三上参次等々名士や作家として高村光雲、竹内久一、
その他日本美術院関係者はいうまでもなく文壇画壇の友人、知己が二百余名であつた。天心の
柩を迎えられた多くの名士や、作家のうち現在の生存者として安田靱彦、平櫛田中の両先輩が
いつか私に当時の興味深い状況を詳しく話されたことを今なお記憶している。多くの人達が
悲しい思いで列車を心待ちにしていると、程もなく列車がホームに入つた。おそらく立派な生
花や花輪や薫香につつまれた、おごそかな御柩が車内から運ばれるかと思つていたところ、そ
れは意外にも、近親の人達に守られ、大観、観山等々の門弟連の肩に担われたものは単なる枯
草の、ぼうぼうとした大きなかたまりであつた。それは高原に美しく咲きみだれた秋の七草も
一日一夜のうちに、すつかり花や、穂が枯れしぼんだ、枯草に化した、ぼうぼうとした枯草の
乱れたお粗末無造作に覆われた枯草の柩であった。これはいかにも天心先生の御柩らしく自然
の情感をたたえ、まことにこころ幽しく感激したということを語られた。因みにこの二人の先
輩中、靱彦は戦後、陛下の御前講演に天心の生涯について大観に代つて語られ、田中は戦前戦
後天心像の名作を院展に発表され昨年来度々ラジオまたはテレビにて偉人天心を語られた。

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 この枯草の枢は本郷竜岡町の故橋本雅邦邸に運ばれ、東京にて始めてお通夜があつた。その
お通夜の晩に、木彫の観音像を抱いて棺の周細を廻りつつ心誦を唱えながら往復する者があつ
た。それは心血を込めた自作の観音像を生前天心に、一と目でも見て貰えなかつたことを、ひ
どく残念に思い相中に眠る遺骸になりとも見て貰いたいせめての思いつめた動作であつた。そ
れは前記の彫刻界の元老平櫛田中であった。

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 葬儀は谷中斉場で営まれた。橋本邸から上野公園下を通り、斉場に着するまで枯草につつま
れた枢を大観、観山等々の門弟や故橋本雅邦の令息、秀邦、永邦並に五浦関係の約二十人の人
達がおもむろに皆木綿の白衣と雲斉の袴に藁草履の扮装で舁ついだ。斉場には霊柩前に単に
(釈天心)と記された位牌が安置されたのみであつた。
 導師の永称寺住職和久隆広師は黒衣一着、伴僧もなく、いうまでもなく、綺羅金襴の、華麗
高貴なる僧衣を飾らず、読経も僅か五、六分で終り、多くの列席者は唯感激にむせび緊張裡に
厳かに葬儀が終了された。会葬者は一千人という盛葬であつた。この葬儀はまことに天心とい
う偉人の最後を飾るに、ふさわしいものであつたことを今なおいい伝えられている。

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 遺骨は、すぐ茶毘に附され、染井の塋域に納められた。墳墓は愛弟子の早崎便吉の考案で方
形の石の正面に釈天心の三字を刻みその上に芝を植え土饅頭を築かれた。所謂中国風の様式で
ある。

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 故人の生前にかりそめのすさびとして残された 『我死なは、花手向けそ浜千鳥、呼びかふ
声をかたみにて、落葉の下に埋てよ。十二萬年名月の夜、訪ひ来島ん人を松の蔭』
 これは辞世にも見えぬ辞世の歌を思いうかべて松頼の咽ぶ波濤のたえず、岩頭にうそぶく五
浦の旧居の近くに、更に土饅頭を築き分骨埋葬の塋域を造り、即ち『無窮を趁う』なる箴言を
芸術の理想とした偉人の尊き聖地とされた。浦の旧居の近くに、更に土饅
 元子と一雄の二人のみでこの塋域で埋葬すべく小骨壷を土鰻頭の中にしずかに納め終つたと
き、元子はしずかに懐から一片の紙包をとり出して真面目な態度で 『この人も不運な人でし
た。ここに葬つて上げることが、ほんとに場所を得たものでしよう』天心の分骨と一緒に土鰻
頭の下に埋めた。それはありし日の天心の愛人悲しき星崎はつ子の小照であつたことも人生の
哀しい思いと、いとも心やさしいおもいやりの人情の美しきがつつましく見られる。  
                                        未完
 
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