天心と赤倉 Z |
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赤倉に天心荘が再建されて一般に公開されることになり、地元の温泉組合はいうまでもなく、 |
名杳山村七ケ村人までがひどく喜んだ。さらに当時都市の大新聞なぞにも、天下の景勝地として |
赤倉の天心荘が公開されるという、文化ニュースが紙面を賑かにしたため天心荘は世上有名な存 |
在となった。土曜、日曜なぞは雑踏するほどであった。 |
その前、この天心荘用の什器としてそこらの店舗でいつでも求められるものを使用することは |
どうも面白くない。せめて煎茶々碗と抹茶々碗に菓子器ぐらいは院の同志が本窯の陶器に何か描 |
いたものを使つた方が風情があつていいということになり、院の主幹斉藤隆三博士の意向で千葉 |
県我孫子湖畔の河村晴山の窯を訪ね、勝観、土牛、千靭と彫刻の新海竹蔵の四人、終日いろんな |
陶器に思いおもいの構想で描いた。そうして描いたこの陶器の焼上りを楽しみにしていたが遂に |
その描いた陶器は、いづこへ行つたのか一点も見られなかつた。あのとき描いた焼ものが一体ど |
こへ行つたのか今でも時折思い出すことがある。天心荘ではただ陶工河村晴山作の蓼を描いた地 |
味な煎茶々碗しかなかつた。 |
そのころ、院の同人として、隆三、三良、竹蔵、大塚巧芸社社長大塚稔その他の院関係の人達 |
や院友研究生諸君もしばしば滞在して、妙高山麓に限りない画材を求めた。そのころ天心荘の船 |
底天井の客間の床間にはいつも観山の描いた天心先生像の画稿の表装されたものがかけてあつ |
た。そうして晴山作の蓼の染付絵のある茶碗で眼下の青い山脈と雲を眺めながらいつも渋茶を |
そそつたものである。 |
そうして山荘を訪ねるごとに、備付の芳名録をみることが懐かしい楽しみの一つでもあつた。 |
意外の有名人や学者、政治家や幾多の知名な文化人の中に会いたかつたなど思う人達の名もちよ |
いちよいあつた。 |
天心荘に行くたびに、いつも天心の気持ちの反影したあのぶ厚い松の古材で造られた大きな浴 |
糟に浸つて窓ごしに見はるかす妙高山を無心のまま眺めつつ、やすらかな気もちに帰えるのであ |
る。時には天心が米山辰夫に嫁いた愛嬢高麗子に宛た手紙の文意を憶い、ひとりでに微笑するこ |
ともあつた。 |
家には玉のごとき温泉、瀑布の如く流れ、庭の前にはまた山川流れて、天下の絶勝……云々 |
と、いかにも得意のまなざしが眼の前にほうふつとして浮ぶのである。ある時、高麗子が嫁入先 |
の九州からはるばる信越国境の父天心の滞杖中の山荘を始めて訪ねたときに久々の親子の対面の |
挨拶もぬきにして、高麗子を先づ浴場へ伴れてゆき御自慢の玉のごとき温泉と窓ごしに聳える妙 |
高の容姿の変化の絶えざる神秘観を説明する天心の得意を憶われるのであつた。 |
またその頃は全く素朴で原始的なこの大自然の濶達な環境に、更始一新の意気で、日本美術院 |
をこの地に移さんとした企図も考えられ、史に米国における多年の八面六臂の活躍、欧米各国へ |
の美術巡視を始め中国、インドへの探求的旅行のこと等を憶い、当時の明治ナシヨナリズムのな |
かにアジヤ連帯の思想を見出そうとした天心の「アジヤは一つなり」のいわゆる民族解放コース |
は天心の意のままにならなかつたが、ともかく偉大な人には偉大な矛盾があるごとく、天心の一 |
生は大きな生々とした懊悩の連続であつたことを淡々と流れる天心自ら浴したこのいで湯にひと |
り浸りながら、はるけき人間天心の偉さを憶うことがたびたびあつた。 |
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それから一両年後、いよいよ第二次世界戦争がはじまり、戦争も激しく苛烈になるに従い、い |
つしか天心荘を訪ねる人も殆どなくなり、いつ行つても留守居の人が雨戸を締めきりにしてい |
た。それから間もなく東京はじめ、各都市が頻りに空襲されたために焼土化された。昭和二〇年 |
の五月初旬、わが一家も赤倉の画室に疎開した。そうして、たまたま天心荘を見廻ることを忘れ |
なかつた。留守居の大工さんがすでに出征して、おかみさんが小供たちを相手に雨戸を締めきり |
の暗い家中でひつそり暮していた。私が訪ねると美術院から留守居の手当給料が数カ月分も送つ |
てこないので困つていますから、どうか美術院の方へ御連絡願いますと硬直した顔つきで歎願す |
ることもあつた。終戦後は手続きか何かの関係で急に帰京もできないで、更に一年半余滞在して |
率い空襲をまぬかれた、東京宅へ引あげた。 |
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終戦後は、日本の将来は文化の発展以外ないといわれただけに、帰京後直ちに院展が開催され |
ることになり、その審査に出座したとき、大観並に院の幹事の隆三から、私に一寸相談があるか |
らとのことにて、院の事務室で会つた。まず大観から実は赤倉の天心荘は、今日となれば誰一人 |
院から訪ねる者もない。不必要同然でむしろ、留守居番の給料や温泉料、組合費さては雪おろし |
人夫、豪雪のため破損費なぞ、年間相当の費用が嵩むので戦前の院とは違つて院の財産としての |
預金なぞは封鎖され、固定資産税をとられ財団法人天心顕彰会の基金も今日の貨幣価値からみれ |
ば問題にならなくなつた。そこでまず赤倉の天心荘の経営は無意味であるから切り離したいと思 |
う。『それで院の関係者でもあれば、顕彰会の役員でもある君があのままもらつてくれませんか |
、そうすれば今後一切院として無駄な経費を支出しないことになつて助かると思う。それがいち |
ばんいいと思うが、君の意向はどうか、そうして他日君の現在使用している新赤倉の山荘が売れ |
た場合には譬え、わづかでも院の方へ、多少入金された方が気がすむことになると思うが、どう |
か。』という大観の思いやりの深い言葉であった。そこで私は『それは願つても得られない有難 |
いことですがいうまでもなく私の赤倉滞在は、いわゆる山荘気分で静養とか、安息を求める贅沢 |
なものでなく、赤倉行きは画室が目的で仕事をすることのみに重心をおいているのですから、天 |
心荘は天心先生の遺蹟として、記念すべき聖地にひとしきところにて、画人として画室のないと |
ころは折角の御意ですがお引受け兼ねます、どうか御諒察願いたい」と卒直にお答えすると『な |
るほど、天心荘に画室がない、これから画室をそこへ建てることは今日容易でない。それでは誰 |
か天心先生を敬慕する適当のお方があつたら、そのような仁に保存してもらうようになんとか一 |
つ君の御尽力を願いたい」と大観より篤と依嘱されることになつた。 |
その話の側面から主幹の隆三は『保存といはれても時下の価格というものがあるだろうから急 |
ぐ必要もないが、一応は赤倉温泉組合の信用ある人に相談して願います。多少は時下の価格より |
安くとも天心荘なるものに理解のある方が尤もよろしく、安いから買つておいて高くなつて売る |
という人は禁物だね』余りこんな売買問題に慣れない私は、いささか困却すると同時に、これは |
将来の院として、この際多少経費が出支しても保存した方がいいと思いますと強調してみたが、 |
それはとうとう駄目であつた。 |
しかしこのような売買問題は全く自信がないながらも、それでもあの御仁なれば文化人であり |
財界人として話をしてみようかという人が意中に二、三あつた。 |
親しい意中の御仁として、月刊俳句誌冬扇の同人として蚊道線香キングの社長紀洲蓑島町の森 |
河仙太社長がその翌年正月に上京され御年詞かたがた来訪された際にこの天心荘の話をした。そ |
れでは是非拝見の上、決定したいと思いますということであつた。 |
その頃は現在北海道行きの飛行機がなく、毎月一回キングの工場所在地である北海道旭川市へ |
紀洲から大阪に出て、青森行の急行列車でキング除虫菊工場へ出張されるので、いつも直江津駅 |
を通過されることが常例であつた。直江津から赤倉まで近い距離であることを知つていられたの |
で、それでは五月の新緑の頃拝見しましようという約束であつたが、忙しい御仁とて、その新緑 |
の好季節に見えなかつた。再び八月の滞在中にも遂にお忙しいらしく、また見えなかつた。ちよ |
うどその頃墓参りに毎夏帰郷される私の恩人であり旧友の中野義定弁護士が来泊された際に、そ |
の話をしたところ、それは是非私の舎弟眼科医の秀久に買はせますから、どうかよろしく願いた |
い。富山から帰京の際秀久を同伴しますから紀洲の話は中止としてお断り願いたいと切なるお願 |
いであつた。中野弁護士は大観、靭彦、古径、青邨の諸輩とも特に別懇の間柄であるし、それで |
はということで一応紀洲の森川社長へ諒解の手紙を送り、直ちに赤倉温泉組合長として徳望のあ |
る広島久松老に大体の価格をつけてもらつたと同時に、院の主幹へもその事情と組合の表示され |
た価格を知らせておいた。二三日して中野兄弟が来訪され、天心荘を下見された結果、よほど気 |
に入つたらしく是非お頒け願いたいとの熱意ある懇望であつた。 |
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そこで札は院の条件として先づ天心先生偉蹟保存会の意志により、今後如何なる事情があつて |
も、この天心荘と庭園を永く記念の遺蹟として保存すべきことを第一条件として申出たところ、 |
秀久氏は決して御心配なく、私は偉大なる先生の記念の天心荘をお譲り願うことは一生の光栄で |
あり、生涯天心先生の山荘守りをさせていただく精神で、永久に保存させてもらいますことを契 |
います。更に、これは全く天の賜りものであると感激に充ちた懇願であつたことを今でもよく私 |
は覚えている。 |
そこで私もよい方に、お世話してよかつたと思つた、そのような御意であれば結構です、いづ |
れ近く帰京の上、大観先生や斉藤主幹によくお話して決定することになりましよう。幸い令兄と |
も御交誼の間柄なれば先ず大丈夫ですと答えた。 |
この月の下旬第三十四回の院展開催直前の審査のため帰京した、翌日、院の別室にて大観隆三 |
の両先輩にお会いして、天心荘の件につき中野兄弟からの申出の件を伝えたところ、いうまでも |
なく賛成されることになり、直ちに天心山荘の話が成立した。そうして、天心荘の受け渡しは昭 |
和二十四年十月であつたと記憶する。 |
この話の成立直前、新潟県の文化協会からこの話をどこからか仄かに聞いたらしく、慌しく協 |
会の代表者が上京して私を訪問した。そうして天心荘は個人の所有では将来の保存上、憂慮され |
る結果になることが多いから個人に売却されることを考慮してもらいたい。価格の件は御約束さ |
れた方以上にお支払いいたしますから是非文化協会へ御譲り願いますと。これまた熱意をもつて |
懇願されるのであつた。しかし中野氏とは確約ではなく、内諾程度でもあつたので、県の文化協 |
会という公の協会から公式に申込まれた以上、私個人として黙視するわけにはいかない、その翌 |
日大観にこの件をお伝えして意見を聞いたところ、その話は公の団体として、一応はよいことに |
考えられるが、公の役人というものは、その責任ある位置を去つた時は、その後の新任の役人と |
いうものは、大体無責任極まる所置をとることが多いのであるから、それは個人としてやはり理 |
解のある中野氏を信用した方が先ず間違いないと思うから、そうしてくれ給えということで、中 |
野秀久個人の所有として今日に至つたわけである。 |
天心荘の譲り渡し話が成立すると東都の二、三の新聞にも伝えられ、地方新聞には所有者と私 |
は富山県に関係が深いだけに特に北日本新聞は大観と私並に秀久氏の写真入りで三段ぬきの社会 |
記事として掲載もすれば同じく新潟新聞も大きなニユースとしてあつかつていた。 |
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一昨年夏、天心荘宅地に白亜の立派な六角堂が新しく建設されることになつた。天心に関する |
六角堂はこれで三棟である。最初は五浦の洋々たる巌頭に建られた六角堂は、眺望の地を選んで |
天心の瞑想と安息を目的にしたような雅趣に富んだ風流なものであり、これはいうまでもなく天 |
心自らのアイデヤで造られたものであり、中国風な雅致がみられ、五浦の景観に生彩を与へてい |
る。後者の二棟はいづれも天心を記念とした銅像安置のための風韻のある六角堂で、まず芸大の |
校庭にある六角堂内には当町天心自ら制定した、教師と学生の制服を奈良朝の朝服に採り、頭に |
冠帽を裁き、身に闕掖の袍を着けし服装した天心の腰をかけている全身像である。赤倉の六角堂 |
は芸大の全身像の上半身像である。いづれもこれは天心門下生として生残る彫刻家の唯一人の |
平櫛田中翁の寄贈によることを付言しておく。 |
昭和三十四年八月二十三日天心荘境内の小高き日当りのよき場所である、前述の大きな天心碑 |
のすぐ隣地で厳粛に除幕式と落慶式が挙行された。 |
赤倉天心会の細川護立会長が欠席のため副会長の畠山一清老が会長として故岡倉一雄未亡人孝 |
子と親戚一同や妙高々原町の町長始め天心会の有志達が中心となり、おごそかに式典が催され |
た。日本美術院代表として出てもらいたいとのことで、いうまでもなく列席した。式後は東京よ |
りはるばる裏千家の小堀宗明宗匠を招き、お茶席が設けられた。斯道の識者畠山一清老のお席に |
は、床に周文の夏景山水軸がかけられ有名な古伊賀の花生や国宝の志野の水指始め天下の銘茶碗 |
や、幾多の銘器を鑑賞して、眼福と味覚の楽しい夏の一日は短く思つた。 |
因みに、この天心荘庭内の六角堂を建てる二、三年前に、院の諒解の上、賛成を得たなれば一 |
層その企図が正しく成功したのであろうが、実は院に一言の相談も了解もなく、また赤倉に滞在 |
中の院の関係者としての私にも何等の連結がないので不可解に思つていたところ、この事業のた |
めの資金を各方面に寄附金として募り、剰へ作家方面に寄贈画を依嘱しつつあるうちに、日本美 |
術院の諒解と、その系譜の作家が中心になつてくれなかつたら、この仕事の意図が到底貫徹せぬ |
ことを知り発起人達が漸く院の諒解を求めたが、院としてかかる事後承諾のような行為と更にこ |
の企図する中心人物に対して、とかく信頼がなく遂にその申出が排除された。ために私方へも幾 |
度となく院への連絡と諒解を得べく依頼にみえたがそれは私個人として如何にもしようがなかつ |
た。先づ発足の動機に不純があつたため六角堂は、どうやら完成はしたものの、その建設に際し |
て名分が不鮮明であり、識者人達より同情を失つたことは、今更ながら遺憾に思うのであるが、 |
しかしそれでも、どうやら完成をみたことは喜びに堪えない。 |
この六角堂に安置される天心像を作つた平櫛田中翁は、常に天心先生の恩諠に感じている。赤 |
倉六角堂建設発起人から直接に頼まれるままに、この田中翁はあつさりと銅像の原型を寄贈され |
たのである。この田中老すら当時院の幹部の人達からかかる問題について一応、院と相談すべき |
であつたと詰問され、禿頭に手を上げて謝したということを田中翁から私も聞かされて、二人で |
苦笑したことを覚えている。ただ院としては、どのような人達であろうとも六角堂を建てるとい |
う事柄にはわるいことでないから強いて反対も賛成もしないという、平静な意向であつたのであ |
る。 |
しかしこの妙高山麓の大きな風物を愛した、詩人であり、哲人でもあった、更らにコスモポリ |
タンの有名な理想家であり自由人としての天心の愛惜のこの地、この天心荘も数年前より所有者 |
のどのような考えか意志かは、さだかでないが、天心荘を廻る前庭と後庭の眺望絶佳の高台の庭 |
園の広範囲にわたり、今や手の込んだバリケートが見苦しく張られ、まるで交通が遮断されてい |
るために、すがしき、おほらかな天心荘の景観魅力はすでに半減して、ありし日の天心を偲ぶべ |
くもない。その点いかなる理由があつたとしても最後に東京美術倶楽部なぞの後援により新設さ |
れた、六角堂は異彩を放つ立派な存在価値として、前述の三つの石碑とともに天心荘を飾る珍重 |
なる記念の景観となつている。(未完) |
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