| 天心と赤倉 [ |
| 天心は赤倉に山荘を構える以前に、支那古代美術調査探究のため渡支した彼は六朝隋唐を通じ |
| 仏教美術伝来の由緒を検討せしとともに支那大陸の大自然の風光にひどく感動し、さらに印度巡 |
| 杖の折も仏陀の霊威不滅の幾多の仏蹟に敬虔なる跪拝をささげ、また仏陀の生地ネパールとチベ |
| ット国境に悠然と澄みわたるヒマラヤ霊峯と、その神秘の感激に浸り、爾来彼の脳底を擦過する |
| 大自然の雄大にして壮厳玄妙なる映象が終身たえず明滅するのであった。天心の東亜におけるそ |
| の業蹟を重ねて考察してみたいと思う。 |
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× × |
| 天心は大学時代から哲学教授米人フエノロサに師事した。フエノロサは学者でありながら秀れ |
| た感性の鋭い人で、未だ日本の古美術に対して日本人そのものが誠一人関心をもたぬ頃から、日 |
| 本の古建造物として古社寺はじめ仏像や障壁術、古絵巻などを閲見してその芸術的標準の高いの |
| に真に驚き、この秀れた日本的ユニックな格調の高い幾多の古美術に対して、いよいよ系列的に |
| 広く調査すると同時に、その実質的な基礎研究を重ね、主として奈良・京都を中心として多年に |
| わたり古社寺を巡り、その概要調査を分類的にまとめて文部省に提出し、文明国として自国の古 |
| 美術がいかに尊く大切なるかを世界的の見地から堂々と自説を提唱して、やがて文部省をして古 |
| 社寺保存会ならびに国宝保存会を設置させた。これは現在の文化保護委員会である。また一方に |
| は美術教育の必要欠くべからざるを説き、狩野芳涯、橋本雅邦や弟子の天心とともに官立の東京 |
| 美術学校を上野公園内に新設し、その直前、帝国博物館の設置にも多大な貢献をした。 |
| フエノロサは天心の師でもあれば、また日本美術界にとつてまことに得難き最初の一大恩人で |
| ある。後年米国ボストン博物館館長として世界的に知られた。 |
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| このフエノロサにより初めて天心は古美術乃至一般の芸術に対する啓発開眼されて以来、さら |
| に日本人としてその祖先が遺した古美術研究には正確にして天才的感性とその意欲的研究心によ |
| り、わずか数年にしてフエノロサ以上の蘊蓄を極めるようになつた彼は、推古・天平・平安の仏 |
| 教美術の研究には特にその熱意を見せ、さらに時代を追うての究明は、やがて日本美術史を編綴 |
| するエポック的な創意ある仕事を完遂した。 |
| 殊に推古・天平の仏教美術に対する研究の結実を得た天心は、さらにその源流である支那にわ |
| たり、六朝・唐・宋の仏教美術をはじめその他の風物に接してみたい希望は以前からもつてい |
| た。その頃ふとした機会で、宮内省から西渤海を渡る突然の使命に恵まれた。その目的としての |
| 使命は幾多の古都視察、十三壇、天壇、孔子廟、白雲観または黒寺、黄寺の古寺巡礼をはじめ、 |
| 奥地の龍門の洞窟を調査索究したことは、天心にとつて大きな収穫であつた。また連山を背景と |
| した石馬、石人が一望千里の荒蕪の間に眠る当時の帝王のはるけき昔夢の威勢にうたれ、また大 |
| 行の山脈を仰ぎ、百余皮の炎暑の中を煙々たる砂ほこりにつつまれ、痩馬のあわれな穢苦しい馬 |
| 車に揺られながら、長途の難路にいささか生死の苦惨をなめた。前回の文中にのべた一雄のふと |
| ころから私は一通の支那便箋に認められた天心が一雄あての手紙を貰つたその手紙の内容は、こ |
| のときの消息で、いかにも天心が支那奥地へ向う苦難な旅の記行が生々しく興味深いもので、今 |
| 日天心の文献として貴重なものである。その内容を原文のまま掲載して、いかに天心の難渋の旅 |
| であつたことが首肯される。 |
| 今朝黄河を渡り、只今当地に着致し候。此手紙はこれまで連れまゐり候馬夫、北京に帰り候 |
| に付無覚束存候へども届け試み候。河南路も矢張り噂の通り、路悲しく、本道通ぜざる場所多く |
| 野となく丘となく参り候て、予算より二ケ月後れ候次第、此分にては帰朝二週間位後れる事と存 |
| 候。未だ目的の場所には至らず候へども、目新しきもの多く有之、旅の苦を忘れ居候。朝は午前 |
| 三時半に起され、四時半旅店を出で候。生玉子三つに、支那の鰻頭二つ。十一時頃昼飯。そうめ |
| ん、うどん一二杯に、豚の煮つけ、夜は七時半宿に着き、梁醸したる土臭き焼酎一二合ばかり、 |
| 豚肉を団子にしたるものか、豚料理二三種にて、粟の粥一宛、米は糠臭くして如何にも咽喉を下 |
| らず、且つ支那人として旅仕り候に付早崎料理の手ぎはを出す場合なし、是にて十時頃に相成休 |
| み申候、土間の隅に怪しく涼しきものから、煉瓦の上にアンペラを敷きたるものの上に毛布を布 |
| き寝をとり候。臭気不潔、夜は終日の疲れにてよく眠り候。この頃は余程慣れて、何んとも想は |
| ず相成り至極健全に御座候。床虫には困り候のみ、早崎は遅くまで起き居り、終始世話致してく |
| れ候。 |
| 道中は唯平原にて千里又千里の高梁相連なり、山とては西の方に見え候のみ、土砂馬に蹴立 |
| て、風強き日は前途見えず相成り候。先づ先づ御安心下され度候。 |
| 九月九日午后一時開封府にて。覚三 |
| 岡倉一雄殿 |
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「早崎は天心の教子、当時拾九才の美術学校一年生を同伴」 |
| 「文中支部人として旅行仕り候とあるは奥地に行く場合生命に危険なるため二人共支那服べンぱつの変装する。」 |
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| この難渋な奥地への旅行の最後の目標は、白楽天の遺跡香山寺や龍門の岩窟千仏洞その他の石 |
| 仏を研究することであつた。むろんそれより、なお奥地遠隔の敦煌更に進んで中央亜細亜の砂漠 |
| に埋れた仏教壁画や彫刻に大きな魅力を感じていたに相違ないが、それは宮内省から任命された |
| 一定の旅行日程や旅費その他の件で到底不可能のことであつた。 |
| その頃欧洲諸国の学者や日本の学僧なぞ同じく東西交通路の中間のまことに不便にして広大な |
| る砂漠地帯の多い未知の地域であった、中央亜細亜に埋没せる仏教遺跡に興味を寄せ、探索隊を |
| 組織された。日本ではまず京都西本願寺の大谷光瑞師が橘瑞紹師に探検隊を組織させて、敦煌を |
| はじめ新彊省にある幾多の古墳中の壁画を採収した。同じく仏蘭西の学者ぺリオ始め、スエーデ |
| ンのヘデイン、露西亜のオルデンブルグ・独逸のル・コツク、英国のスタイン等の学者が、中央 |
| 亜細亜より支那敦煌及び龍門の経路によりその地域の仏教遺跡や洞窟または塋域より、それぞれ |
| 学的炯眼により幾多の仏教彫刻や壁画を発掘して世界における亜細亜の貴重なる文化遺産として |
| 自国の博物館や美術館に蒐集されたのである。今日英、仏、独、印度等々の国立美術館に於て展 |
| 示されている特殊の存在理由はここにある次第である。 |
| この中央亜細亜の砂漠の中に埋没している古い寺蹟や古墳中から発掘せんとした東西の学者の |
| 興味については、天心は人一倍の興味を寄せていたことを推察される。もし天心をして光瑞師の |
| 組織せし探検隊に参加していたならば必らずや、その採収された幾多の仏教美術品としての貴重 |
| なる文化遺産の選定の上に芸術至上主義的な天心一流の見方をして秀れたものが蒐集されたに違 |
| いない。そうして英国のスタインや仏蘭西のぺリオ、或は独逸のル・コツクごとき世界的に発表 |
| したまことに立派な美術著書と同一水準上におかれ必らずや彼の独創的な名文解説により刊行さ |
| れ、世界的に秀れた有名著書として後世に記録されたに相違ない。そうして天心の炯眼により蒐 |
| 集された壁画や彫刻が必らずや日本の国立博物館にも婁々陳列されたことと思う。 |
| 昨春四月、私が京都東本願寺婦人会館の所要にて上洛したとき、幸いにして京都大丸デパート |
| にて西本願寺の宝物記念展を拝観した際、かつて光瑞師が採収された支那新彊省の古墳から発掘 |
| された壁画を見て懐しく興味深いものがあつたが今一点記憶にのこるのみで他に中央亜細亜系の |
| 文化遺産としてなんにも見出せなかった。以前に光瑞師の立派な西域記行の著書を閲見した中 |
| に、西域方面の宗教絵画や壁画彫刻の写真を多少散見した覚えがあるが、その前後とも光瑞師の |
| 採収された東亜の仏教美術として世界的に考証をもつ秀れた文化遺産の実物に接する機会がない |
| のはまことに遺憾である。 |
| 今夏ニユデリーの国立美術館で西域方面や中央亜細亜の発掘の絵画展刻が相当蒐集されている |
| ものを見て大いに参考になつた。とりわけ光瑞師の将来された新彊省古墳の壁画と同系の壁画を |
| 三点も見られ、ここに一層懐しく思つた。また敦煌の仏画として代表的な大作を数多く、閲見し |
| て得るところが多かつた。光瑞師一行の西域巡行は仏教的探検であつたらしく、また欧州方面の |
| 学者の古代仏教美術の探究とはその目的において自から相違していたかと思う。 |
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| 天心は永い間憧れの支那六朝隋唐の仏教美術研究を始め古い凡ゆる文化や大自然の風物さては |
| 種々なる民情を一応視察して帰国するや間もなく一年後に天心は更に仏教美術として、その淵源 |
| たる印度の領域に入り、まず仏陀に崇敬を捧ぐべく仏陀の遺蹟を巡杖することと、また仏教美術 |
| として有名なアジヤンター洞窟内の仏陀の一代記を描いた古代の壁画と彫刻や岩窟建築やエロラ |
| の古代洞窟始め印度国内にある知名な幾多の洞窟や寺院を巡遊して驚いたのは、現在の無気力な |
| 印度人は英国の植民地として悲惨な生活をしている低劣な民族であるが、この印度の祖先がかつ |
| て一つの洞窟や一個の寺院の建設のため千余年の星霜を閲みして、祖先累代幾十万人の量力を積 |
| み上げた高邁な熱情と叡智的信仰の結晶として世界に類例のない古代の印度人を顧みて感なきあ |
| たわずであつた。 |
| そうして天心は現在の支那、印度の大陸に生活する幾億の人口を有する大民族であるにもかか |
| わらず、その民族庶民の大半というより九分通りの人間が、いうまでもなく民族意識に欠け、困 |
| 窮にして文盲、低劣、まるで虫けら同然にして、文化を知らぬ原始的な、いとも惨めな境遇に蠢 |
| いている状態を視察した天心は、二千幾百年前に栄えた仏陀の時代を目前に想起して真に感慨を |
| 深めたのである。そうして心窺に思索にふけりつつ血の気の旺んな明敏にして侠気の燃ゆる熱情 |
| はやがて現実的な思想問題として結実を得たことは、先づ印度民族の覚醒を促すことであつた。 |
| そうして白禍の圧迫をしりぞけ亜細亜の民族の自覚共存の精神即ち天心創意の「亜細亜は一つな |
| り」をモツトーとした大きな信念であつた。 |
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| 彼は渡印後、最初に印度教の高僧スワミ・ビアカナンダと遭い、仏教の大乗小乗論の教をう |
| け、その深淵なる蘊蓄に敬意を表し、間もなくサンチニケタンの名家タゴール一族の知遇を得る |
| とともに、詩人にして音楽家として、広く知られたラビンドナース・タゴールと親しくなつた。 |
| 年令もタゴールは一つ上で、その思想や詩的感情と緊密に通ずる芸術的理解と共銘を深め、こと |
| に天心の「東洋の理想」又「亜細亜は一つなり」の燃ゆるような熱情に、衷心より敬意を表し、 |
| 心の盟友となった。この一族には、当時印度画家として知られたオポニンドナース・タゴールは |
| 純真にして熱情的な自己の性格からして同じく、同志の意気に感じ、また芸術的な理解の上にも |
| 一層親密となつた。特に天心は、このタゴール一族中の本家を相続する、青年スレンダ・ナー |
| ス・タゴールの清純にして熱意に充ちた学徒をひどく敬愛した。そうしてこの惨めな、印度民族 |
| に自覚の煥起を与へ、英国植民地としてのきづなをたち切るには熱意のある純真端的な、青年層 |
| の革新行動を俟つあるのみと考えた。彼はカルカツタに滞在中、異常な意欲をもつて「東洋の理 |
| 想」を脱稿した。その文章中に「白禍は東洋の上に拡大する」と述べ更に拝金主義の彼等に対し |
| て些少の批判をする意志に欠け、徒に盲従する亡国的な印度を悲しむ、と激情に溢れた文章を綴 |
| つて印度青年に反省と自覚を促している。 |
| この「東洋の理想」は印度教高僧の弟子として知名な英国人ニベデタ女史の序文を添えて、ロ |
| ンドンのジヨン・ムレーの手により発刊された。「亜細亜は一つなり」は天心を繞る印度革命青 |
| 年の間において生きた合言葉として知られた名言であつた。天心は心しづかに悠々と仏陀の遺跡 |
| の巡礼を続けながら、堪えず憂国の士のごとき熱血的な印度革命の指導者であり、主謀者的のよ |
| うな意図が見られた。 |
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| 天心の印度滞在中は支那巡遊の際と異なり、名門や王様の招待をうけたり、革命精神に燃ゆる |
| 幾多の印度青年達の招きにより、講演会に出席、或は「東洋の理想」の原稿などにて昼夜けじめ |
| なき心忙しさであつた。この忙しいうちにも、唐突とスレンダ青年と共に小形の象を借りて印度 |
| 大陸を巡遊するときは、いつも僧服を身につけ裸足であつた。また寺院を訪ねる時は、いつも印 |
| 度の習慣に倣ってドーテイを着けることも忘れなかつた。その間天心はマラリヤに罹つたり、旅 |
| 中貧しい印度食になれるまで困つたらしい然しいつしかマンゴ、パパイヤ、バナナ等々の熱帯の |
| 果物を常食にすることにも平気になり、山野に河川があればおのづから洗濯なぞもする、ともか |
| く難渋な旅にも、すつかりなれたらしい。 |
| 天心はヒマラヤ山麓の七千尺余の町に滞杖したという記録がのこつている。おそらく今の世界 |
| 避暑地として有名な山都ダージリングであろう。このヒマラヤ連峰を見てひどく感激したらし |
| く、信州の駒ケ嶽よりよほど雄大な二万数千尺の連峰が嶄然と屏立していると、口述している。 |
| そうしてこの壮厳玄妙な大自然に接しいささか驚いたらしい、そうして後日天心は縁あり、信越 |
| 国境の赤倉温泉にはじめて案内されたときは、恰もヒマラヤ連峰に白雲去来する幽韻なる詩情に |
| 感激したときと、同じく信越五峰の並立する雄大にして壮観なる風光に接して日本のような島国 |
| にもこんな雄大な景観を眺め驚きに接すると同時にそのすばらしさを讃え、すつかり気に入った |
| 。そうして必らずや、かつてのヒマラヤ連峰を想起したに違いない。おそらく天心、このときの |
| 感激と印象が、まず赤倉に山荘を営むことになつた原因に相違ないと思う。私は今夏印度に旅行 |
| したとき、この七千尺余の山都ダージリングに滞在して、老杉に囲まれた、全く妙高山麓の赤倉 |
| 高原の湿潤な山の空気と澄み透るような山気の肌さわり、無数の杉林が散在する景観はどうやら |
| 妙高山観に来たような懐しい錯覚すら起るのであつた。あの限りない雄大なるヒマラヤ連峰を仰 |
| ぐダージリングに行つて、始めて天心と赤倉のつながりを、はつきり感じ知ることができたよう |
| な気がする。(未完) |