| 天心と赤倉 W |
| 天心の亡くなったのは僅か五十二才の壮年期である。天心が尤も華々しく盛んに活動したの |
| は二十才頃から四十才頃までである。それは普通一般人の幾倍かの事業を達成し更に歿年の四 |
| 月ボストンから帰朝するまで幾年間も半年交代としてボストン・ミユジヤムに専心仕事をつづ |
| けていたのである。然し天心の自己の予知書に見られるように、自己の短命を意識していたの |
| か或はそんな暗示をうけていたのかまた五十才以前から持病があったので健康すぐれず気分の |
| 上でいつしか老境を楽しむごとくに自ら五浦老人などと自称して、どうやら隠棲生活に入るこ |
| とを好んだらしい。尤も天心は若い頃より卓跋であり天馬空をゆくごとき幾多の事業を完遂さ |
| せた永い間の心労と美術探索のため幾度となく支那印度の人跡未到の僻地でその研究のため生 |
| 死幾多の難事に堪え忍んだか。また欧州方面へも度々研究や調査、講演なぞでいかに苦労した |
| ことか、剰え美術学枚紛騒問題や日本美術院創立後の悲劇なぞ幾多の大きな災難に遭遇して永 |
| い間にどうやら心身の過労が、やがて病疾となり、凡ゆる原因が天心をして逃避心を起させた |
| ことになつたものかも知れぬが、ともかく晩年の天心は人事のことはさりながら、ただ原始的 |
| な大自然の静謐のうちに自己を省る楽しい心が蘇っていたのではないかと思はれる。 |
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× × |
| いうまでもなく天心のごとき稀に見る天才はつねに現代生活より少くも半世紀も先行してい |
| た思想や行動は単なる理想主義者のごとく誤解され、その秀れた高い思想や行動は常人には到 |
| 底容れられずいつも嫌忌と排斥の不遇に咽んだのである。祖国を念い祖国に認められず、その |
| 欝積懊悩は天心自ら何事の執者も一切離れ大自然の裡に所謂独醒の境を見い出すことにもなつ |
| た。五浦の海荘や赤倉の山荘の大きな自然をいかに親しみ、独り黙々として古賢の学を読み、 |
| 李白や杜甫或は陶淵や蘇東坡が官を去つて節を守り独り酒を呑み詩作に楽しみ耽り悠々自適の |
| 境涯を迥に懐しい晩年の天心自らの心境に照して永劫無心の境地を見い出したのであつたと見 |
| 倣される。 |
| 天心の山と海の心の営みは即ち仁者山を楽しみ智者水を楽しむの境にも通ずるものがある。 |
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| 天心の晩年数年間はボストンより帰朝する、その半年は五甫と赤倉の海と山に溶けこんだ生 |
| 活を楽んだ。それだけにいつしか天心は社会的に見ると過去の人として世人からどうやら忘れ |
| がちの存在であつたようであるが、さて忽然として天心が永眠された一報が知られるや、世人 |
| の驚愕はいうまでもなく天心の偉大なる数々の業蹟や、また文化的世界人として派手な活躍振 |
| りを想起され,まことに希代な偉人として世を挙げて哀惜痛嘆して故人の美徳を今更のごとく讃 |
| えるのであつた。忘れられた天心がその死により恰も生々と蘇つた天心の偉大なる息吹すら感 |
| ずるのである。 |
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| かかるうちに盛大なる天心の葬儀もおごそかに済され間もなく、続いて各所に天心の追悼会 |
| が催された。十月二十日には有名なガナード夫人の主催でボストン市にて仏式の追悼会が営ま |
| れ、ボストンミユジヤムの館長始め幾多の紳士淑女の出席と日米交換教授として、ハヴアード |
| 大学教授の姉崎正治博士が霊前に法華経無量寿品を読誦して故人の冥福を祈つた。 |
| 同じく十一月十五日には東京美術学校に於て学界と美術界その他朝野の名士三百余名出席、 |
| 法隆寺貫長佐伯定胤大僧正により、おごそかに供養の経文読誦あり続いて天心の上司であつた |
| 浜尾新、九鬼隆一の両男爵が縷々数千言にわたる心をこめた追悼文には故人を憶う剴々切なる |
| 感慨を披歴された。列席者一同ひしひしと哀惜の念に打たれるのであつた。このときには大観 |
| は門下生を代表して追悼文を誦んでいる。 |
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| この追悼会が終了され、直ちに近くの精養軒にて有士の晩餐会が催された。その席上、三上 |
| 参次博士が天心を富士山に例へ、あの壮麗なる秀峰に聳える富士山にして、あの宝永の瘤がく |
| つていることは世にも稀なる天才天心の長所と短所を見るようであると述べれば、すかさず哲 |
| 人三宅雪嶺博士は富士山にして宝永山の瘤がついてこそ美と婢の併立した風情こそ一層美しい |
| のであり、天心の長所に短所があつてこそ始めてその風格が高められ、人間味が美化された含 |
| 蓄があるのでないかと、歴史家と哲学者の天心に対する相違論が今なお面白く有名な語草とし |
| て伝えられている。 |
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| 世上よくいわれている常陸の五浦は日本美術院の発生の地であり、越後の赤倉は終了の地の |
| ごとく見做されていることは事実上たしかにそれに相違ないが、それは天心の終焉地として慥 |
| に前期美術院は天心の死とともにおのづから消滅したのである。 |
| 天心は生前門弟の大観、観山を赤倉山荘に誘い大きな囲櫨裡を囲み酒を楽しみながら、話上 |
| 手な天心の東西の旅行談や古今の高邁な芸談に夜の更けるのもしらず、いつもながらその秀れ |
| た見識と学究的な知識にただ感激しきつているとき、ふと話を中止して何を思つたか天心は大 |
| 観と観山の二人の顔を凝乎と見つめながら、静かに横山君下村君と、ことさら姓を呼びながら |
| 思い出したように実は俺はこの一両年前からどうも健康の具合が勝れず、今までのように俺は |
| 正面切つて活動することも困難に感じている。『それで俺の生命もそう永くないと思う、俺の |
| お願いしたいことは、両君が仲よく俺が死んだら両君が心からの盟友として春草君や武山君そ |
| の他の諸君が心をあわせて日本美術院を立派に復興して貰いたいことだ。それから今一つの相 |
| 談はこの妙高山麓の雄大と変化に富んだ風致は、一寸他に見ない、日本美術院をここに移動し |
| ようではないか』と、その熱意をこめた天心の眸には生々として希望と覇気に燃え病人らしい |
| 陰影はすこしもなかつた。 |
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× × |
| 天心の第一問題について大観と観山は 常時多少反目していた間柄とて大いに反省するところ |
| があつたと思うが第二の問題の妙高山麓に日本美術院を移動したい との天心の思い切つた希望 |
| には心窮に驚いたのであつた。大観と観山は黙々として天心の異常な熱意と実行力に燃えた言 |
| 葉に対して一言の返答もしなかつた。それは迂潤に結構ですとか愉快なことです とか、お世辞 |
| にでも些少の賛意を表するようなことをいうと直ちに実行にうつる 天心の性格をよく知悉して |
| いたからである。このたくましき自信と、この威圧にひとしい天心の気焔に怖れを抱き、いつ |
| しか酒の興も醒め両人の寝室に戻りとくと相談の上、未だ天心の起床せぬ早朝天 心夫人に急用 |
| が出来まして帰京することになりましたから、先生へどうぞよろしくと逃げるように 別れを告 |
| げて帰つたのであつた。それはいうまでもなくこんな山の中で、しかも何一つ刺戟もない不便 |
| なところへ美術院を移動するなぞと、とんでもないと思つたのである。その翌年、 飛田周山の |
| 尽力にていくらか東京に近い常陸の五浦に天心の海荘が造られ大観の郷里水戸から、ほど近く |
| もあり天心の再度の意志を尊重しつつ、五浦に日本美術院の本拠を移し研究所も 併置されたの |
| であつた。天心は赤倉に山荘構えた当初から、既に日本美術院の移動を考慮してその復興精神 |
| に燃えていたのである。 |
| それから、どうして、この両人に今更に、あらためて仲よくして院の復興を希 望したかとい |
| うと、いつも天心の膝下にいながら、大観と春草は盟友であり観山 と武山が契友であったこの |
| 二組の対立か、 つねによく知つていたにもかかわらずいつも知らぬふりしていたのである。そ |
| の原因は天心が当時観山の温和な性質と極度に秀れた技術が天心自らのアイデアを表現する に |
| 唯一の選手としていつも天心よりの特に熱情的な厚遇を享け、その側近者としていつも親愛を |
| うけていたことが起因している。然し大観と春草はいつ も観山に比して冷遇されているような |
| ひがみはたえずもつていたようである。春草はこんなことをいつている。『自分は 先生には好 |
| まれないことはよく知つている然し情にも智にもあれだけ秀れたあれだけの偉人は二百年、三 |
| 百を経てもこの 世に出現されるとは思わない、私はたまたま時を同じくしてこの世に生れ、縁 |
| あって師と迎え、弟子となつて朝夕接することは、人世無限の幸福であると信じて いる、いか |
| にして先生にお気に召さぬとても私は終始一貫先生から離れない』そうして極端な貧乏と餓死 |
| にひとしい五浦の生活を家族と共にした。然し大観も春 草と同じ心境で、ひどくひがみながら |
| も天心の偉さに、たえず、つつましく心か ら尊敬を捧げていたのである。 |
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× × |
| 天心が亡くなる早々追悼行作のうちに 再興美術院を提唱したのは、まず大観であつた。それ |
| は英霊を見送つたのちの同志の席上にて、吾々は今後先生の英霊を 慰め更にその遺志を達成す |
| べき唯一の事業は、いうまでもなく日本美術院の再興を速に実現することは門下生として、わ |
| れわれ一同の重大なる当然の責任であり 任務であると襟を正しくして発議したのであった。 |
| 大観並に観山は天心を主宰としての最 初の日本美術院創立の頃とは社会的情勢も異なり、こ |
| の二人は今や画人として既に新進一流の名声もあり、この二人が主 となり、まず下谷区谷中三 |
| 崎南町の前東京美術学校々長久保田鼎の邸跡の空地三百五十坪を大正二年十二月に大観、観山 |
| の連帯共有の名儀をもつて買収した、まづこの地に二階建の本館や管理人宅共 約二百坪に近い |
| ものを建てた。これ即ち今日の再興日本美術院の本拠である。更に大正九年九月二日天心の命 |
| 日を期し庭の一角に建立勧請した、天心霊社の祭と 共に開院式を挙げ爰に始めて再興日本美術 |
| 院第一回展覧会を三越に開催されて以来四十五年を閲して今日に及んでいる。 |
| その間大観は一貫した精神により自己の芸術並に院の主宰者に等しき貴任を以 てその徹底し |
| た努力と誠意によつて今日の日本美術院の厳然たる基礎を築いた。天心の再現かのごとき大観 |
| も遂に九十一才の高齢を迎え昭和三十三年二月二十六日病歿した。大観の遺志により財団法人 |
| として将来を期すべく構成された。これは全く天心に捧げる永久の記念として最大 な感謝であ |
| るとも見做れる。 |
| 日本美術院存立の偉業は全く大観、観山この二人の秀れた毅前たる意志により 今日の盛況を |
| 見るに至つたが観山は堂々たる格調を持った大家として生前華々しい画生活をされたが残念な |
| がら既に二十数年前に他界され天寿を得られた大観のように日本美術界を代表する唯一の名声 |
| を得られなかつたのは、吾々院に籍を置くものにとつては寔に痛恨に堪えない。 |
| (未完) |