天心と赤倉 Y |
天心荘の再建一年前に天心遺蹟顕彰会の設立を見た。赤倉遺蹟の土地は大観自ら買取つて直ち |
に顕彰会に寄贈された。その直前天心の女婿米山辰夫が顕彰会の成立を聞き、五浦の天心荘と、 |
その宅地の大部分をこれを挙げて顕彰会に寄附の申出あり、これを基本財産に加え、赤倉と五浦 |
の二つの遺蹟が共に永久保存されることになつた。そうして遺蹟顕彰会の財団法人として正式の |
認可を得たのは昭和十七年一月七日であつた。 |
細川護立が推され名誉会長となり、大観は理事長、靭彦、古径、青邨、田中、勝観の理事、岳 |
陵、寛方と私が監事に選ばれた。この年の雪溶け頃より天心荘の建築にとりかかり同時に、造園 |
の権威田村剛博士により造園の設計があり、京都より有名な庭師を招き数カ月にして、よく自然 |
の還境を反映する素朴で、しかも雛びた庭園が完了された。かつての化物屋敷もすつかり見違え |
るほど瀟洒で明るい山荘が再建された。千五百余坪の起伏のある敷地に山径をあしらい、池の周 |
辺の小径も風致を添え、山の楓や白樺林を配置した、山荘の庭はいかにも風情ゆかしく、殺風景 |
な赤倉温泉街の唯一の名所が出来て、赤倉温泉街の人達はじめ多くの湯治客にも喜ばれた。この |
新しき天心荘の竣工式を挙げたのは同年七月二日であつた。この式に参加したのは平櫛田中始め |
約二十余名の院同人と関係者や村の有志も多数参列され、盛大に挙行された。 |
この新しき天心荘山庭には三個の宿縁の深い巨きな石碑が黙々と今日なお異彩を放つている。 |
まず順序として書かねばならない、大正三年九月二日の日附で建立されることになつた。天心終 |
焉地として建碑された石碑はー巨石というものではないが、これは天心の逝くなつた翌年一周忌 |
を済した、大観、観山、武山、寺内銀次郎(天心時代より永く日本美術院に関係の深い表具師) |
この四人が発起人として、一周忌の口付で建てられたものである。 |
石碑の表には天心岡倉先生終焉之地と刻まれ、裏には発起人として四人の署名と建立の年月日 |
が彫られてある。この碑の自然石は天心荘の附近の渓川の流れの水底から見出されたもので、山 |
石としてキメのこまかい石肌の滑かな、恰も達磨坐像のごとき形態で、今は一昨年新しく建設さ |
れた、天心像を安置される、六角堂を右にみる、その下に移されている。この石碑は天心終焉之 |
地を伝える最初の石碑として記録的な存在で、しかも天心直門の限られた弟子達によつて建立さ |
れた、まことに意義の深いものである。 |
この碑の建立について令息一雄夫人たか子の親父水科啓二郎宛にはるばる越後の高田市まで大 |
観の手紙をもつた使者を立てた。いかにも大観らしい恩義の固い熱情と、天心を敬慕していたか |
が、当時の大観の尺牘により淳情なる大観が、ほうふつとしいる。また当時の質素を旨とする事 |
情もよく了解される。 |
啓上 |
愈御清光奉賀候先日岡倉未亡人様より御書面にて御承知被遊候御儀と奉存候が今般赤倉山上故先 |
生の御地所内に先生の英霊を偲ぶ為に先生終焉の地を記念すべきささやかにして質素なる記念碑 |
を御建てたく存申候に付ては小生共同地にて一向不案内に候まゝ万事を御取御計い被下度願上候 |
従而小生共の希望としては自然石にして同山のものを望み度候へども万止む得ざる場合には前文 |
申上候通り極めて質素にしてささやかなもの御案じ被丁度(碑名は当方より乍失礼御送り申上 |
候)右搬出料据置料及彫刻料など何程位相懸り可申候や概算御示し被下候はば幸甚に奉存候小生 |
共は廿二三日頃迄に赤倉に参り度候それ迄に石の運搬其他彫刻等間に合い候ものに候や是又御一 |
報願上候(赤倉へ参いり候節は当日電報にて申上候)猶当日は乍御迷惑赤倉迄御同道相願度存じ |
候が如何なものに御座候や右御返事待上居候御返事拝見の上は改めて電報なり書面にて重ねて申 |
上候間それより御苦手相願度誠に唐突御迷惑に存申候得雖右折返し御一報願上候 |
彫刻すべき文字の数は表面十一字(大文字)裏面年月日ならびに十字に御座候(原文のまま |
掲載する) |
九月二日 横山大観 |
水科啓次郎殿 |
この最後の文面の注意書とも覚ゆる石碑の裏面に年月日ならびに十字に御座候を察するところ |
多分、日本美術院有志之建立と彫る意図であつたらしいが、前後考慮の結果この極めて質素な石 |
碑を建てながら日本美術院有志之建立では拙いという見解から卒直に天心の側近者として関係の |
もつとも深いこの四人の名をつらねて彫つたものらしい。 |
ともかく、この四人の一行が、大正三年九月廿三日建碑の所要で田口駅で水科啓次郎と会い、 |
赤倉の天心荘を訪ねた。仲秋の妙高山麓は、すがすがしく山気が冷え、起伏の多い高原には光り |
かがやく白い芒の穂波が、秋風にしづかに靡いている、叢に無数の鳴虫が、すだく声に秋がいよ |
いよふけてゆく。仰げば薄群青につつまれた妙高山の山腹に高空からしづかに動く白い雲が、う |
す墨色のほんのりした淡い影をおとしてゆく、わびしい山の景色を眺めつつ今や先生の亡き天心 |
荘のさびしい荒寥たる庭に立つて、新しく建てられた石碑の前につつましく合掌するこの四人の |
胸中には、先生のありし日の過ぎ去つた憶い出に、うたゝ感無量に堪えないものがあつたに相違 |
ない。 |
それから、いつしか州年も過ぎ昭和十六年の初夏の頃、都会の主なる新聞が近く赤倉に天心山 |
荘が再建されることに決定して、五浦の天心海荘と共に、遺蹟顕彰会として財団法人になる旨、 |
大きな文化ニュースとして伝えられた。ちようどそのころ第二次世界戦争の直前として、天心の |
唱えた「亜細亜は一つなり」の思想がわが軍部方面の御都合主義の宣伝に利用されたころとて、 |
天心は急に偉人あつかいにされ、どうやら天心ブームの時代が確認され反響の多いころであつ |
た。その頃高田市の水科の親戚にあたる同市の旧家で小川屋の羊羹として、古くから知られた老 |
舗の主人小川平四郎の山荘が新赤倉の私の画室のすぐ附近にあつた。そうしてある朝一寸相談願 |
いたいからとて訪ねて来られた。それは今度遺蹟顕彰会の趣旨により赤倉の天心荘は、やがて再 |
建され雑草に埋れた山庭も、いづれ私設公園のようになる旨、新聞で見まして天心のため岡倉遺 |
族並に親戚の私共まで感激に堪えませんのと、広く文化方面はいうまでもなく、一般社会的にも |
普く讃えられている今日、あの叢の中に埋れている素朴な貧弱な石碑では公園として、どこに占 |
める場所もないでしようから、ここに改めて天心公園にふさわしい、堂々たる天心終焉の地とし |
て相当の記念碑を、私の自力により建立して天心顕彰会にそのまま寄附いたしたいと思います。 |
それでその材料としての碑石や大きさ並に碑名も、すべて大観先生にお願いしたいと思いますの |
で、なんとか一度大観先生にお会いさせていただき、私共の心からなる希望をどうにか御願い申 |
上げたいと存じますが如何なものでしようか、という意向であつた。 |
いうまでもなく私はかねてより人柄のまことに美しい心の御仁であることを知つているので衷 |
心より、この美しい立派な計画に賛成すると同時に、おそらく大観先生も感激されて大変喜ば |
れ、いうまでもなく御承諾されることを私は信じます、と私はお答えした。いづれこの話につい |
て帰京しましたら、まず先生をお訪ねして、いづれ先生から何日頃お会いしましよう、というこ |
とになつたら、すぐ打電いたしましようという約束をして別れた。帰京匈々大観邸をお訪ねして |
小川さんの御依嘱の件と人柄の立派な御仁であることまでお伝えしておいた。意外の話に案のご |
とく大観先生はひどく感激されて喜ばれた、碑名の書も快諾され、碑の大きさの寸法や碑石の材 |
料は軽井沢方面より沓掛方面に産出する自然石の表面に石皮のついた巨きな石材にしてほしいと |
いう希望であつた。いづれ碑名の書は出来たらお知らせするとて大変な御機嫌であつた。 |
翌年一月春季の、院展試作展が開催されて間もない頃であつた、大観先生から石碑の文字が出 |
来た旨、電話があつたので小川さんへ打電しますから一度お会いの上、直接先生よりお渡し願う |
ことにした。その翌朝、小川さんと院展の事務所で大観先生に私が紹介した、先生も小川さんも |
至極満悦で、先生から今夜一席お招きしたいと申されていたが小川さんが遠慮されたのか、また |
何かの都合であつたのか、ともかく丈余に近い石碑面の表裏に刻まれる、大観流のおほらかな、 |
格調の高い太い書風で、墨痕鮮かに紙背に徹した、麻紙の二軸を持つて、欣んで帰られたことを |
覚えている。 |
右枠表面=天心岡倉先生終焉之地 |
裏面=昭和拾七年一月七日 |
岡倉点心遺蹟顕彰会 |
前後するがこの石碑の概略の寸法を大観先生に報告することになつていた。この碑石の文字が |
末だ出来ていない、拾六年の紅葉季の拾月、私は山居していた。ある日小川さんが訪ねられ、石 |
碑の石材を索すべく、五里ばかり先の新井市の石屋町へ見にゆきたいからと、誘われた。秋晴れ |
の蒼空一碧の澄んだ好日で、山麓の紅葉は山芝までも色づき、美しい金色にかがやく高原をドラ |
イブするのも爽快であつた。 |
新井の石屋町には大きな石屋が幾軒もあつた、とある石屋の一軒で偶然にも軽井沢附近から運 |
ばれた石皮のあるいかにも石碑に適したものを見つけて共に喜んで帰つた。この石碑の除幕式 |
は、天心荘の開荘式の少し前に挙行された。この大きな石碑は一昨年建設された、六角堂と並立 |
して、庭園のやや小高い丘陵に建てられた。この丘陵の入口の右に最初碑石が移動され更にその |
すぐ附近に細川護立の認め彫られた巨きな自然石を横に据置きその中央の面に「亜細亜は一つな |
り」の天心の理想の名句が刻まれこの新旧三個の記念碑は天心荘園の名物とも見做される。それ |
から数歩行つた出口に道標に似た、やや小さい角の小碑は開荘式に列席者の一人、美術史学の脇 |
本楽之軒の筆蹟であることを知つている人も少ないと思う。 |
この年の秋も名残の紅葉もすつかり散って蓼々たる灰色の山麓に、すでに二三回も新雪を見て |
山を引挙げて帰京した。未だ武蔵野の面影ののこつている私の家の近附の櫟や楢の林は漸く黄ば |
み落葉にまだ少し早かつた。その頃、たしか故橋本静水の紹介であつたかと思うが、天心の令息 |
一雄が拙宅を訪ねられた。昨夜新雪の赤倉から帰つたことを告げたら、大変懐しく思われ赤倉の |
いろんな話を聞かれ、すっかり、たんのうされたらしく、感慨に堪えない表情で、三十年前の古 |
い赤倉の思い出話をされた。 |
そうして『時に天心荘も再建され既に顕彰会も成立を見、また小川の建てた大石碑等にも一方な |
らぬ御尽力下さいまして有難うございました、あの七月二日開荘式にも招待状をもらいましたが |
生憎病臥中にて列席できませんでまことに残念でした、小川からもきてもらいたい手紙がきてい |
ましたが』と、ほんとに惜しいことをしたという気持ちが表示されていた。いかにも病後らしい |
病弱な容姿であつた。発音が明瞭を欠き、ろれつがまわらず、歩行も困難らしく、おそらく軽い |
脳溢血か中風でないかと遂にお気の毒で聞けなかつた。 |
× × |
その時の用件は、なんでも長い間病床にいたので、いささか内政の不如意のため止む得ず父の |
書いた、釣道具の小絵巻と原稿四百枚(何んの原稿であったか聞かなかつたのは、未だに残念に |
思つている)それに扇子の表裏二面に特意な菜の花の小唄を書いたもの、この三点の遺作を誰か |
に保存していただく方を御紹介願いたいとの依頼であつた。そこで保存といつても天心先生と全 |
然無関係の方ではなんの意味もないのですから、私でよければいただきます、御遠慮なく何程差 |
上げてよろしきやというと、咄々と鈍重な口調で、実は美術院の方に保存してもらえば一層好都 |
合です、しかし画人から金をもらうのは苦るしいですからお言葉に甘えて、二尺横巾位に何か描 |
いていただけば本望です。実は貴方の作品を希望していられる知人がありますので、そうした |
お願いが出来れば助かりますと両手を合せられるのであつた。 |
この三点のうち、釣道具絵巻と小唄の扇子はその前年の発行の一雄著書父天心の巻頭にコロタ |
イプで掲載されていたもので一見記憶にある天心遺作であつた。原稿四百枚は少々勿体ないの |
と、個人の保存としても困ると思い、これは岡倉家に保存すべきものであると考慮し遠慮した。 |
その時一雄の懐から一通の紙片を示された。それは、天心が支那の奥地の雲崗や竜門方面の旅行 |
先から一雄に宛てたなかなか興味深い生々しい苦心談や感想が、こまごまと支那色封簡紙に綴ら |
れている一通の天心より一雄に宛た手帛であつた。それなら、これを差上げましようと手渡され |
たものが天心の奥支那の旅行を語る唯一の天心書簡中の記録的な逸品であつた。 |
その頃、一雛は二、三度続けて見えたが、間もなく滞二沃世界戦争が苛烈をきわめ、いつしか |
見えなくなつたが、それから間もなく亡くなつたらしい。容姿はやはり天心や舎弟由三郎によく |
似ていたが、いかにも病後の故か世帯やつれのした零落感が惨めに思つた。その頃は既に六十才 |
に近い年令であつたかと思うが随分老人のような感じをうけた。 |
因みにこの釣道具絵巻は五浦時代に外国の釣道具を参考にして天心の考案による自筆の絵で釣 |
道具を五浦の大工に作らせた先生の設計図である。これはいうまでもなく天心愛用の釣道具がの |
こつているのでその対照として得難き代表的なものである。これは大観の亡くなる二年前大観の |
薦めにより天心記念館のある水戸大学へ寄附することにした。 |