天心と赤倉 X |
天心の永い海外生活の関係で、その頃、岡倉一家の居住する邸宅は東京市内にはなかつた、た |
だ田端の一雄夫妻の住む小宅あるのみであつた。天心亡き後の未亡人元子は橋本家のみに永滞在 |
もできないので、一雄宅やあるいは天心の妹てふ子の嫁ぐ彫金家山田鬼斉宅を宿としていたがお |
ちつかず、やはり五浦に当分居住していづれは東京に住宅をもとめるつもりで五浦へ帰つた。 |
そのころ一雄は、きまつた職業を持つていなかつたので気分の趣くままに、妻の孝子や古志郎 |
を伴れて五浦また赤倉へたびたび往復した。赤倉には天心の遺徳を偲び岡倉屋と名乗つて旅館を |
営んでいた涌井千代松という者がいて、一雄夫妻のため生活上の凡ゆる世話をよくつとめてくれ |
るのでまことに便利であった。 |
× × × |
天心が亡くなつた翌年初夏のころ、孝子と古志郎を伴れて山荘に行った、天心が亡くなつた後 |
に、始めて山荘入りとて感慨ひとしほであつた、とりわけ天心の病室にされていた黴臭いがらん |
とした十畳の間に入り、おのづから瞼の熱さを覚えた。また浴槽に入り滾々と流れおちるいで湯 |
の音を心しづかに手足を伸ばし聞いている自分の湯浴みの姿はどうやら湯の好きな天心そのまま |
の姿であり、血のつながった自分の肉体をすき透るいで湯の中に見つめながら自ら驚き懐しさと |
、また父天心に対するいろんな憶い出が冥想となり幻想となり次から次と限りないものが夢のよ |
うにわが脳裡を擦過するのである。その頃妙高山の残雪も溶け、山麓一帯にうつぎの紅色の花や |
、山つつじの樺色の花が咲き乱れ、そこにここに山時鳥や、廓公または老鶯が頻り啼き囀る山の |
行楽をしみじみと感じた。近くの山丘から採つて来てくれた、わらび、ぜんまい、山筍、山う |
ど、なぞの山菜を親切な千代松は持つて来てくれるし、また近くの同業の旅館香獄楼の雪納屋か |
ら日本海で捕れたたい、ひらめ、海老その他の鮮魚を世話して貰えるの |
で不便な山麓生活にいささかも不自由をしなかつた、それから天心と懇意であつたというよりも |
天心に岩魚釣の秘伝を教えた岩魚釣の村の名人につれられ近くの渓河へもたびたび釣に出かけ、 |
岩魚の味覚にひどく満悦した。あるとき、性来、気短かで、いたづらな一雄は村人から石灰一俵 |
買込んで近くのその渓河にその石灰をなげ込んだ。それは魚族を悉く毒揉みする試みであつたが |
間もなく尺余の岩魚やその他の魚族が無数に白い腹を見せて浮き沈みつつ下に流れるのを見てこ |
の上なく痛快に思うのであつた。ある日村の駐在の巡査が訪ね来り、「県の淡水魚の保護が今尤 |
も厳しい折柄、しかも渓河に毒流しをしたものがあるようですが、お宅で存じませんか」と訊ね |
叱られたこともあり、また猟期前にきじや山鳥を数羽猟獲して、その発見を怖れ急に暫くの間 |
高田市や直江津方面に身を隠くしたこともあつた。それからある時妙高山の北側の山崎神奈山に |
未だ残雪の深い五月の初旬、山腹の岩窟中に棲む熊を見つけ村々の一群の猟師達が村田銃を手に |
して熊を包囲するめづらしい光景を見て山の行事やできごとに遊び好きな一雄はこよなき興味を |
持つた。 |
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遺族としての岡倉一家は、たまたまこの山荘を訪ねて天心の生前を偲び憶いを深くしていた |
が、その期間はそう永く続かなかつた。生前天心の購入した広大な山丘の地域も天心の歿後直ち |
に無収入となった岡倉一家剰え相続人としての一雄の無職と放浪の生活者には、ただ徒らに捨値 |
同様に他人に手渡するほかなんのすべもなかつた。永い間この大自然の山麓に、はるけく心身を |
憩うたこの山荘を終焉の地とした天心自らは本懐であつたらうけれども既に人手に渡さねばなら |
なくなつた運命とは言え、遺族としての岡倉一家にとりては、まことに悲しいことであつた。過 |
ぎし日を憶えば、ただ悲喜こもごものいろんな感慨と追憶が余りにも錯雑であった。 |
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生前天心が心から好んだ赤倉山荘も当時としては、あまりにも不便でもあり、また遠隔の地と |
しては敬遠して毎夏山荘を使用することがきわめてすくなく、そのまま放置されてあつた。ある |
ときは民芸方面の権威柳宗悦夫妻が家族を伴れて一と夏をすごしたこともあれば、一雄自ら天心 |
の敬友幸田露伴を伴い一緒に初夏から初秋にかけ妙高々原の雄大なる自然の玄妙に興趣を覚え永 |
滞在したこともあれば、一雄の俳句の師匠であつた碧梧桐を招いたこともあつた。更に尾崎紅葉 |
が赤倉の香獄楼に滞在したのも天心と深い関係があった。 |
またある夏は漫画家の岡本一平一派の漫画家連が一と夏天心荘を借りた、ある時ふとした思い |
つきで獅子舞の余興を漫画風にしつらい興に乗じて赤倉温泉街を練り廻り軒ごとにおもしろく踊 |
り舞つた末に花銭を貰つた、それは花銭をことさらに要求したのではなかろうが、花銭を呉れる |
から貰つたことは事実で、それが避暑客や温泉街の人達に、いやしくも譬え漫画家でも、やはり |
画家ではないかとひどく非難され問題となつたことがいまなお話題にのこつている。 |
それから橋本雅邦の末息基が仏蘭西の哲学者ピツシヤアール夫妻を案内して妙高山麓の大自然 |
をこよなく愛し一と夏を楽しく暮した。毎朝向うの青い山脈を前にして祈りの瞑目した記憶を今 |
なお懐しいと昨今基氏が小生宅を訪問されたときの思いで話である。 |
また入沢達吉博士が赤倉の雄大なる風光を慕つて二夏も家族一同と独逸より帰朝した青年医師 |
諸君を伴れて天心荘に滞在したことが奇縁となり、その翌年赤倉に入沢博士の別荘が建てられ晩 |
年まで毎夏妙高山麓に滞杖されたことは彼地のものは誰れでも知悉している。その後風雪のはげ |
しい山麓の無人の山荘は、もとより高田市料亭の古材で再建したものだけに年毎に破損が大きく |
、経済的に余力の乏しい岡倉遺族では年ごとに山荘の手人や修繕費の嵩むのみで、遂に放擲する |
よりほかなかつた。 |
二千坪の敷地に建られた思出の深い山荘も遂に手放すことになつた。この二千坪の土地のうち |
五百坪だけはどうして分割されたのか東京の弁護士の小池五郎という人に譲られ、千五百坪の敷 |
地と天心荘は日本郵船会社を退職する某重役に買収された。この某氏は晩年を余戯の絵筆を楽し |
むべく好適の場所として冬期を除き新緑の頃から妙高山頂に新雪を見る頃まで絵筆に親しむ風流 |
な独身の老人であつた。その当時は田舎の料理屋の古材木で建てた山荘であつたが敷台の広い、 |
いかめしい玄関があり建坪総数八〇余坪もあつたものが、この素人画人の居住して以来四五年も |
経つた頃には台風や激しい風雪の被害をうけて年毎に破損して遂に十畳間のある二階の上下二間 |
と、湯殿と便所だけに自然縮少された、見るに見かねる廃屋にひとしいぼろ屋と化したのである |
。この老人もいつしか亡くなつて数年間は住む人もなく、全く風雨にさらされた穢苦しい廃屋に |
なつた。誰がいうたのか、この廃屋には孤狸が棲む怪物屋敷として全然村人すら近づかなくなつ |
た。 |
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この怪物屋敷のすぐ横に登る広い見事な新道がそのころ拓かれた、それはかつて天心が永く住 |
んでいたこの廃屋より数丁登る小高い中蝮に久邇宮別邸が新築されたため避暑期間中は朝野の名 |
士の伺候するものが多かつた。その頃天心の名声を慕い、その意外にも穢苦しい廃屋を訪ねる人 |
達も少くなかつた。 |
すぐ近くの久邇宮始め池の平に毎夏祁暑されてた伏見宮や梨本宮その他の高貴な人達までの間 |
にも天心は有名人であつただけに天心の遺跡を訪ねられたのは一再ではなかった。大正七八年か |
ら昭和の始めにかけてこの妙高山麓の赤倉温泉は雄大なる天下の景勝地として頓みに知られるよ |
うになつた、そして有名人として侯爵細川護立、侍医入沢達吉、画人松林桂月その他財界人とし |
て三井三菱などの山荘が建てられたのも既にその十数年以前にこの妙高山麓の雄大にして比類な |
き絶景として文筆に託し自ら山荘に居住した天心の禿れたケイ眼であつた。今日唯一の避暑地と |
して知られている軽井沢の発展は元外人先駆者の開拓した功績であるようにこの原始的な温泉村 |
にひとしい赤倉の開発に対する天心の功績も大きい。 |
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その頃より毎夏この赤倉に避暑していた東京銀座の資生堂主人、福原信三がいつも夕食技の散 |
歩にはもの陀びた感じであるが赤倉随一の天心山荘前に立つて、気宇雄大なる光景を好んだ、然 |
しこの高台の絶好の景路地に見るも哀れなほど荒れすさんだ偉大な天才天心のかつて住んだとい |
うこの山荘を見る度に、どうやら暗たんとした欝積した気特になると同時にどうやらむかむかし |
た不快な気持ちになるのである。それは今日の日本美術院が日本の美術界に大きな覇権を握り芸 |
術至上主義を奉じて日本画の院展派としてまづ大観、靱彦、古径、青邨その他多士斉々のあつま |
るその院展の唯一の創立者である天心の終焉のこの家と、この敷地が繁茂した雑草に囲まれ、誰 |
ひとり顧るものもなく怪物屋敷として放擲されていることはまことに遺憾である。日本画壇を代 |
表する院展の人達はこの状態をなんと見るか、これは天心を恥かしめていることはいうまでもな |
く院そのものの恥辱となつているではないかと、ひとり慨嘆痛憤に燃えるのであつた。 |
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幸い大観と特に親懇な聞柄の細川護立が避暑のため滞赤中このことを知り早速面接を乞い、こ |
の哀れにも見苦しくなつてる天心荘の状態について相談するのであつた。そのとき遇然にも天心 |
の山荘と敷地が売りに出ていることも告げ、若し院側で敷地を買上げて貰えば、この際見苦しか |
らざる天心荘としてふさわしい故人を偲ぶ山荘を新築してその記念として私が院へ寄附してもよ |
ろしいと勇気と熱意ある資生堂主人の申出であった。 |
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細川侯が帰京するや直ちに池の端茅町の大観邸を訪ね、赤倉の天心荘の荒れはてた話を詳しく |
語り更に資生堂主人の美しい義侠的な申出をもつけ加へた。大観はひどく感動して即座に賛成す |
るばかりでなく欣然として「それは大変結構な話であります実は丁度昨今幸いにして五浦の天心 |
先生の海荘は財団法人として永久に保管すべく、岡倉家の御諒解を得て、岡倉天心遺跡顕彰会を |
日本美術院同人一同により結成する計画がありますので、この際先生の終焉地の赤倉山荘の遺跡 |
も一緒に財団法人とすることはまことに意義深いことです、それで幸いにして貴台にもその会長 |
になつて戴きたいのです。無論、責任者として私は理事長になります」院と関係の深い細川侯に |
は異論がなく、その際先生の山荘の敷地はとりあへず私が買つてその財団法人へ寄附いたしましようとあつさりと大観より細川へ回答するのであつた。その後間もなく院の同人会議が |
谷中の院で開催され大観の詳しい説明と希望をそのままうけ容れ、とりあへず財団法人としての |
書類を認め文部省に申請する手続をすることに決定した。そこで再び大観より資生堂主人より申 |
出の山荘新築寄附の件と丁度第二次世界戦争直前の風雲荒き頃とて既に建築木材などの統制のた |
め、この際新しき山荘を建てるか否やあるいは今日風雨雪害に荒れはてた見苦しい山荘をある程 |
度の修繕位にした方がよいか、ともかく先生の作られた山荘であつて見れば譬へ荒れはてた山荘 |
としても先生の面影の入つた家として尊重することも一応考えねばならぬ、それについては赤倉 |
に関係の深い郷倉が尤もよく現在の怪物屋敷と称する先生の山荘を知悉している筈であるからと |
の大観の訊問に対して「現在の天心荘は全く天心先生の名誉にふさわしからぬ怪物屋敷そのまま |
であることと先生のアイデアの少しでも入いつた建物なれば譬へ荒れはてた見苦しい家でも尊重 |
してその面影をのこさねばならぬことはいうまでもありませんが実は先生の御意図で作られたの |
は高田城の払い下げの松の厚い古材の門扉をもつて湯槽にされたということを聞いていますのみ |
で、その浴槽以外の建物は昔の高田市の富貴楼という料亭の古材木をもつて、そのまま建てられ |
たに等しいものであります。ただ時節柄天心荘をこわして使用できる木材があつたら使用した方 |
がいいように思います」と私が答え更に「ともかく責任のあることですから院から一応現状視察 |
に行つた方がよいかと存じます」とつけ加えた。その席上にて大観よりの指名にて、古径、勝 |
観、私の三人が間もなく怪物屋敷と称する天心荘を視察した。 |
現状を見た三人の意見はいうまでもなく同じ結論であつた。それは同人会議で私の返答したご |
とくで全く先生の名誉にならぬ山荘をこわして若し使用できる木材があれば、それを使用すると |
いうことに一決した意見を赤倉より帰り直ちに大観に報告した。 |
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天心荘旧跡の礎石を記念のためにそのままのこして約三間後方に退つたところに旧山荘の約三 |
分の一位に縮少された大体殆ど新築同様の瀟洒な茅葺の山荘が建てられた。この山荘の棟木と縁 |
側の松の古材は、そのまま使用された。この建物約三十坪は、いうまでもなく資生堂主人の心か |
らの寄贈によるものであつた。 |