富山の文化的風土 10 - 郷倉千靱とアメリカB モダニズムの確認と東洋美術の再発見  
     
   メトロポリタン美術館(1870年)、フィラデェルフィア美術館(1875年)、ボストン美術  
  館(1876年)、シカゴ美術館(1879年)、フィリップス・コレクション(1918年)等々。19  
  世紀後半から20世紀初めにかけて、今日世界でも屈指のコレクションを誇る数々の美術館が  
  アメリカに創設された。郷倉千の渡米の主なる目的の一つが、当地の有名な美術館を巡っ  
  て、西洋美術の古今の名品を観ることだった。事実、彼が留学していた当時(1916〜17年)  
  、もはやアメリカの美術館はヨーロッパにも引けを取らない充実度を誇っていた。  
   郷倉千靱は、サンフランシスコに上陸すると間もなく、同市内の美術館を訪れる。その  
  一つ、前年開催されたパナマ博覧会会場跡に開館した美術館では、ロダンの彫刻にピカソ  
  のキュビスム期の作品、さらに光琳、山楽の日本近世絵画にも出合う。もう一つ金門美術  
  館(多分、ゴールデンゲート・パーク内のM.H.デ・ヤング記念美術館だろう)ではミ レー  
  をはじめとするヨーロッパ近代絵画の名作を堪能し、野外の彫刻公園でロダンの「考える  
  人」に魅せられる。以後、鉄道で大陸を横断し東部に向かう途中で、シカゴ美術館等にも  
  立ち寄った。そして、ニューヨークに到着するとメトロポリタン美術館へ、さらにボスト  
 

ンに足を伸ばしてボストン美術館へと、精力的に美術館を巡った。

 
 

 そうして千靱は、アメリカの美術のあり様を著書「北米ローマンス」に書いている。

 
   「米国は人種上から見ても、諸文化の陳列展覧会又は比較研究と云ふ特質を具えている、  
  そして益々新しいものをドシドシ取り入れる性質を持っている、(略)軈て欧州文明の輸入  
  が米国に於いて化合され還元されて、再び沈滞したる欧州文明に原生を注入するので、云は  
  ば米国魂の表現である」と。  
   千靱はその代表的画家として、ヨーロッパで活躍したホイッスラーとサージェントの名を  
  挙げている。その他、様々なギャラリーで開催されていた展覧会にも足しげく通い、印象派  
  、後期印象派からキュビスムに未来派といった当時先端の美術運動を、直接その目で確認し  
  ていった。そんな体験が、後の日本画家・郷倉千靱をモダニズムに導いた大きな要因になっ  
  たことは間違いない。  
   しかし一方で、アメリカでの体験が、若き千靱に古典的な日本そして東洋美術の魅力の再  
  発見を促すことにもなった。特に、岡倉天心らにより日本の古美術コレクションで有名なボ  
  ストン美術館を訪れた折、彼にも予備知識はあったというものの、その膨大な数に驚き、そ  
  れ以外の東洋美術コレクションの豊富さにも圧倒され、また心惹かれるのだ。  
     
   「現時殊に支那の古美蒐集法に就いては、それぞれ当局者はよほど注目している。印度の  
  歴史的絵画の内婆羅門、仏教神話伝説等の観念を主題としたものに洵に宜しい作があった。  
  殊に印度神話は希臘神話の如き架空的の神々の生話ではなく、厳粛なる自然と人間生活の深  
  い交渉を東洋人の独特なる神秘性を通じて、象徴的に描いたものに随分与えられたものがあ  
  った」  
   それから四十五年後、東本願寺大谷婦人会館の壁画を依頼された千靱は、改めて仏教美術  
  の真髄を求め、インドに旅立つのだが、時に七十歳になろうとしていた老画家が現地で数々  
  の仏画を目の前にして、若き日のアメリカが甦った瞬間があったのではないか。画家・郷倉  
  千靱にとってのアメリカ体験は、それほど大きい。  
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第10回「富山の文化的風土」2008年4月21日発行

 
     
     
     
 
Back