天心と赤倉 \ |
印度に滞杖中の天心の行動と業績は天心自からも意外に考えられたほど問題化されたと思う。 |
まず仏蹟に跪拝を挙げ古代仏教美術を探究する唯一の目的が悲惨な植民地としての印度の庶民の |
生活にふれるや、また印度人の悶々たる欝積した苦悩を知るや、天心は恰も革命指導者のごと |
き、血の気に充ちた気魄の英雄になつたことである。 |
天心は最後に、その具体的行動としてまず印度の仏教党始め、東亜の広き全域よりの、仏教学 |
者と、仏教僧を、京都の東本願寺に招きて、亜細亜仏教大会を催して、漸次亜細亜連帯の思想統 |
一と民族革新の大きな理想を政治的に実現すべく献身的な努力と企図も、遂に失敗に終つた。こ |
の失敗は何処にその理因があつたのかわからぬが、おそらく英国政府をバツクとした国際関係の |
ために、天心の実際的な行動の上に左きな陰の力が阻害となつたことと見做される。 |
ガンジス河下流の東方に、チベラと称する小王国があり、そこのチベラ王国の補導役をしてい |
た待人タゴールは、そのチベラ王の宮殿に日本風の装飾画を有為な日本画家に依嘱した方がいい |
と考え、天心の帰朝を幸いに、その作画に適当たる作家の推薦方を頼んだ。 |
天心は帰朝するや、まず意中の大観と春草に遭って、その話をした。この二人の画家はチベラ |
国王の用命を喜んで諾了したと同時に、そのころの美術院は経済的にも意気の上にも、沈滞の極 |
に達していた頃とて、幾多の懊悩と、集燥を感じていた折柄とて、この二人は何か新しい天地に |
光明を見い出すような希望に燃え勇躍して渡印した。しかしチベラ王国の御用画も天心との師弟 |
関係の深い二人の画家に対して、いつしか心なき英国官憲の干渉と厭迫のため、遂にその目的の |
仕事も破調となり、一時は甚だ窮地に入つたが、幸い温い詩人タゴールや、画人アバニトラ・ナ |
ースタゴールとの深交を結び、芸術的なよりよき還境に蘇生感を覚えた。そうしてこの印度短期 |
の旅行中に宗教画的な、また象徴的な新しい画境を見い出した。明治四十二年度の文展第三回に |
出品した大観の名作「流燈」はべナレス方面のガンジス河畔の聖地にてヒントを得た画材で、大 |
観も春草も共に画境の上にいささか大きな意義ある新しいエポツク的革新性をもつた転換機を得 |
た。この二人の画人生活の生涯中に記録的なそうして凡べて意想外な旅行ではあつたが、しかし |
あくまで大観と春草に対し、天心の関係者として、その行動について絶えず英国官憲の警戒の眼 |
が光り、当初の希望や目的とは逆倒したため、決して心から愉快な印度滞在ではなかつたが、唯 |
だタゴール一族の人懐しい温容に浸つたことと、芸術的の雰囲気のうちに、朝夕心楽しく歓待さ |
れたことを想い出として、短い期間に無事に帰朝した。 |
× × |
天心の印度巡遊は八カ月余にして帰朝した。前述のごとく政治的な亜細亜仏教大会は失敗に終 |
つたが、学究的な印度探求の実質な見学諸項について、帰朝後間もなく東京帝国大学史学会講演 |
会において、その感想と、実質的な所説を発表した。従来印度研究の概ねの所説は凡そ英国学者 |
の見解に基いた定説のみであつたにもかかわらず、天心は印度における凡ゆる諸問題について、 |
他を顧ず遠慮なく端的にありのままの現況と、その真実を述べた。天心は列席者中の権威ある多 |
くの知名学者を前にして、特に印度における偉大なる古代仏教の礼讃と、その逆に現在の印度民 |
族の悲惨なる現状について深い同情と悲憤の言を卒直簡明に公にしたことが、多くの聴衆者に深 |
い感銘を与えた。 |
天心が二度日の渡印の目的は、ボストン博物館の依属により印度の古美術品を蒐集するための |
旅行であつた。天心のモツトとする「亜細亜は一つなり」の名言と革新的英雄としての彼の気魄 |
を慕う、古い知己や多くの友人或は青年層の人々の訪問にも、以前の気力を失い積極的に面会を |
辞した。それはその頃より持病の宿痾のために万事、何ごとも懶く思うままにならなかつた。こ |
のときの事情を簡単ながら青年スレンダラー・ナース・タゴールがその印象を直感的に記してい |
る。『岡倉は約束のごとく数年もたたぬうちに、カルカツタに到着するとの消息は大変うれしか |
つた。カルカツタの河港に船が碇泊するや、いそいで船の舷側の梯子を登つて甲板の上にて岡倉 |
を迎えた。岡倉は、その敏速なのに驚き喜びながら、唐突に岡倉の前に現われたスレンダラー青 |
年と手を握つた。しかしそのとき岡倉を一見したその容姿には別条なかつたがどうやら冴えた生 |
々とした以前の岡倉と違つた、妙に不吉な陰影をみとめた気がした。』また更に『岡倉はタゴー |
ル一族のいつもかわらぬ厚情と歓待の滞在に満悦に浸りながらも印度古美術蒐集の所要を済す |
や、なるべく知己方面の交友をも敬遠して、カルカツタ駅から汽車にて印度の中部を過ぎてボン |
ベイ港から欧州航路の便船に乗り英仏にも、旬日の滞在を経て、大西洋を渡り、ボストンに帰つ |
たが、カルカツタ駅より出発する直前、汽車の食堂にて見送る、スレンダラー青年その他の人達 |
と会食しながらも、どうやら岡倉は全く意気阻喪して、どことなく、もの憂げな容相を見たの |
で、「お気分がすぐれないようですが、如何ですか」と訊ねると、そのとき始めて「あなたは何 |
も知らなかつたのですね」と岡倉が淋しい、うすら笑いをして答えたのが最後であつた』と、天 |
心をこころから敬愛していた、スレンダラー青年が書いている。この頃から天心の宿痾の病勢も |
つのるのみにて、気候の変移する無理な世界旅行を続けたことも、一層宿命的な運命であつたと |
も考えられる。 |
今度私の印度滞在中に印度政府の文化協会の幹部委員やニユーデリの近代美術館長等々の人達 |
と面接したとき、これらの人達は相当の年輩者であった故か直接或は間接に偉大なる天心並にそ |
の門下の大観、観山、春草をよく知悉し、心から敬意を表していたことは、日本人としてのみで |
なく、天心の創設したその系譜に属する日本美術院の役員の一人としての、私には限りない悦び |
と昂奮を感じた。そしていろいろ不案内な旅行に便宜を与えられたことを感謝している。しかし |
戦後の印度民族は真実に英国の植民地から離れて立派に独立国となつたが、従来の印度国より東 |
西二つのパキスタンが分立国家として分離され、この両民族が、譬えその原因が宗教上の争覇で |
あつたとしても、今日なお、相共に国家感情が酷しく悪化対立している事実を通じて、かつての |
天心の「亜細亜は一つなり」或は印度民族の独立を提唱したことを想起して、いささかその今昔 |
の相違に無量感を覚えた。 |
× × |
天心の播いた東洋文化の種は、ひとり日本や印度のみならず、今日米国始め欧州方面における |
芸術上の日本ブームはいうまでもなく、偶然のことでなく、遡れば天心よりの、はるけき影響 |
が、今日に生々として、萌芽したことを、認められると思う。 |
現在欧米各都市の有名な国立美術館長や博物館長を始め、そのまた上司の文化総長級の地位を |
占める人達の多くは、かつて天心と研究上において、それぞれ囚縁の深い関係にあつた人運が少 |
くない。ともかく一国の文化事業を、直接掌握している人々である。 |
戦時中、日本の美術文化の中心地である京都や奈良の文化都市を米空軍の爆撃から救つた、天 |
心の門下生として最も敬愛していた米国人ラングドン・ウオナーも米国美術文化の代表として自 |
国の大学教授や博物館長の重職を経て米国文化の唯一の権威として知られ、また、ウオナーの門 |
下生として東洋文化の秀れた研究学者が幾多輩出して、今日ハーヴアート大学その他の学界や国 |
立美術館や博物館の主要な地位につき米国文化方面に大きな貢献をしている。 |
ここに天心の生涯中もつとも敬愛せる因縁の深い、また日本美術界の大恩人として、代表的な |
三人の外人を挙げねばなるまい。それは天心の大学時代からの師であり、また卓越した哲学者に |
して日本の文化指導の基礎を作つたフエノロサーと天心の後援者としての理解のある立派な人格 |
者であり、富豪にしてドクターのピゲローと、天心門下生として特に徳望とその人格を敬愛した |
第一者ウオナーである。 |
フエノロサーについては、大体前述に認めているので、まずウオナーという米国唯一の文化人 |
として多くの日本人に親まれ、また未だにウオナーの親友と称する人達が日本に、数人生きのこ |
つているである。彼は北米ニユーイングランドの名門に生れ父はハーヴアード大学総長であり、 |
ウオナーはハーヴアード大学卒業するや日本に来り、気生雄大な天心により東洋美術に対する啓 |
発開華され、同門の大観、観山、春草の画家群と特に親懇となり、朝夕はげしく親密に往復して |
いた。また天心と大学同期生の関係にて牧野伸顕伯にも知遇を得た。ともかく純真にして謙譲な |
るまことに正直なる温い人柄を、たれかれにも敬愛された。ウオナーはとりわけ天心の天才的線 |
の太い熱情的な学究に対して心より傾倒して、常陸の五浦海荘に屡々同伴した、更に赤倉山荘に |
も二度ばかり来荘した。 |
このウオナーは、まことに稀にみる心の真に美しい人柄であることは、京都奈良両市と鎌倉市 |
並に東京帝国大学及び上野公園の国立博物館と美術関係の諸建造物等の日本文化中の主要な文化 |
財を空爆から救つたことは間違いのない事実であるにもかかわらず、彼は全く、その真実を否定 |
して、私ごときものが、どうして米軍部の不動な方針に嘴を容れることが出来ますかと、いつも |
、まともにそれを否定していたようである。たまたま美術史学の権威矢代幸雄が戦後マツカサー |
司令部の文教部長へンダーソーン中佐よりその事情を聞いて東京朝日新聞に大きなニユースとし |
て掲載されたことにつき、ウオナーは真正面から親友矢代幸雄に喰つてかかつたとのことを聞 |
く、あれは全く自分のごときものの功名ではない、あれはマツカサー長官の命令であつたとして |
、決して自己の大きな功名をあくまで謙譲に真剣に否定するのであつた。そうして多くの日本人 |
は、ウオナーに感謝すればするほど迷惑に考え、更に感謝を表象する記念碑や銅像建設問題にも |
ウオナーは生前中あくまで承諾を与えるどころでなく、きびしく反対した。 |
ウオナーがあまりにまともからその事実を否定するので、その後よく調査してみると、戦争中 |
、ウオナーを中心とした米国の文化人達が世界の戦争地域における人海の文化保護のための文化 |
保存委員会を組織して、まず東西の広汎なる戦争地域の重要文化財リストを作製に集中して、更 |
に地図の上に重なる文化的要所をマークしてその方面の爆撃を中止させるように米国政府並に頑 |
強な軍部にその注意を喚起させることにおいて、その熱意が成功したのである。 |
日本爆撃に対する文化財リストを作りその要所に委細にわたりマークをして提出したのはいう |
までもなく、ウオナーを中心とした文化人の一派であることは、日本人として忘れてならぬ。全 |
く日本の大きな恩人であることが真実に判明されたのである。 |
ウオナーは昭和廿八年に米国における日本の第一流級の国宝のみを陳列した、日本美術展覧会 |
の開催の前年の八月、ウオナー夫妻は、宿痾の病気に悩まされながらも、その国宝展の国宝名品 |
選定方法につき、日本の当局者と協議のために、米国当局より派遣されて来朝した。その所要を |
済したウオナーは五十年来の親しまれた奈良、京都や法隆寺始め薬師寺、唐招提寺等を見て最後 |
の感慨に浸され、日本の多くの知人達の心からなる久濶の歓待も病気のため辞退して、ただ吉田 |
前首相の箱根に招待された際、吉田首相は牧野伸顕伯の女婿として以前よりウオナーの立派な人 |
柄を聞いていた、更に日本のため大きな恩人としてひどく感謝の意中を洩して、この炎暑の季節 |
に『貴方の病弱な御体で帰国されるのは無理です、貴方の好きな日本の秋を心ゆくまで湛能して |
秋もやや爽かになつた頃お帰りなさい、それまで貴方の好まれるところであれば、例え軽井沢、 |
日光、箱根等々のうち何処でもお選び下さらば、私共で万事そのようにいたしますから、どうか |
御遠慮なく私共にお任せ願いたい』と、吉田首相の折角の温い厚意も、謙譲すぎるほど遠慮深い |
ウオナーは、一つには逸早く帰国して自分の家にてゆつくり静養したいという意向で、無理なが |
ら帰米した。帰途カルフオニヤに農園を経営している夫人の舎弟ローズヴエルトを訪ね暫く滞在 |
してケンブリツジの我家に帰り引続き静養につとめたが、その翌年昭和廿八年六月、七十三才を |
期して惜しくも逝去した。この悲しい訃昔に接した、法隆寺管長佐伯良謙師の自発的建立の虔し |
い意企からウオナー記念塔を建立すべく管長並に法隆寺奉讃会会長細川護立両氏の名をつらね、 |
ウオナー塔供養会が催され、ウオナー命日の昭和二十八年六月九日の日附にして法隆寺境内の松 |
林の丘に建立された。ウオナーは心の古里として限りない懐しい法隆寺の五重の塔や蒼古たる法 |
隆寺の瓦の屋根が近くに聳え、剰えウオナーの好きな大和平野が一望に眺められるところに建立 |
された。 |
ウオナーの大著述として米国にて発刊された有名著書に、日本上代彫刻研究、推古彫刻、天平 |
彫刻。日本の芸術。因みにウオナーは特に日本上代彫刻に深い関心と研究に努めた、自ら天心の |
門下の新納忠之助翁に師事して本格の彫刻に精進を続けていた。 |
× × |
ビゲローはフエノロサと共に日本の美術に関する大きな恩人である。彼は富裕な家に生れハー |
ヴアード大学医学部を卒業しながら医業を好まず、日本に来遊してフエノロサと相共に日本の古 |
代美術の研究を重ね国宝保存会並に古社寺保存会の必要を力説してその方法に付き書類を文部省 |
に提出した。寛厚なる人柄は誰にも好かれ、彼自から巨大な財力をもつて日本美術の蒐集にも努 |
め、また当時は古社寺保存法という政府の負担にて修繕する予算もなかつたので、フエノロサや |
ビゲローが自らの私財をもつて聖林寺十一面観音の御厨子を建立したり、寄附金をもつて修築し |
ている。彼は殊に天心の大きな後援者でもあつた。天心は東京美術学校々長の職を去り、日本美 |
術院を創設の際ビゲローは当時として莫大なる金弐万円を寄附している。彼は駿河台に大邸宅を |
構え、当時の大家として狩野芳香A橋本雅邦その他、工芸美術方面の作家とも交り、日本美術の |
新興にも努めた。ビゲローという人は教養も高く人格的にも秀れ、ニユーイングランド系の立派 |
な紳士であつた。日露戦争の講和会議を開いたセオドラ・ローズヴエルトの親友で、ビゲローの |
帰国の際はいつもボストン市の彼の邸宅を訪ね、一夜を楽しく物語ることを慣例としていた。 |
という人物である。 |
ビゲローの蒐集した日本美術として国宝級の平治物語絵物(下巻)を始め二万六千点を悉くボス |
トン美術館に寄附した。また天心が帝室博物館の美術課長時代、館の購入予算の無いため自ら苦 |
労して買つた国宝級の平安朝の大威徳明王像の大幅を天心没後岡倉遺族のため自ら相当高価なる |
犠牲を払い、この大幅を求めるや直ちにボストン美術館へ『岡倉天心記念のため』として寄附し |
た、という美談が伝えられている。 |
フエノロサーがボストン美術館の東洋美術部第一部長として第二部長に天心を推薦した。フエ |
ノロサーが辞するや、第一部長として天心を推薦したのもビゲローであった。 |
× × |
日本美術のため、この三人の恩人のほかに米国人モースと、ウエルド等の人達も、それぞれ天 |
心と緊密な関係であつたことはいうまでもない。そうして当時の日本美術界にそれぞれ貢献した |
人々である。フエノロサが随分苦心して蒐集した日本の古美術品四万余点の、おびただしい数量 |
のものを、フエノロサ自身の或る家庭事情のため、経済的に行詰り同好の友人ウエルドにまとめ |
て割愛した。ウエルドは譲りうけたこのまとまつたコレクシヨンをそのままボストン美術館へ寄 |
贈した。ボストン美術館は東洋美術の代表的コレクシヨンとして世界随一を誇るその中核をなす |
ものは、ビゲロー、フエノロサの蒐集したものが寄贈されたのに加えて、更に天心を通じて日 |
本、支那、印度の古美術の蒐集されたものが今日その根幹をなしている。 |
× × |
このビゲローとフエノロサは、日本美術を通じて真に理解のある親日家であつて、当時帝室博 |
物館長町田久成の好意により、三井寺法明院の桜井敬徳阿闍梨を尊崇し、同師により信仰を得、 |
菩薩戒を授け、自ら仏教に帰依し、死後琵琶湖を一望にする山紫水明の環境である三井寺法明院 |
の草むした墓地の五輪塔の墓に、しづかに眠つている。この三人の米国人は皆ニユーイングラン |
ド出身であり、ハーヴアード大学関係のまことに秀れた立派な徹底的親日家であり、天心の生涯 |
中切つても切れぬ尊い関係者であつた。(未完) |